なかなか人前で語り合いづらい「コンプレックス」のテーマを、8人の学生で話し合いました。なかなか貴重だと思います。
💎 ねむいほうれんそう の コメント
【質問1】 今日の前半は、「コンプレックス」について、論議しました。
① 話題提供 「コンプレックスとどう向き合うか」 ② 1回目の各自の意見 ③バジルの議論参入 ④2回目の各自の意見 などを踏まえ、どのような議論だったかをまとめてみましょう。
A41枚程度でまとめる力をつけましょう。
今回は、コンプレックスとどう向き合うかについて話し合いました。 一回目の各自の意見(コンプレックスについてどう思うかなど)では、自分と他人を比較することで生じる、小中学生もSNSの影響でコンプレックスを持つようになってしまっている、多くの人がコンプレックスを抱えているからこそ芸人さんの容姿いじりが減っていった、SNSはコンプレックスについてついつい発言してしまう、昔指摘されてそれを覚えている人もいる、メイク動画などで見えてこなかったものが見えてしまう、といった意見が出てきました。また、ねぎさんが言っていた「五秒で直せないことは他人に言うな」という言葉はその通りだと思ったし、自分もそれを意識して過ごしていきたいと思いました。 そして一回目の私の意見は、大まかに三種に分けられるコンプレックスの中では、劣等コンプレックスが一番多いと思いました。それを踏まえて、本人の理想とかけ離れている状態であれば、いくら他の人が「大丈夫だよ」と言ったとしても響きにくいのではないかと考えました。 バジル先生の議論参入では、悩むことは当たり前である、気にしないようにする、弱点は長所になる、悩みは決して無駄ではない、ということを仰っていました。それを踏まえて、「コンプレックスを克服するには?」ということを話し合いました。 受講生の意見では、自分の弱点を認めてあげる、SNSで他人を気にしないようにする、日記をつけて「○○まではできた」と書くようにする、他人をほめた後に自分のことも褒める、人よりも笑顔でいる、努力で治せるものは努力しそうでないものは諦める、いったん自分自身のコンプレックスを客観視し、本当にそれが合っているのかを疑う、といった意見が出ました。 また、私の意見は、言えるコンプレックスと言えないコンプレックスに分けることから始める、ということを考えました。具体的には、言えないコンプレックスは思い出すことがあってもなるべく封印しておくこと、言えて且つ努力では直しようがないコンプレックスは開き直り、指摘された際には強い心構えで立ち向かう(私の場合、すれ違いざまに知らない人間が身長のことをボソッと言っていたら心の中で「うるせえ!!」と思うようにしています。でも近年は言われなくなりました)ということを述べました。 人によって乗り越え方が多様で興味深かったです。また、他の人もそれぞれコンプレックスを抱えながら生きていることを実感しました。普段このような話を語ることはないので、コンプレックスをかけている人が多いと聞いても実感せず、孤独感に苛まれる人は多いのではないかと思いました。なにもコンプレックスを言え、というわけではないものの、コンプレックスを持っている人が身近にいて交流できる機会があれば、もっと多くの人が孤独感から解放されるのではないかと思いました。 |
【質問2】今日の授業の良かった点を2点、改善すればもっと良くなると思った点を1点書きましょう。
〇パレスチナ問題(時事問題)を取り上げていて、生徒たちも聞いたことがあるものと関連づけていて良かった 〇プリントの裏面の最後で、「日本は難民を受け入れるべきか」という欄を作っており、授業を通して最後の場面で考えさせるというもので良かった |
△写真から読み取れることを複数人に聞くと、もっと良くなると思った。 |
【質問4】 バジルは、授業づくりについて語りました。どんなふうに語りましたか。
・黒板に日付と題名を書く ・写真などで導入を行う(例:何から逃げているのか、どのような服装をしているのか、など) ・そのページだけでなく、その章について勉強する ・小見出しを書き、図式も行う ・大事な箇所は色を変える ・板書ノートを作ってみて、指導案を書く。そうして説明できるようにする ・生徒に発問を行う ・話すときは目を見つめる |
【質問5】「パレスチナ問題」を、高校1年生がわかるように説明してください。
西アジアにイスラエルという国があります。パレスチナはそのあたりの地域で、かつてはユダヤ教を信じるユダヤ人たちが住んでいました。しかし、2000年ほど前にローマ帝国に滅ぼされてしまい、様々な地域に移り住むようになりました。また、それ以降のパレスチナはアラブ人(今でいうパレスチナ人)が住むようになりました。 それから時は流れ、ヨーロッパでキリスト教が広がるようになると、ユダヤ人はキリストを処刑した人たちと見なされ、迫害されるようになりました。迫害が続く中、19世紀にユダヤ人たちの中で「かつて王国があったパレスチナの地に戻ろう」という運動が起こりました。 現実化したのは第一次世界大戦のときです。戦いで苦しんでいたイギリスに、ユダヤ人たちは資金援助をしました。そしてそのお礼に、イギリスが「ユダヤ人の国家建設を支持します」と約束をしました。一見いいように聞こえますが、実は同じようなことをアラブ人たちにも行っていました。 そして1947年、ナチスの犠牲者になったユダヤ人への同情もあり、国連がパレスチナを分断してユダヤ人とアラブ人の国を作ることとなりました。しかしユダヤ側にも良い条件だったためアラブ側が拒否しました。それを押し切り、翌年にはイスラエルが建国されました。彼らは「祖先が建てた国に帰ってきた」と主張しています。自分たちの土地も取られたアラブ人たちは「勝手に建国するな」と怒り、第一次中東戦争が始まります。その後、何度も中東戦争は起こっています。 1993年のパレスチナ暫定自治協定でイスラエルによる占領地からの撤退を見返りに、1964年に作られたパレスチナ解放機構がイスラエルを承認するということがきまり、これを受けて1996年にパレスチナ自治政府が成立しました。しかしいまだに、エルサレムの帰属やユダヤ人入植地を巡って紛争が起こっています。
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