二代将軍となった秀忠は、ある時、大名衆を集めて江戸城にて酒宴を開いた。秀忠は利胤を試し、利胤に対して、
「政宗に杯をすすめよ。」
と言った。驚いた利胤は中座し、土井利勝を呼び、
「それがしの父は政宗と不仲であり、いくら上様のご命令とあれども、お受けすることは出来ません。」
と言い、利勝は秀忠にそれを伝え、その場は無事に済んだ。
またある日、政宗は井伊直孝の仲介で利胤と和解しようとしたが、この話を聞いた利胤は、
「相馬家は伊達殿のお陰で本領を安堵することが出来ました。その事に関しては感謝しておりますが、伊達は相馬にとって長年の仇敵であるため、私的に和解することは出来ません。」
と断り、伊達との敵対関係を貫いた。
ところがその利胤は、寛永二年九月十日に四十五歳の若さで他界した。
残された利胤の嫡子である六歳の虎之助は、奥州中村藩の二代藩主となり、義胤はその後見役となった。
虎之助は佐竹義宣より「義」の字を貰い、祖父と同じく「義胤」と名乗った。義胤は老体に鞭を打って同じ名の孫を補佐した。
そして寛永十二年の冬、八十八歳の義胤は危篤に陥った。義胤は、十六歳になった孫の義胤に次の遺言を残した。
一、幾度登城するといえども、始めての御礼の様に慎むべきこと。
一、弓馬は侍の嗜む所、読書は諸用の本、いずれがかけてもゆくゆく不足となろう。
一、内の者に恥じよ。
また、孫の義胤の近習や小姓などに対しても次の遺言を残した。
一、行儀などは乱すべからず。万稽古の時、別の雑談は無用である。読書勤学の時は、下々がそれぞれ好む書物などを開いて見るのも後々役に立つもの出る。
一、奉公の儀を心掛けるのは、主人の為、身の為にもなるであろう。生を享ける物は苦の無いことはあろうはずがないのである。
一、主人と雑談の時は、気分のはずみで卑しい調子を出すべきではない。世間話などもよく考えてからお話致すべきである。
こうして最後まで相馬領と家臣・領民を思い、寛永十二年十一月一六日に義胤は静かに息を引き取った。戒名は蒼霄院殿外天雲公大居士と名づけられ、人々からは外天公と呼ばれた。
義胤の遺体は、遺言により遺体に甲冑を着せ、伊達家の領地である北側を向けて、小高の同慶寺に葬られた。義胤は死後、相馬領の守護神となったのである。
一方の政宗も寛永十三年の春に病にかかった。その年の五月一日に病を押して江戸城に登城し、三代将軍の家光に謁見した。家光は五月二十一日に政宗の屋敷に見舞いに行ったが、その三日後の五月二十四日に息を引き取った。義胤の死後、半年のことである。
こうして両雄の死去により、長年にわたる義胤と政宗の長い戦いは終わったのである。
(完)