天正十七年五月十七日、義胤は常葉城攻めの為、大越城に入ると、岩城常隆は鹿俣に出陣した。常隆が先陣となり、義胤が後陣となって戦う事に決まった。
常隆が城を攻撃すると、城中の敵も打って出てきた為、常隆は暫く戦って引いた。その後は義胤が弓、鉄砲を入れ替えて攻め立てたが、敵も一歩も引こうともしないので、義胤は真っ先に飛び出し、
「一歩でも先へ踏み詰めよ。」
と呼びかけ、貝を吹いて声を挙げた為、相馬勢は一気に敵を突きたてた。
「懸かれ、懸かれ。」
と声を張り上げると、手土周防、早川下野、西内善右衛門、成田五兵衛などが我先にと突いて入り、散々に攻め立て、敵を城中に追い込んだ。城中の面々は余りの激しい攻撃に、暫く鳴りを潜めていたが、相馬勢の戦いを見て奮起した岩城勢も再び攻め込み、敵は散々に追い散らされた。
義胤が大越城に引き上げた所に、盛胤よりの急報があった。なんと政宗が駒ヶ嶺城を包囲したとの事だった。義胤が総軍を引き連れて田村を攻めている隙に、抜け殻となった相馬領の北方を攻め、芦名との決戦のために相馬を足止めしようとしたのである。
「おのれ政宗、なんと卑怯な!」
義胤は叫んだ。思えば政宗と運の尽きるまで勝負するつもりで、総軍を引き連れて田村へやって来たが、政宗は正々堂々と戦いを挑んでくる男では無かったのである。
義胤は、田村攻めは岩城常隆に任せて、残して来た父盛胤や、年老いた相馬の兵を思い、天正十七年五月十九日未明に大越より帰陣した。しかし途中の標葉郡新山の前田川を渡る時に駒ヶ嶺落城の知らせがあった。
急いで小高に戻り、新地城の援護に向かおうとしていた所に、今度は五月二十一日に新地城が落城したとの知らせがあった。
政宗は、新地・駒ヶ嶺方面と飯樋・草野方面の二方向から侵攻してきた。飯樋・草野は義胤の弟の隆胤が救援に向かい、攻めてきた伊達家臣の川俣城主・桜田元親を追い払ったが、新地・駒ヶ嶺は盛胤の奮戦も空しく政宗に奪われてしまった。