一方、政宗の相馬領通過を聞いた義胤は、牛越城にて評定を開いた。まず義胤が、


「此度の政宗の相馬領通過について、皆思うべきことを述べよ。」


 と言うと、岡田胤景は、


「此度の事は、政宗を討ち取る、またとない好機であります。それがしが大将となり夜襲をかけて政宗を討ち取ります故、これを機に当家は三成殿や景勝殿に味方すべきです。」


 と言い、水谷胤重は、


「政宗を討つことは簡単です。しかし、僅かな兵を率いて敵地の通過を依頼してきた政宗を騙し討ちにすることなど、武士としてあるまじき行為です。また此度の戦は、武勇、智略共に秀でた家康公が勝利すると思われ、政宗を討ってしまえば、当家はそのために家康公に滅ぼされてしまうでしょう。」


 と言った。それを聞いた義胤は、三成との友情と当主としての責任の間での葛藤はあったが、思い切って口を開いた。


「わしは胤重の意見に賛成である。駕籠の鳥の様な状況の政宗を討つのは卑怯である。また、わしは三成殿とは懇意とはいえ、七将が兵を挙げたときの三成殿の取り乱し様を考えると、三成殿は大将の器ではないと思う。此度は政宗の要求どおり、相馬領に政宗を一泊させ、無事に通過させようではないか。」


 こうして政宗の為に標葉郡の涼ヶ森にある花光院を宿舎とし、兵糧三百俵、大豆百俵を進呈した。政宗は義胤の厚意に感謝の意を伝えたが、政宗は兵糧については用意があるとして受け取らなかった。


 政宗の饗応役は、岡田与三右衛門が付いた。その夜、花光院の境内に馬が放たれ、警護の者も慌て騒ぎ出した。すると政宗は薙刀を持って供の侍と縁に出て、与三右衛門に、


「あの物音は何事か。」


 と聞くと、与三右衛門は、


「放馬の騒ぎがあっただけにございます。お気になさらないで下さい。」


 と答えた。


 その後、暫くして、警護の為に立て掛けて置いた百本ほどの槍が一気に倒れ、警護の者がまた騒ぎ出した。再び政宗は薙刀を持って供の侍と縁に出て、与三右衛門に、


「今度は何があった。」


 と聞くと、


「警護のための槍が倒れただけにございます。お気になさらないで下さい。」


 と答えた。政宗は与三右衛門に対し、


「この度の警護は、誠に神妙丁寧である。もし何かあれば伊達に来られよ。」


 と言い、自筆の証文と盃を与えた。


 寝床に戻った政宗は、笑いをこらえて独り言を呟いた。


「義胤め、今度はおぬしがわしを試すか。」


 この一連の騒動は、実は義胤がかつて宮森の道場で政宗に驚かされそうになった事を思い出し、与三右衛門に政宗を驚かすよう命じたものであった。後に与三右衛門は義胤に、


「政宗殿は常に堂々としており、さすがに大将の気性を備えておりました。」


 と伝えた。義胤はそれを聞き、政宗と三成を比較し、三成に味方しないことを決めた。


 次の日の朝、領内の案内役として、新館彦左衛門が政宗に付き添った。


 義胤は政宗の行列を牛越城から見物した。政宗は牛越城の近くに差し掛かると、金の三蓋笠の馬印を差し上げて、暫く牛越城を見上げていた。義胤は馬印を見ると政宗の存在に気づき、政宗が自分に礼を言っているように見えた。


 駒ヶ嶺の近くまで差し掛かると、彦左衛門に対し政宗は、


「ここまで大儀であった。ここから先は自領である故、道はわかっている。」


 と言い、脇差を与えて自領へ戻っていった。

 慶長五年、三成は豊臣恩顧の大名を集めて、家康を討とうと企んでいた。それに呼応した会津の上杉景勝は領内の城を補修し、会津に新しい居城として神指城の築城に取り掛かった。この動きに対して家康は、景勝に謀反の疑いありとして、景勝に上洛して申し開きをするよう促したが、景勝はこれを拒否した。この時、直江兼続が家康に送った書状が、俗に言う「直江状」である。


 「直江状」に激怒した家康は、景勝が謀反を起こしたとして、会津征伐の兵を挙げた。政宗は北方の信夫口から景勝の領土に攻め入るように命じられ、大阪より自領に戻る事になった。


 政宗は上杉領を避けて自領に戻る為に、かつての宿敵である相馬領を通らなければならなかった。政宗は小十郎に向かい、


「わしが相馬領に行けば、義胤は三成や景勝に味方し、わしを討とうとするだろうか。」


 小十郎は一笑して言った。


「義胤殿は義に厚く、卑怯なことが嫌いな事は、殿も良くご存知ではありませんか。それに義胤殿とて、此度の戦は家康殿が勝つことは解っておられましょう。僅かな手勢で相馬領の通過を願い出れば、義胤殿は無事に通して下さるかと思います。」


「では義胤は家康殿の味方になると言うのか。」


「いや、三成殿や景勝殿への義理もあります故、中立を貫くでしょう。そうなれば家康殿は三成殿と懇意であった義胤殿の所領を没収するでしょう。」


「そうか、それは寂しいのう。義胤とは戦で雌雄を決したかった。」


「では義胤殿に恩を売っておいては如何でしょう。殿のお陰で所領が安堵されたとなれば、いずれ殿が天下を狙う際に力になってくれるやもしれません。それがしが一足先に相馬領へ参ります故、殿は相馬領で一泊なされませ。」

「何と、長年の宿敵の領地に一泊せよと申すか。」


 それを聞いた小十郎はまた一笑し、


「それがしは一足先に相馬領に参りますので、殿は岩城境でお待ちください。」


 小十郎は相馬領の鹿島に着くと、牛越城の義胤に使者を使わし、


「この度、家康公の上杉征伐において、伊達軍は信夫口より攻める様に命令を受けて自領に戻ることになりました。上杉領を避けて自領に戻る為には、相馬領を通過しなければなりません。また兵士たちも大阪からの長旅にて疲弊しております。どうか相馬領にて一泊させて頂き、無事に自領までお帰しください。」


 と伝えた。


 また小十郎は盛胤付家老の佐藤左近と対面し、この度の戦は家康が必ず勝つので、相馬家は三成の味方をしないよう説得した。

 慶長三年八月十八日、秀吉が死去した。


 翌四年閏三月三日には五大老の一人、前田利家が死去した。これにより石田三成を憎む加藤清正・細川忠興・浅野幸長・福島正則・黒田長政・池田輝政・加藤嘉明の七将が、三成を討ち果たそうと兵を挙げた。


 その知らせを聞いた義胤は、真っ先に手勢を連れて三成の屋敷に向かった。


 三成は屋敷に籠っていたが、義胤を見ると、抱き付かんばかりに寄って来た。三成は、かなり取り乱して言った。


「それがしは豊臣家の為に、誰よりも尽くして来たつもりである。なぜそれがしが殺されなければならんのだ。」


「三成殿、しっかりなされよ。そのことはそれがしも十分承知しております。」


「そうであった。こういう時こそ、気を確かに持つべきであった。しかし義胤殿が味方してくれれば頼もしい限りだ。」


「いえ、戦にしてはなりませぬ。何とか事態を収拾させる方法を考えましょう。」


 そこへ佐竹義宣も手勢を連れてやってきた。


「おお、義胤殿も来られておったか。三成殿は我等でお守り致そう。」


 そこで三人は、いくら七将が猛将揃いとはいえ、女には手を出さないだろうと考え、三成を女駕籠に乗せ、宇喜多秀家の屋敷に行くことにした。


 秀家の屋敷に着くと、三成は、


「皆に迷惑は掛けられん。それがしは家康殿の屋敷に行く。」


 と言い出した。七将を影で操っていると言われる家康の懐に飛び込もうと言うのである。


 三成は、義宣や秀家の家老と共に伏見の家康の屋敷に向かった。


 三成を迎えた家康は、本多正信の、


「ここで七将に三成を討たせれば、彼らをさらに増長させることになりましょう。」


 と言う助言に従い、閏三月七日に、三成に騒動の責任を取らせ佐和山に蟄居させた。


 三成を討つことが出来なかった七将は不満を抱えたまま、八月中には各々の領地に戻った。義胤も三胤を大阪に置き、小高へと戻った。