天正十八年八月九日、秀吉は黒川城に入城し、奥州の仕置を決めた。
大崎・葛西・石川・白河などの所領が没収され、蒲生氏郷に会津・岩瀬・安積など四十二万石を与え、葛西・大崎の三十万石が木村吉清・清久親子に与えられた。
芦名義広は、盛重と名を変えて会津の回復を願い出たが、叶えられずに常陸の江戸崎に四万五千石を拝領した。岩城常隆は、小田原に参陣したが陣中で死去した為、岩城の地は佐竹義重の三男である岩城貞隆が入嗣して受け継いだ。
残念ながら義胤の元には、政宗に奪われた新地・駒ヶ嶺の地は帰って来なかった。
この話を聞いた義胤は、愕然とした。政宗が己の野心の為に沢山の血を流して侵略した会津・岩瀬・安積などが呆気なく没収され、西国の大名に引き渡されたとなると、義胤は何のために政宗と戦って来たのだろうかと思い、空しくなった。
もし義胤が政宗に降伏していれば、石川・白河などと同様に所領は没収されていたかもしれない。義胤の「相馬が滅びようとも政宗と戦う。」と言う決意が、相馬の地を救ったのである。
その後、大崎・葛西にて一揆が勃発し、政宗がこれを扇動した疑いが掛かったが、うまくごまかし、政宗と氏郷が一揆を鎮圧した。秀吉は木村親子の領地を没収し、大崎・葛西の地を政宗に与え、代わりに長井二郡と田村郡・安達郡・信夫郡・伊達郡・刈田郡の五郡を没収し、五十二万石とした。政宗より没収した地は氏郷にあたえ、九十二万石とした。
やがて氏郷が病没し、幼少の嫡子・秀行には九十二万石を治めるのは難しいとされ、秀行は宇都宮十八万石に減封され、没収した会津は上杉景勝に与えられた。
義胤はその後、豊臣家の大名として秀吉に仕え、石田三成や佐竹義宣、上杉家の直江兼続らと交流を深めた。
義胤の嫡子・虎王は元服の際、三成が烏帽子親になり、三成の「三」の字を貰って「三胤」と名乗った。三胤は芦名盛重の義理の妹を娶り、三胤と盛重は義兄弟となった。
加えて、義胤は自分の娘を佐竹義重の三男、岩城貞隆に嫁がせ、相馬と佐竹は重ねて親類となった。
また、慶長三年に義胤は居城を小高城から牛越城に移した。