天正十八年五月十四日、義胤の元に、弟の隆胤が戦死したとの急報が届いた。
隆胤は中村城代であり、中村城の妙見曲輪には盛胤が隠居していた。
隆胤は相馬を裏切った佐藤為信や黒木宗元を許すことができず、黒はばき衆(忍者)を雇って、
「小斎城代の佐藤為信が駒ヶ嶺に来るか、駒ヶ嶺城代の黒木宗元が小斎に行くときを知らせよ。」
と命じた。
しかし、その情報は伊達方へ筒抜けだった。金で雇われれば、どの大名の仕事も引き受ける黒はばきを、政宗は既に手懐けていたのである。
天正十八年五月十三日に、雇った黒はばき衆より、
「佐藤為信が今夜駒ヶ嶺に来ています。明日の朝早々に帰ると聞きました。」
との報告があった。
喜んだ隆胤は、翌日に手勢を連れて中村城を飛び出していった。しかしそれは敵の計略だった。小斎・金山・新地・坂元・亘理より加勢を頼み、伏兵を忍ばせた黒木宗元が、手薬煉を引いて待っていたのである。
その計略を察知した盛胤は、すぐに中村衆・黒木衆を出陣させ、自らも出馬したが、敵の軍勢の多さにどうする事も出来ず、味方は壊走した。
この時、隆胤は逃げる途中に小堀を飛び越えようとして落馬し、敵の餌食となって討ち死にした。隆胤が戦死した場所は童生渕と呼ばれている。これは隆胤が逃げる際に、愛馬の「斑」に対して、「どうしよう、斑。」と言った事から、そう呼ばれたと言われている。
義胤は政宗に新地・駒ヶ嶺の領土を奪われ、今度は大切な弟までも奪われたのである。義胤の政宗に対する怒りは、頂点に達した。
政宗は会津を侵略した後も、自分の伯母である二階堂盛義の後室・大乗院の治める須賀川を攻めた。兵の数に勝る政宗は須賀川の城下を火の海とし、二階堂家を滅ぼした。この時の戦死者の霊を慰めるために須賀川では今でも「松明あかし」の祭りが行われている。
その後も政宗は伯父である石川領主・石川昭光や白河領主・白河義親を旗下に加え、岩城常隆とも和睦した。こうして南奥州で政宗に敵対する勢力は、相馬のみとなった。