一方、泉胤秋の婿である泉胤政は、相馬家を出奔して上杉景勝の家臣となっていた。胤政は牛越城の普請の際に公儀の奉行と胤政の奉行が喧嘩をしたために追放されたとされているが、義胤が直江兼続の為に秘密裏に派遣したのかもしれない。


 慶長五年九月、胤政は直江軍に加わり最上境にいた。合戦の初日は、直江軍の総指揮は佐井道二が執ったが、人数に勝る直江軍は最上軍を攻めあぐね、勝負は付かずに終わった。


 その日の夜、胤政の元に同じく上杉に仕えていた石川光昌や、義胤の勘当を受けて相馬から上杉家に仕えた滝迫日向がやってきた。


 その時、胤政とその従者たちや日向は、


「今日の戦は相馬流の配備で戦っていれば、きっと勝つことが出来たであろう。人数に頼って敵を恐れているから勝てなかったのだ。」


 などと話していると、それを聞いた光昌は、


「なるほど、確かにその通りである。それがしが兼続殿に話してみよう。」


 光昌は兼続にそのことを話すと、兼続は喜んで答えた。


「相馬は伊達の侵攻を受けても侵されず、常に勝利を収めていると聞いている。その戦を知っている者がわが軍にいるとは心強い。明日の合戦は泉胤政に頼むことにしよう。」


 こうして胤政は明日の合戦で直江軍の指揮を執ることとなった。胤政は相馬では千人ほどの指揮を任されたことはあったが、直江軍は一万人を越える大軍である。大軍を指揮する自信は無かったが、相馬の名を汚してはいけないと思い、思い切って引き受けた。


 翌日、出陣の前に滝迫日向・金沢備前・小栗内膳の三人を呼び、貝、鐘、太鼓の各鳴物を誰が鳴らすかを決め、鳴物によって軍勢の進退を合図することとした。


 やがて合戦が始まり、直江軍の先鋒、滝迫日向が十間乗り出すと最上軍の先鋒、九戸備後も十間乗り出すと言う駆け引きが数度繰り返された。


 胤政は九戸備後が出ている間は勝てないと思い、敵が入れ替わるのを待った。やがて敵が入れ替わる様子を見せ、九戸備後も見えなくなったので、「今が好機」と法螺貝を吹かせ、鐘や太鼓を叩かせ、泉勢百十九人を率いて突撃すると、佐井道二や他の諸将たちは胤政に続き各々の軍勢を指揮して、最上勢に一気に打って掛かった。


 敵が混乱した所を、更に直江軍は競って突き進んだ為、やがて敵は壊走した。敵が逃げた先に城があり、直江軍はその城を包囲した。


 兼続はこの勝利に喜び、兼続自らが胤政に対して、総大将とも変わらぬ馳走を用意した。また胤政の元には祝いの品や手紙が殺到した。


 しかし城を包囲している最中に、関が原にて石田三成が敗走したという知らせが入った為、直江軍は城の包囲を解いて米沢へ引き返した。


 兼続は胤政の軍功に対し、六万石の城主に取り立てるつもりであったが、結局は関が原の敗戦により叶わなかった。