慶長五年、三成は豊臣恩顧の大名を集めて、家康を討とうと企んでいた。それに呼応した会津の上杉景勝は領内の城を補修し、会津に新しい居城として神指城の築城に取り掛かった。この動きに対して家康は、景勝に謀反の疑いありとして、景勝に上洛して申し開きをするよう促したが、景勝はこれを拒否した。この時、直江兼続が家康に送った書状が、俗に言う「直江状」である。
「直江状」に激怒した家康は、景勝が謀反を起こしたとして、会津征伐の兵を挙げた。政宗は北方の信夫口から景勝の領土に攻め入るように命じられ、大阪より自領に戻る事になった。
政宗は上杉領を避けて自領に戻る為に、かつての宿敵である相馬領を通らなければならなかった。政宗は小十郎に向かい、
「わしが相馬領に行けば、義胤は三成や景勝に味方し、わしを討とうとするだろうか。」
小十郎は一笑して言った。
「義胤殿は義に厚く、卑怯なことが嫌いな事は、殿も良くご存知ではありませんか。それに義胤殿とて、此度の戦は家康殿が勝つことは解っておられましょう。僅かな手勢で相馬領の通過を願い出れば、義胤殿は無事に通して下さるかと思います。」
「では義胤は家康殿の味方になると言うのか。」
「いや、三成殿や景勝殿への義理もあります故、中立を貫くでしょう。そうなれば家康殿は三成殿と懇意であった義胤殿の所領を没収するでしょう。」
「そうか、それは寂しいのう。義胤とは戦で雌雄を決したかった。」
「では義胤殿に恩を売っておいては如何でしょう。殿のお陰で所領が安堵されたとなれば、いずれ殿が天下を狙う際に力になってくれるやもしれません。それがしが一足先に相馬領へ参ります故、殿は相馬領で一泊なされませ。」
「何と、長年の宿敵の領地に一泊せよと申すか。」
それを聞いた小十郎はまた一笑し、
「それがしは一足先に相馬領に参りますので、殿は岩城境でお待ちください。」
小十郎は相馬領の鹿島に着くと、牛越城の義胤に使者を使わし、
「この度、家康公の上杉征伐において、伊達軍は信夫口より攻める様に命令を受けて自領に戻ることになりました。上杉領を避けて自領に戻る為には、相馬領を通過しなければなりません。また兵士たちも大阪からの長旅にて疲弊しております。どうか相馬領にて一泊させて頂き、無事に自領までお帰しください。」
と伝えた。
また小十郎は盛胤付家老の佐藤左近と対面し、この度の戦は家康が必ず勝つので、相馬家は三成の味方をしないよう説得した。