義胤が大原山の砦に入ると、田村の重臣である赤石沢美濃は岩井沢に陣所を設けて義胤を迎え、自らも義胤に随従した。


 また、大越顕光の居城には堀内胤政の率いる加勢を入れた。しかし日が経つにつれてその疲れを思い、木幡政清・経清父子に中郷の騎馬を付けて交代させることにした。


 天正十六年六月上旬に木幡父子は七百人余りを連れ、岩城領を経て淺川城にかかると、田村月斎の三男右馬助が陣屋を張って、大越城への通路を妨げていた。


 木幡父子はこれを避け、日暮れの後に険難を越えて大越に辿り着いた。


 大越顕光は木幡経清と対面して言った。


「最近は目立った戦もなく、空しく時を過ごしておるが、田村の領地は今後どうなってしまうのだろうか。」


 暫く沈黙が続き、続けて顕光は言った。


「今回の交代を契機に、木幡両将が先端を開き、淺川を攻められよ。木幡両将には人数二千に騎馬二百があり、周囲には目立った敵もない。淺川の陣所を破れば、政宗も出陣し、義胤公もご出馬されるであろう。この時こそ、木幡両将の働きにより、相馬と伊達の勝負に決着をつけることができるであろう。」


 それを聞いて経清は言った。


「なるほど、それはご尤もにござる。我等父子がその口火を切りましょうぞ。」


 早速木幡父子は淺川の陣所を攻めた。城に近づいてみると、敵は大木を積み重ねて守りを固め、容易に攻め入れそうになかった。


 木幡経清と木幡作助は城下の谷道を迂回しようとすると、敵は城中から鉄砲を討ち掛けてきた。二人は降って来た鉄砲をかわして城内を伺うと、敵は大石や大木を転がして押しつぶそうと待ち受けていた。


 そこで、味方は正攻法を取り、木戸口から一気に攻め込んだ。木幡経清、堀内胤政、中村右兵衛、室原文六郎などが一気に押し寄せた。敵の抵抗も激しかったが、相馬勢は一歩も引かず、ついに城中の敵は次々と逃げ去っていった。


 この時討ち取った首は三百二級と言われ、敵に大打撃を与え、凱歌を挙げて大越の本陣に退いた。


 しかし政宗は来なかった。天正十六年六月、常陸の佐竹義宣が会津の芦名義広を助ける為、政宗打倒の兵を挙げたことを聞き、田村に兵を残して引き上げていった。


 義胤は木幡父子と交代に門馬胤景に北郷五十騎を増加し、七十騎の騎馬を率いさせて大越城に入れた。その後も義胤は岩井沢の陣所で時を過ごした。


 ある時、岩城常隆から急報があり、大越顕光が伊達に寝返ろうとしていた事が露見した為、鎌田河原でその首を刎ねた事と、常葉城の動きが不穏である為、共に攻めるべきであるとの事を知らせてきた。

 引き上げる途中に、相馬派の大越甲斐は義胤に、


「伊達派の田村月斎、橋本顕徳の屋敷に押しかけて家族を人質とすれば、やむなく城を引き渡すと思います。」


 と進言したが、義胤は、


「男の居ない屋敷に押しかけて女子供を人質とするのは恥である。敵が強襲してくれば潔く切腹するまでである。」


 と言って受け入れなかった。


 実はこの後室の計略は、すでに清顕の母の手紙を読んだ政宗に見破られていて、伊達派の者に、


「家中が分裂しないように三春城には相馬の者も伊達の者も入れるな。入ろうとしても攻撃して打ち払え。」


 と入れ知恵していたのである。相馬派の田村梅雪、田村清康も計略の露見を恐れて、止むなくこの意見に従ったのである。


 この計略の失敗が周囲に知れ渡る事により、周りは敵だらけとなってしまった為、義胤は這う這うの体でその日の内に岩城境まで逃げ帰った。


 翌十三日、政宗がとうとう大森城より出陣し、築山城を囲んだ。しかし岡田直胤は戦おうとはせず、静まり返っていると、政宗は軍勢を今度は大越に進めた。


 大越城には泉田雪斎とその嫡子胤清、岡田与三右衛門、藤田紫庵、中村右兵衛などの標葉衆の四十騎、総勢四百人が籠城し、政宗の攻撃を待っていた。


 五月十五日、政宗は大越城の攻撃を開始した。片倉小十郎や国井新左衛門などの猛者が次々と攻めかかってきたが、弓、鉄砲で応戦し、泉田父子の活躍もあり、何とか城は持ちこたえ、政宗は本陣小浜の宮森城に帰陣した。


 五月十八日はの夜は嵐となり、峰を焼く様に稲妻が落ち、雷鳴が谷に轟き、雨は激しく降り注いだが、築山、大倉、石沢、百目木に籠る面々は相談し、


「もはや殿が引き給うた後は、城中にとどまって命を捨てるよりは、この雷雨に紛れ出て逃げ延び、長く殿に奉公した方が良いと思われる。」


 と考えて、次々と城より忍び出て行った。


 義胤はまだ諦めてはいなかった。行方郡の大原山に砦を築かせ、田村への前線基地とした。


 また義胤は富岡の夜ノ森で岩城常隆と会見し、伊達家打倒を誓い同盟を結んだ。こうして相馬も佐竹・芦名を中心とする伊達家包囲網に加わったのである。


 その際相馬と岩城の境に桜を植えたが、そこは現在でも桜の名所となっている。


 ちなみに「夜ノ森」とは相馬、岩城の双方が領有権を主張して、互いに「余の森」と言った事に由来すると言われている。

 ところで、なぜ田村家臣がそこまで相馬を慕っていたかと言うと、天正十二年の頃、塩松の大内定綱の使いとして大内久庵が義胤の元にやってきて、


「政宗は塩松や二本松を押し詰めて、旗下にしようとしております。願わくは、塩松と二本松を相馬の旗下にお加え頂き、団結して伊達を滅ぼしましょう。そうなれば伊達の領土は義胤殿のものとなりましょう。」


 と従属を願い出た。義胤は家臣たちと相談し、


「彼らの狙いは田村を滅ぼす事と考える。その為に田村の婿である政宗が邪魔なのであろう。我々は何の遺恨も無いのに叔母婿を滅ぼすことは出来ない。」


 と話し、返答には、


「誠に有難い事であるが、伊達とは先日の和睦以来、この頃は争う事も無い。また田村は叔母婿であり、我々に遺恨は無い。我々は好んで争いを起こすつもりは無いが、もし伊達から約束を破ることがあれば、その時は考えよう。」


 と言って久庵を帰した。それを聞いた田村の家臣は、相馬を慕う様になったのである。


 義胤は石沢城に泉胤政(胤秋の婿)の四十騎を籠らせ、大倉城には泉田雪斎の五十騎を、百目木城には相馬衆二十騎を、船引城には青田不曲(新館胤治の弟)に標葉衆をつけて置いた。また、相馬派の田村家臣、大越顕光も自らの手勢六百人をもって大越城に籠った。


 そして義胤は築山城に入って政宗を待ったが、政宗出陣の知らせは一向に聞けなかった。


 そこで義胤は五月十一日に新館胤治、中野勘右衛門、杉七左衛門の三人を使者として三春城に遣わし、義胤が後室の見舞いの為に登城する旨を田村家へ申し入れると、後室は大変お喜びですとの返事があったので、三人の使者は三春の屋敷に泊まり、翌日の十二日の早朝に再び登城した。


 応対したのは田村家の本田因幡であった。胤治は、


「昨日も申したとおり、本日義胤公はご後室のお見舞いの為に登城されます。もうすぐご到着されると思いますので、ご後室にお知らせ下さい。」


 と言うと、昨日とは打って変わって本田因幡は血相を変え、


「そなたらは計略をもってこの城を奪うつもりか。早々に城を出られよ。」


 と言うので、胤治は、


「どうして袴掛けで参ったものが城を取りに来るか。今に義胤公が参られるからよく見よ。」


 と言い合っているうちに、相馬派の田村梅雪が現れて、


「余計な問答は無用じゃ、早く城を出られよ。」


 と胤治に告げた。


 すると隣の部屋から具足を着ける音や、弓を素引きする音なども聞こえてきた為、身の危険を感じた三人の使者は真っ先に逃げたが、


「三人を逃がすな、追え。」


 と追っ手が向かってきた為、門を出た所で胤治は門番に向かって、


「こう言う時は門を閉めて海老錠を下ろすべきだ。早く門を閉めよ。」


 と言うと、門番は門を閉めて海老錠を下ろした。しめたとばかりに三人は城を下り、義胤と合流した。胤治は事の仔細を義胤に話していると、城内から鉄砲の雨が降ってきた。この時、袴掛けで無防備だった御供の者十五騎のうち三人が打たれて死に、二人が負傷した。


 義胤の馬も首を打たれて死んだ為、家臣の馬に乗り換えた。御供の御不断衆五十人も付いて来ていた為、御不断衆は鉄砲で反撃した。


 攻撃が止んだため、義胤は搦め手から城へ入ろうとしたが、門は堅く閉ざされていては入れそうにない。そこへ政宗派の者が義胤を鉄砲で狙った為、御供の江井胤治が盾となって打たれて死んだ。