慶長三年八月十八日、秀吉が死去した。


 翌四年閏三月三日には五大老の一人、前田利家が死去した。これにより石田三成を憎む加藤清正・細川忠興・浅野幸長・福島正則・黒田長政・池田輝政・加藤嘉明の七将が、三成を討ち果たそうと兵を挙げた。


 その知らせを聞いた義胤は、真っ先に手勢を連れて三成の屋敷に向かった。


 三成は屋敷に籠っていたが、義胤を見ると、抱き付かんばかりに寄って来た。三成は、かなり取り乱して言った。


「それがしは豊臣家の為に、誰よりも尽くして来たつもりである。なぜそれがしが殺されなければならんのだ。」


「三成殿、しっかりなされよ。そのことはそれがしも十分承知しております。」


「そうであった。こういう時こそ、気を確かに持つべきであった。しかし義胤殿が味方してくれれば頼もしい限りだ。」


「いえ、戦にしてはなりませぬ。何とか事態を収拾させる方法を考えましょう。」


 そこへ佐竹義宣も手勢を連れてやってきた。


「おお、義胤殿も来られておったか。三成殿は我等でお守り致そう。」


 そこで三人は、いくら七将が猛将揃いとはいえ、女には手を出さないだろうと考え、三成を女駕籠に乗せ、宇喜多秀家の屋敷に行くことにした。


 秀家の屋敷に着くと、三成は、


「皆に迷惑は掛けられん。それがしは家康殿の屋敷に行く。」


 と言い出した。七将を影で操っていると言われる家康の懐に飛び込もうと言うのである。


 三成は、義宣や秀家の家老と共に伏見の家康の屋敷に向かった。


 三成を迎えた家康は、本多正信の、


「ここで七将に三成を討たせれば、彼らをさらに増長させることになりましょう。」


 と言う助言に従い、閏三月七日に、三成に騒動の責任を取らせ佐和山に蟄居させた。


 三成を討つことが出来なかった七将は不満を抱えたまま、八月中には各々の領地に戻った。義胤も三胤を大阪に置き、小高へと戻った。