丁度その頃、家康の家臣・本多正信が下野国結城で鷹狩りに出ていることを聞き、密胤は門馬甚右衛門を正信の元へ遣わした。


 甚右衛門は正信に今までの経緯を涙ながらに話し、正信は、


「それがしは江戸に戻ったら評議を行い、家康公に注進したいと思う。そなたらは江戸へ行って旗本衆を通して言上されよ。」


 と伝えた。


 やがて密胤たちは江戸に到着し、法華宗の寺を宿舎とした。密胤はその寺の住職と懇意の旗本・藤野宗右衛門に取り成しを願った。


 宗右衛門は、


「お話は承りました。他にこの話を家康公に言上できる譜代衆の知人は居りませんか。」


 と密胤に尋ねたが、密胤には譜代衆の知人はいない。そのとき門馬吉右衛門が、


「若殿、それがしに心当たりがあります。どうかそれがしを殿の元に遣わして下さい。」


 と言うので、密胤は吉右衛門を義胤の元へ遣わした。


 義胤の元に戻った吉右衛門は、義胤に対して言った。


「殿、旗本の島田次兵衛という方を覚えておりますでしょうか。以前、秀次公の関白就任の折、白洲に控えて暑さを堪えていた島田殿に、日傘に使われるようにと円座をお貸したではありませんか。」


「確かに覚えておる。しかしそれはかなり昔の事で、島田殿は覚えておるであろうか。」


「今では島田殿は奉行職にあります。殿の事を覚えて下されば、きっと力になって下さると思います。どうか島田殿に書状をお書き下され。」


 と吉右衛門が強く勧めるので、義胤は島田次兵衛宛てに書状を書いた。


 吉右衛門は書状を江戸に持ち帰って密胤に渡し、宗右衛門を通して次兵衛に届けた。


 次兵衛は義胤の事を覚えていた。次兵衛は密胤の宿舎を訪ね、


「あのときのご恩は忘れておりません。それがしからも本多正信殿に相馬の事をお願致しましょう。」


 と密胤に伝えた。


 下野で甚右衛門の話を聞き、次兵衛の訴えを受けた本多正信は、家康に相馬家の処遇について相談した。


 家康は相馬の処遇について大いに迷い、長年の宿敵と知られた政宗を呼んだ。


 政宗は小十郎と供に家康の元を訪れると、家康の脇には本多正信が控えていた。


 家康は政宗に尋ねた。


「実は義胤の倅が江戸へ来て、今回の仕置きに対して訴訟を起こしておるのじゃ。上杉征伐の折、そなたが自領に戻る際、相馬領に一晩泊まり、もてなしを受けたというのは誠か。」


「はい、義胤は愚の付くほど実直で、卑怯な事を人一倍嫌う男です。それがしが僅かな手勢しか連れていなかったので、それがしを泊めてくれたのでしょう。義胤が卑怯な男であれば、それがしは夜襲にでもあって討ち取られていたでしょう。」


 それを聞いた正信が口を開いた。


「なるほど、政宗殿を襲わなかったと言う事は、石田殿や上杉殿の味方をしなかったと言う事ですな。」


 それを聞いた政宗は、笑顔を浮かべて言った。


「義胤が三成や景勝と通じていたかは分かりませぬが、訴訟に倅を遣して来るとは、相馬も覚悟を決めておる様ですな。改易となれば、また一揆が起こるでしょう。その時はそれがしが鎮めて見せます故、その際はそれがしが相馬領を頂きましょう。」


 家康は呆気にとられたが、気を取り直して再び政宗に尋ねた。


「相馬家は将門公の子孫と聞いているが、それは誠か。」


「真偽の程は分かりませんが、相馬家の旗印は、将門公以来の繋ぎ馬であり、毎年将門公伝来の『野馬追い』なる神事を行っているそうです。」


 政宗はさらに笑顔を浮かべて言った。


「なんと家康殿ともあろうお方が、将門公の亡霊を恐れておられるのですか。」


「そのような事は無い。少し興味があっただけじゃ。」


 家康は声を荒げて言った。


 実際は、家康は将門公の亡霊を恐れていた。というよりは、信仰していた。家康は将門公を祀る神田明神で関が原の戦勝祈願を行い、また江戸城築城の際には神田明神を江戸城の鬼門の方角に移し、江戸の守り神とした。


 政宗が帰った後、家康は正信に言った。


「政宗め、あやつは何を考えておるのじゃ。義胤は政宗を助けのだから、相馬の改易は考え直そう。」


「殿、ここで相馬を助ければ、きっと殿の為に忠誠を尽くし、伊達への押さえとなりましょう。ここは相馬の改易を取り消すべきかと思います。」


 正信の薦めもあり、家康は孫の家光誕生の恩赦として、相馬の改易を取り消すことにした。

 慶長六年は相馬家に不幸が続出した。まず三月には義胤の弟である郷胤が亡くなった。四月には三胤の妻が亡くなり、十月には義胤の父、盛胤が亡くなった。しかし翌七年はさらに相馬家にとっての危機が訪れたのである。


 慶長七年五月、義胤は苅野沢にて野馬追いの神事を行っていた。当時の野馬追いでは現在の「甲冑競馬」や「神旗争奪戦」等は行われず、騎馬武者が野性の馬を敵に見立てて追い込み、妙見社に奉納するという軍事訓練の要素が強いものだった。現在の野馬追いの三日目に小高神社で行われる「野馬懸」が当時の野馬追いの形を残している。


 その野馬追いの神事の最中に、佐竹義宣からの飛脚がやってきた。義宣からの書状には、佐竹は関が原の合戦にて石田三成に通じていた為、常陸の領地を没収され、秋田へ転封となった事と、義胤も同罪として所領を没収され、佐竹の家臣として秋田領内の一万石が配分される事が書かれていた。


 義胤は野馬追いの神事が終わると、一族・家臣を牛越城に集めて、書状の内容を話し、皆の意見を聞いた。皆が驚いて静まり返っている中で、三胤が口を開いた。


 「父上、それがしは納得がいきませぬ。我が相馬家は、三成殿の味方をした訳でも、三成殿に通じていた訳でもありません。佐竹殿の家臣となって秋田に行くよりは、江戸に上って訴訟し、相馬家の潔白を証明し、家康殿の直参として相馬の名を残したいと思います。」


 それを聞いた義胤は、


「三胤、よく言った。わしも此度の仕置きには納得がいかなかった。そなたは江戸に上って訴訟して参れ。」


 こうして三胤は、名前を「密胤」と変えて江戸へ向かう事となった。お供には門馬甚右衛門・門馬次右衛門・原近江・門馬吉右衛門など十六人が選ばれた。


 江戸に向かう途中、密胤は思いがけない人物と再開した。泉胤政である。胤政は密胤が領地没収に対して江戸に訴訟に行く話を聞き、直江兼続がしきりに止めるのも聞かず、上杉景勝に暇を申し受けて江戸へ向かっていたのである。


 一方、泉胤秋の婿である泉胤政は、相馬家を出奔して上杉景勝の家臣となっていた。胤政は牛越城の普請の際に公儀の奉行と胤政の奉行が喧嘩をしたために追放されたとされているが、義胤が直江兼続の為に秘密裏に派遣したのかもしれない。


 慶長五年九月、胤政は直江軍に加わり最上境にいた。合戦の初日は、直江軍の総指揮は佐井道二が執ったが、人数に勝る直江軍は最上軍を攻めあぐね、勝負は付かずに終わった。


 その日の夜、胤政の元に同じく上杉に仕えていた石川光昌や、義胤の勘当を受けて相馬から上杉家に仕えた滝迫日向がやってきた。


 その時、胤政とその従者たちや日向は、


「今日の戦は相馬流の配備で戦っていれば、きっと勝つことが出来たであろう。人数に頼って敵を恐れているから勝てなかったのだ。」


 などと話していると、それを聞いた光昌は、


「なるほど、確かにその通りである。それがしが兼続殿に話してみよう。」


 光昌は兼続にそのことを話すと、兼続は喜んで答えた。


「相馬は伊達の侵攻を受けても侵されず、常に勝利を収めていると聞いている。その戦を知っている者がわが軍にいるとは心強い。明日の合戦は泉胤政に頼むことにしよう。」


 こうして胤政は明日の合戦で直江軍の指揮を執ることとなった。胤政は相馬では千人ほどの指揮を任されたことはあったが、直江軍は一万人を越える大軍である。大軍を指揮する自信は無かったが、相馬の名を汚してはいけないと思い、思い切って引き受けた。


 翌日、出陣の前に滝迫日向・金沢備前・小栗内膳の三人を呼び、貝、鐘、太鼓の各鳴物を誰が鳴らすかを決め、鳴物によって軍勢の進退を合図することとした。


 やがて合戦が始まり、直江軍の先鋒、滝迫日向が十間乗り出すと最上軍の先鋒、九戸備後も十間乗り出すと言う駆け引きが数度繰り返された。


 胤政は九戸備後が出ている間は勝てないと思い、敵が入れ替わるのを待った。やがて敵が入れ替わる様子を見せ、九戸備後も見えなくなったので、「今が好機」と法螺貝を吹かせ、鐘や太鼓を叩かせ、泉勢百十九人を率いて突撃すると、佐井道二や他の諸将たちは胤政に続き各々の軍勢を指揮して、最上勢に一気に打って掛かった。


 敵が混乱した所を、更に直江軍は競って突き進んだ為、やがて敵は壊走した。敵が逃げた先に城があり、直江軍はその城を包囲した。


 兼続はこの勝利に喜び、兼続自らが胤政に対して、総大将とも変わらぬ馳走を用意した。また胤政の元には祝いの品や手紙が殺到した。


 しかし城を包囲している最中に、関が原にて石田三成が敗走したという知らせが入った為、直江軍は城の包囲を解いて米沢へ引き返した。


 兼続は胤政の軍功に対し、六万石の城主に取り立てるつもりであったが、結局は関が原の敗戦により叶わなかった。