アンパンマン考 10 将来の娘と自分へのメッセージ
娘の何気ない質問から始まった「アンパンマン考」ですが、幼稚園児の娘に分かるような内容ではないですね。
でもそのことは自分でもよく分かっています。
しかし、だれかのために、時間を掛けて、努力をし、何かを残す、という事をしてみたかったのです。
これは手編みのセーターを編んだり、手作りケーキを作ったりすることと同じことで、私には書くことしかできないので、こういった形になっただけなのです。
絵が上手ければ、似顔絵を描いていたし、詩が書ければ、歌でも作っていたでしょう。
まあ、時期もクリスマスシーズンなので、クリスマスプレゼントということにしたのです。
でも、こんなクリスマスプレゼントは喜ばないだろうけど……。
勿論、ケーキも買うし、クリスマスブーツやプレゼントは他にも用意はしてあります。
でもモノではない、「何か」形に残るものを娘のためにしたかったのです。
そして、娘からは絵をもらいました。
ひらがなとカタカナがあやふやですが、そこがまたいいんです。
手作りっていうのはいいですね。
やはり、お返しは何か自分で作ったもの(今回は書いたもの)がいいと思った。
そして切っ掛けは、「アンパンマン考の1」に書いたように、5歳の娘からのフトした疑問。
これは、いい。子供の疑問に答えるというプレゼントがあってもいいのでは、と思いついて書き始めました。
思い立ってからは、いろいろ調べて、書き綴ってみました。ただいつものようにどんどん膨らんでまとまりのないものに。
でもそれでもいいと思っているんです。
時間をかけて、頑張った、というのが重要なんですから。
それに、クリスマスまでにというのにも少々訳があります。
クリスマスから年末年始にかけては、どっぷりと仕事に浸かってしまいます。
娘が寝ている早朝には家を出て、娘が熟睡している夜に帰ってきます。だから、この時期は起きている娘の顔を見ることはあまりなのです。
それが毎年続くのです。
だからクリスマス、年末年始のイベントの日は、家族とはほとんど一緒に過ごせないのです。
そんな私に娘は何も言わないですが、きっと寂しい思いをしているはずです。(というか自分が寂しいんですけどね)
クリスマスに家族と過ごすなんて、子供が小さいうちだけでしょうから、(年頃になったら彼氏や友達と過ごすでしょう)いまのうちにそれができないのですから、一生、自分の娘と聖夜を祝えないということになるのでしょうか。
しかも12月24日は私の誕生日!
私の人生にとっても、娘の人生にとっても「5歳のときのクリスマス」というのは、もう二度とないんですよ。
あとになってから「聖夜の楽しい思い出」がないというのは寂しいことです。
そして、いま何気なく送っている月日は、実は「かけがえのない黄金の日々」なのかもしれない。
そんなことを最近思っていたのです。
そんなとき、娘が私のヒザの上に座って「アンパンマン」を見るながらいったのが、あの質問だったのです。
これは、書くしかない。自分の出来る限りの労力を使って、という思いで書いたのです。
だから「アンパンマン考」はある意味娘への手紙みたいなものです。
「じゃー、ブログなんかに書かないで、内々でやってろよ」って言われそうですね。
でも、ブログはただの日記でない、新しい記憶貯蔵装置みたいなものだと思っています。
いま家族や子供の写真を載せ、家族の出来事をブログに載せている方かなり多いですよね。あれは、きっと後になって読み返したときに、きっといい思い出となっているはずです。
それは、家族にとってものすごい価値のあるものとなるはずです。
そして、そのときになって、「あーあの時こんなことを考えていたんだ」と思い起こすことになるんです。
だから、「アンパンマン考」はいま幼稚園児である娘には分からなくてもいいんです。将来、娘が大きくなり、ここに書かれている内容が分かるようになったら、そのときに「そんなこと考えていたんだ」と分かってくれればいいということなのです。
映画「マディソン郡の橋」では、死んだ親の手紙と日記を、成人した子供達が見つける、というところから物語が始まります。そのときに初めて、親に起こった出来事を知ってゆくという話の設定でした。
(趣向としてはこんなものにしたかった)
そして、いつかは、娘も「アンパンマン」を卒業していく。
(画像は、お気に入りのアンパンマンの茶碗。きれいに食べると、底からアンパンマンが見える、そんなことでも喜んでいました。)
そんな娘も小学校に入ったら、アンパンマンも見なくなってしまうでしょう。
それは成長したという証でもあるわけです。
嬉しくもあり、ちょっと寂しいような気もします。
でも、将来いつの日にか、娘も結婚して、子供ができたときに、その子と一緒に「アンパンマン」を見ることになるでしょう。
そう、いまの私と同じように。
そのときに「アンパンマン考」の真の意味が伝わればいいんです。
では、最後に「アンパンマンのテーマ」の歌詞を掲載して終わります。
アンパンマンは自分の心の中の善と悪の戦いである、というのを思いながら読むと、かなり心に響きます。
女優の柴咲コウさんが、ある番組で辛い時に勇気づけられた曲として「アンパンマン」の曲を紹介していました。
この歌詞の深い内容に共感できるということは、彼女の感性は鋭いということですかね。
「アンパンマンのマーチ」
【作詞】やなせたかし
【作曲】三木たかし
『 そうだ うれしいんだ
生きる よろこび
たとえ 胸の傷がいたんでも
なんのために 生まれて
なにをして 生きるのか
こたえられない なんて
そんなのは いやだ!
今を生きる ことで
熱い こころ 燃える
だから 君は いくんだ
ほほえんで
そうだ うれしいんだ
生きる よろこび
たとえ 胸の傷がいたんでも
ああ アンパンマン
やさしい 君は
いけ! みんなの夢 まもるため
なにが君の しあわせ
なにをして よろこぶ
わからないまま おわる
そんなのは いやだ!
忘れないで 夢を
こぼさないで 涙
だから 君は とぶんだ
どこまでも
そうだ おそれないで
みんなのために
愛と 勇気だけが ともだちさ
ああ アンパンマン
やさしい 君は
いけ! みんなの夢 まもるため
時は はやく すぎる
光る 星は 消える
だから 君は いくんだ
ほほえんで
そうだ うれしいんだ
生きる よろこび
たとえ どんな敵が あいてでも
ああ アンパンマン
やさしい 君は
いけ! みんなの夢 まもるため 』
実に「深い」歌詞です。
歌詞の中にある「アンパンマン」を自分や自分の子供、または大切な人などに置き換えてみてください。そうすると、わたしたちへの「応援歌」のように聞こえてくるから不思議です。
ということで、これで「アンパンマン考」はおわり。
以上が、2007年のクリスマスに考え、思ったことでした。
アンパンマン考 9 人はなぜ悪をなすのか
アンパンマンについての9回目ですが、今回は善と悪について。
一連の記事を書いているときに、長崎佐世保で銃の乱射事件が起こった。
「散弾銃乱射事件の現場となったスポーツクラブ「ルネサンス佐世保」前の献花台には、16日も親子連れなどが相次いで訪れ、花を手向けて倉本舞衣さん(26)と藤本勇司さん(36)の死を悼んだ。
「今までありがとうございました」「天国からスイミング見ててね」。献花台には、メッセージを添えた花束が次々に供えられた。
佐世保市の早田佳代子さん(44)と圭志君(11)は親子そろって同クラブの会員。倉本さんの教え子だった圭志君は「(事件を知って)びっくりした。優しい先生だった」。佳代子さんは「事件の前日もあいさつしたばかりでした。あってはならない悲惨な事件で、今でも信じられません」と涙をぬぐった。 毎日新聞12月22日の記事
また、香川では祖母・孫姉妹の殺人事件も起こった。
「香川県坂出市のパート従業員三浦啓子さん(58)と孫の姉妹計3人が遺体で見つかった事件で、三浦さんの義弟の川崎政則容疑者(61)=死体遺棄容疑で逮捕=が、闘病中の妻(今年4月に死亡)への見舞金を病室から無断で持ち帰ったり、「治療費がかかる」と妻に嫌みを言ったりしていたことが、関係者の話でわかった。県警の坂出署捜査本部は同容疑者が金銭に異常に執着する性格だったとみて、動機解明のため、近親者から事情聴取を進めている。」
残虐な犯罪は後を絶たない。しかも犯人は短絡的な思考で犯行に及んでいる。
なぜ人はこうも簡単に残忍な犯罪を起こすことができるのか、と考えさせられた。
そんなとき、一連の「アンパンマン」の記事で「善と悪」について書こうとした際に、『人はなぜ悪をなすのか』(ブライアン・マスターズ著、草思社)という本を見つけた。題名に惹かれて読んでみた。
なかなか読みごたえのある本だった。
古今の連続殺人鬼や猟奇事件をおこした犯罪者、それにナチスのユダヤ人虐殺を取り上げ、人間はなぜ悪を行うのかを考察している。その犯行が詳細かつ冷静に書かれているので、読んでいて辛いところもある。しかしこの本は、残虐趣味で書かれたものではなく、彼らの「人間性」や「心の中にある善悪」を言及しているのである。著者がもし日本人だったらきっと「神戸小学生殺傷事件」や「女子高生コンクリート殺人事件」などを取り上げているだろう。また悪人とは正反対の善人たちも取り上げていて、人間の悪と善について論考している。
では、すこし抜粋してみましょう。
『人間は本性的に善であり、学習によって悪をおこなうようになると主張する人もいれば、これと正反対のことで、悪とはわれわれ人間の生まれた宿命であり、たえずそれに対処することによってしか悪に打ち勝つことはできない、と固く主張する人もいる。」「悪とは、城壁の外から都市を包囲する軍隊ではない。悪とはもともとその町に住みついていたものである。悪は守備範囲内の反乱であり、飲み水の中の毒であり、パンの中の灰である」(英国作家チャールズ・モーガン)。悪は内部にあるものだと認めながらもモーガンは、悪とは、まさにこの認識という行為をもって立ち向かい、武装解除しうる相手だということをわれわれに納得させようとしている』
善と悪は同居している。善に関するものをアンパンマン、悪に関するものをバイキンマンと置き換えてみれば分かり易くなります。
また『人間には二面性あって、善人が悪鬼となる危険性が常にある』と言っています。『一人の人間がいい性格あるいは悪い性格のいずれか一方を独占的にもっている、などといいはる人はいないはずである。
妻殺しのクリッペン博士は、あらゆる人間関係においてつねに暖かい、思いやりのある、無私の心を持って行動していたという。その彼が情婦と駆け落ちするために、自分の妻を情け容赦なく殺して遺体をバラバラにした。人間の二面性を持ったクリッペンの公判記録の序文にはこう書かれていたという。「人間の道徳性という領域は平坦な平野ではない。そこには山もあれば谷もあり、低地もあれば高地もある。また、ある種の荒々しい岩もそびえ立ち、恐ろしいほど荒涼としている」人間性の複雑さ、すなわち、いかなる人間の中にも善の力と悪の力が共存しており、それが、しばしば、あい反する性格を引き起こす』
『万人の胸の中にはたえず二つの衝動が同時に存在する。一つは神に向かう衝動、いま一つは悪魔に向かう衝動だ』とボードレールを引用していました。やはり、人の心の中では善と悪とが戦っていることになる。
『哲学の専門家でもないかぎり、自分の影についてじっくりと考えるなどということはだれもしたがらないものだし、そのしたくないという気持ちの根底にあるのは恐怖心である。われわれは自分の中にある悪魔を恐れている。というのは、ひとたびこの悪魔の欲求に気付き、それに耳を傾けたとき、それを制する能力が自分にあるかどうかを疑っているからである。だからこそ、そうした悪魔的な力について、あたかもそれが自分の外にあって客観的に見ることができるかのように語る方が容易なのである。パブやクラブの夕食の席で、最近起こった恐ろしい殺人事件について延々と語り合ったりするのは、この悪魔の存在を認識するかわりの代替行為の一つである。実際われわれは、偽装された内省、自分自身にもわからないように偽装された内省への逃げ道として、また一つ新たに起こった殺人事件を歓迎しているのである。
意識下においてわれわれは、抑制と放縦、常態と変態、拘束と解放とのあいだの衝突がたえず自分の内部で起こっていることに完全に気付いている。(この「たえず」というのは日常的にという意味ではなく、人生におけるさまざまな危機に際してという意味である)極端な抑制は機能停止につながり、放縦は過剰につながる。また。このわれわれの二重性を構成しているあい反する要素間の緊張の度合いがあまりにもわずらわしいものとなり、そのため、われわれはそれを押し殺そうとし、また、たいていの場合、うまい具合に押し殺してしまう。新顔の大量殺人犯がマスコミに登場すると、そのおかげで、抑えつけられていたわれわれの内なる論争に比較的危険性の少ない、客観的公開討論の体裁が与えられるのである。』
と、今のマスコミ報道に群がる大衆心理も書いてありました。
この本には、悪に屈伏した殺人鬼たちが次々登場します。欲望の暴走を抑えることが出来ずに、獣的行為を行った連続殺人鬼の悪行を読むと、背筋が寒くなります。その残虐者の多くの者たちに欠如しているのが、「欲望を抑える自我」です。この抑制を育てるのが「子供のころの教育」にある、というのです。この本に限らず、「アンパンマン考」を書くにあたり、読んでみた本には必ず「幼児期の教育」の重要性を説いています。やはり「幼児期の情操教育」は重要だということでしょうか。
では「人はなぜ悪をなすのか」からその辺りを抜粋してみましょう。
『人に優しくしたり、愛他的になろうとするには情緒的技術を身につける必要がある。他人との生産的かつ温かい関係を築く、情操の形成。人格を形成し思いやりのある気質を身に付けるうえで、友愛とこころの結びつきである「共感」が重要である。』
『自分が愛される存在だと自覚することによって、人は慈悲深い人間になる可能性を伸ばし、道徳的な人間に成長する自由を手にすることができるが、そうした自覚がもてなければ、慈悲深い人間にもなるチャンスはまずない。とはいえ、自分が愛される人間だと自覚するだけでは不十分である。その一つがものごとを達成しようという欲求で、たとえそれが親密な家族内においてであろうと、何かをうまくやりたい、人に認められる人間になりたいという欲求が満たされることによって、自尊心の種がまかれるのである。情愛や共感と同様に、こうした力の相互関係はほぼ循環的ものである。他人を尊重しようという情動的意欲を身につけるにはまず自分自身を尊重しなければならないし、また、他人にたいする配慮なしには、自分自身について十分に考えるということもまずありえない。しかし、それでもなお、道徳的に均衡のとれた性格に向けて成長するかどうかは親の責任だ。』
『子供は、愛されているかぎりにおいては安心感を抱いていられるものであるが、自分が評価されていないように思われるときには、あたかも受けるに値しない愛を受けているかのように失望することがある。自分のもっている能力と得られた結果とのあいだにこうした食い違いが生じた場合、それによっては、何年にもわたって憤懣がくすぶり続け、まったく予想もしていなかった状況において突発的にその報復が起こることがあるからである。過小評価されている子供は、一般に、自分は父親や教師や学校の友達から絶えず不当に扱われているが、それについて腹を立てたりしてはいけないと思っている。というのは、いずれにしても自分はある種の愛を与えられているのだし、それで満足すべきだ、と考えているからである。そうした欲求と満足感を明確に意識するようになるにつれて初期的な罪悪感を生じ、子供は、恩知らずと思われることを恐れ、その恨みをまったくの他人に向けるようになる。』
と、親として耳の痛い話もありますが、自分の子供が凶悪犯人にならないためには肝に銘じておかなければならない話ではないでしょうか。
人間には善と悪の二面性があって、どちらに転ぶかは、その精神力にかかっているからです。
今度は善に関するものを抜粋してみます。
『道徳的規定は、善行と悪行のあいだに優位を競う争いを解決してくれるものであり、したがって人間の幸福には必要なものである。これがなければ、われわれは、自分自身との戦いの中でたえず動揺する自我を解体しまうはずである」「よいおこないをするということは容易なことではない。それには、努力と戦いと熟練が必要である。聖パウロは「悪に屈してはならない、善をもって悪を打ち破るのだ」といった。」
『安らかな安定した心の持ち主、自己抑制がある。』
『人間の善に境界があるわけでもなく、また地位も関係ない。人間の善は、予想外の場所、意外な人に姿を見せるものである。』
『英知とは、人間の価値を認識し、人間の邪悪性をはねつけることである。それは、明晰な頭脳と勇気をもち、人間の特性につきものの危険性に気付きながらも、決然として、喜びをもたらす仕事に身を挺することである。英知とは、何ら英雄的なことを成しとげないこともありうるのである。英知とは、往々にしてもの静かで人目につかないものである。』
『明確な思考にもとずき、積極的に愛を与える行為の中に善があるというのであれば、人類の歴史を飾る真の聖人の数は、悪行を成す人々の数をはるかに上回るはずである。しかし、必ずしもそうは見えないかもしれない。というのは、悪人の行状のほうが、平凡な善行のともなう静かなつつましやかさにくらべて、意気盛んで人目につきやすいからであり、また、その及ぼす影響もより劇的なものになるからである。さらに、悪人のおこなう行為は人の心を不安にするものを生み出し、人間の特質を開花させる善は、気づかれることもなく、探られることもなく、われわれの身近にひっそりと流れているものなのである。』
いい言葉の数々が心に沁みます。善を成すことは難しい、しかし、心の中で善は悪に屈しないようにしたい、それが願いです。
ユングは「人間は、だれもが、罪深さと高潔さというあい反するものをもっており、この両者のあいだの緊張感から精神をはたらかせるエネルギーの全体が生まれる」と説いている。
欲望は人にとって生きていくための活力となっているのも事実です。
しかし暴走する欲望を抑えるものも必要なのです。
それが自我=アンパンマンなのです。
善と悪の戦いは常に心の中で行われています。人間の中には消すことのできない悪の側面もあるのです。重要なのは、善が悪を飼いならしている状態にしておくこと。
要はこういうことです。
画像はアンパンマンがバイキンマンを背負って飛んでいます。
一番最初に戻って「なぜアンパンマンとバイキンマンは戦い続けるのか」という娘への疑問には「(娘が)生きている限り戦い続けるんだよ。バイキンマンに負けないように、心の中のアンパンマンを応援しょう」と答えました。
娘は分かったような、分らないような顔をしていました。それでも、「アンパンマンのクリスマススペシャル」を見て喜んでましたね。
もうそんなことはどうでもいいことだったのかもしれません。
ただ、物語を楽しめばそれでいいということなんです。
さて、「アンパンマン考」も次でやっと最終回です。
次回は「将来の娘と自分に宛てたメッセージ」です。
アンパンマン考 8 なぜ幼児たちは、アンパンマンを見て声援を送るのか
「物語としてのアンパンマン」について考察の8回目。
アニメ「アンパンマン」には、象徴的な場面が多くありますが、中でも「自分の顔を腹のすいている人に分け与える」というシーンがありますね。これ結構インパクトがあります。
コントのネタなどにも使われるような有名な場面となっていますね。
ある人は、「自分の顔なんかちぎってあげないで、腹のすいた人がいるのが分かっているんなら、いつも食べ物を用意しておけよ」とケチをつけていました。
でもそれは見当違いの意見でしょう。「自分のものを分け与える」、ここがとても重要であり、「物語としてのアンパンマン」にはとても必要なことなんです。
この場面を見て、真っ先に思い出したのが「捨身飼虎図」。「お釈迦様の前世である王子が、飢えた虎の親子の為に身を投げたという説話」これは自己犠牲の精神を伝えています。
画像はそれをもとにした絵。
あとは、キリストの処刑前夜に、自らの血と肉として、信徒にパンとぶどう酒を勧めたことに由来する儀式である聖餐式の場面を思い浮かべました。
画像は最後の晩餐。
ともに、自分の身体を与えるという意味合いが「アンパンマン」とどこか似ている。アンパンマンの行為には「自己犠牲」「他者への愛」が秘められていると思う。(これは以下につながります)
さて、「アンパンマン考」では、簡単な物語の中に多くのメッセージが秘められていて、そこに惹きつけられた子供たちは、(そんなことは知らず知らずのうち)この物語を繰り返して見ている」、という考えのもとに書き進めてきました。
その隠されたメッセージの一つは「自我=アンパンマン」ということ。
まず『図解雑学 フロイトの精神分析』から
「自我は、どろどろの海の中にある崩れやすい島と同じように、もともと非常に不安定なものである。動物は本能をもっていて、それに従っていれば生きていけるため、自我を持たない。これに対して、人間は本能が壊れて正常に機能しないので、生きていくために自我を持つようになったのである。だから自我は本能(すなわち自然)に根ざしていない。自我は、その存在の生物学的根拠を持たない、砂上の楼閣のようなものである。」
自我とは元々強いものではない。それをいかに強くしていけばよいのか。貪欲な欲望はいつしか反社会的行動につながっていく。それを抑えるにはどうすればいいのだろうか。
その欲望の暴走に負けない「自我」の形成は、幼児期から5歳ころまでに形成されていくというのだ。その辺りが詳しく書かれた本からいくつか抜粋してみましょう。
「自己抑制と自己実現」礒貝芳郎、福島修美著(講談社現代新書)から、
「我慢強さには自我の強さ、あるいは自律性が絡んでいる。その自我とか自律性の形成を見ていく。」「乳児期に、社会的愛着といわれるポジティブな情動的関係を、養育者との間に形成するのである。養育者とはかならずしも母親に限らない。父親であってもいいし、そのほかの人であってもいい。常に自分の世話をしてくれ、暖かさと愛情を示してくれる者であるならば誰でもいい。そいう特定の養育者との深い社会的愛着を形成しておくことが、次の段階での我慢(欲望の抑制)の心を形成するための基礎になる。」
親子の信頼関係が自我を作るということ。
「乳幼児に十分に甘えられたかどうか、つまり親と子の間に本当の愛情・信頼関係ができたかどうかが、自我の形成に大きく影響してくるのだ。トイレのしつけが進行していく過程で子供は自分を抑制することを学習する。」
「フラストレーションをコントロールする。
トイレトレーニングの時期は歩行期ともよばれる。この時期は好奇心と自己主張が芽生え、活動が活発となる。しかし他人から行動の制限と制約が加わり、自分自身で自分の行動をコントロールすることを学ばなければならない。しかしこの時期の子供の情動的反応は非常に激しいもので、子供は自分の欲求が即座に充足されることを望んでいる。欲求が充足されなければ、強いフラストレーションや怒りを生じるし、それがかんしゃくなのである。」
こういうことか。
ドキンちゃんかなり怒ってます。(欲望が満たされない状態)
「感情あるいは情動というのはコントロールしにくいものなのである。この時期にちょうどトイレット・トレーニングが行われることになる。だからこのトレーニングは、ただ排泄訓練ということだけではなく、子供の情動や行動全般についてのセルフ・コントロールについての訓練でもある。」
さて、大体このあたりからテレビを見たり、本の読み聞かせで、お話を楽しむようになる。つまりこの時期くらいから「アンパンマン」を見始める子供が多くなるだろう。
茂木健一郎著の本の中で「人間は、四歳くらいで、自分が意識を持つ存在であるということ、他人には心があることという二つの事実にほぼ同時に気付くことが知られている」と書かれている。
つまり、「他人と自分の違い」、「自我形成」は幼稚園児のころに理解され始めるということになる。
そう私の娘が「アンパンマンとバイキンマンはなぜ戦いつづけるの?」という疑問が湧いてきたということは、私の娘にも「自我の形成」が始まり「他者と自分との関係」が分り始めたということになるのだ。
今まで書いてきたように「アンパンマン」は自我であり、「バイキンマン」はエス(欲動)であり、「ドキンちゃん」はリビドーである。自我が形成されるころから「アンパンマン」を見始めるのはとても意味があることなのである。
だから物語を理解できるようになる幼児たちは、「アンパンマン」に夢中になる。そして無意識の内に欲望を抑えることを学んでいるのだ。
知的発達してくる3~5歳児たちは、「時間と言葉」を獲得し、自我を形成していく。
『自己抑制と自己実現』から「耐えるとか根気強く努力するとかいうのは、単に情動の問題だけではなくて、子供の知的発達にも関係している。つまり、時間的にも空間的にも子供の認知範囲が広がって、ある程度の展望が持てるからである。現在、今その瞬間の間だけ生きていた子供が、時間的つながりの中で生活できるようになる。いま手に入らなくてもしばらく待てばいいのだとか、今はしたくないけどしておかないと後で困るとかいう、時間感覚が身についてくる。また言葉を獲得するということが、我慢(抑制)に大きな役割を果たしている。例えば、口にできない感情をコントロールするよりは、感情を口に出してコントロールすることのほうが容易である。子供が時には独り言を言って自分自身に語りかけ、自分を慰めたり、なだめたり、苦痛や悲しみに耐えようとする。あるいは言葉で自分を励ましながら、砂遊びや積み木遊びを続けている。子供は自分の気持ちを言葉にすることによって、自分を一生懸命にコントロールしようとしているのである。」
私と娘が映画版アンパンマンを劇場へ見に行ったとき、アンパンマンが魔物(バイキンマンより強い)に捕まった場面などで、小さな子供たちが「アンパンマンがんばれ」「負けるなアンパンマン」と一生懸命に声を掛けていた。
そのときは微笑ましい光景だと思ったが、いま考えてみれば、あれは子供たちの自分自身への声援だったと思い至った。見ていた子供たちは、すでに自分とアンパンマンが同化している。そして無意識の内にも、暴走する欲望が自我を悪へ引きこんでいくのを恐怖したのではないか。
欲望の闇に飲み込まれないように、子供たちは必死になって「自分の心の中の自我」へ「がんばれ」と声援しているのではないか。
そして自我の発達は「他者との関係」におおいに必要となってくる。
再び『自己抑制と自己実現』から
「子供はトイレトレーニングを経て、次第に自律性を獲得する。ということは、自分に対してまわりの人たちが何を望み。それにどう応じていけばいいのかという、他者の立場に立つことを学習することであり、ただ自分のしたいことをするだけではなく、他者との相互依存の関係の中で、自分の置かれた立場を理解し、自分の言動を調整することを学んでいくのである。 中略 そういう現象が(ごっこ遊びが減っている)ということは、それだけ他人の立場に立つ、あるいは他人の役割をとってみるという経験が少なくなっているのであり、自我の発達させる機会に乏しいということになる。他者の立場に立つという心理は難しいもので、自分の欲求がただちに満たされない経験を積めば積むほど、そういう面での自我は育っていく。」
「他人の立場に立つということにも順序がある。最初は、同じ光景を自分が立っている所とは違った場所から見ている人には、違って見えるということを理解することができること。少し進歩すると、他の人々の考えや動機などが同じではない、違っているということに気づくようになる段階である。もっと進めば、他の人々の感情や情緒が自分とは違っているのだということを感じるようになるし、それがどんなものであるかを判断できるようになる。こういう順序を順当に踏んでいけば、やがて他者との共感性が高くなるし、それは向社会的行動と呼ばれる、他者への思いやりや援助行動に結びついていくはずである。
これがアンパンマンでいう「自分の顔を腹のすいた人にあげるという」ことにつながるのではないか。
茂木健一郎著『欲望する脳』から、欲望と他者の関係について書かれた箇所を抜き出してみた。
「欲望」に負けないように、こころに刻まれていくことになる。「子供は、しばしば、自分の欲望をむき出しに主張する。しかし「心の欲する所に従って」いる子供は、決して倫理的な存在ではない。自らの欲望に従うのではなく、それを必要に応じて抑制し、調節することを学ぶことこそが、人間にとっての倫理の始まりである。」
「私たちの脳は、欲望が必ずしも満たされないという条件の下で進化してきた。とりわけ衣食住のために必要な最低限の条件は、ほぼ満たされるようになってきた。生産力は常に需要を上回る危険をはらみ、経済システムを維持するためにも、欲望を解放し、消費を奨励することが求められた。その結果、欲望を我慢しないという点において、現代の成人は、むしろ子供に近づいてきている。」
「その立場に自分を置いて来し方行く末を想像してみることによって、初めて見ることがある。「他者への無関心」
「他者への真摯な関心を持ち続けることは、心をしっとりと柔らかに保つための処方箋である」
物語というは、「登場人物に立場になってみる」「ストーリーの中に入って登場人物の心境になってみる」ということを楽しむことができる。そして、物語の登場人物と同じように、泣いたり、笑ったり、怒ったりすることができる。そのとき出会ったのが「いい物語」だったなら、人はそこから何かを学ぶこともできるし、人間的成長をすることもできる。
となれば、知識を最大限吸収することのできる幼児期の子供たちにとって、欲望を抑制し自我を育てるのに最適な物語は「アンパンマン」となるだろう。この物語に秘められたメッセージは、幼児たちを成長させ、自我を形成させることに役立っていくことになるのではないだろうか。
いま現代に求められているのは「自我の欠乏」「欲望の抑制」ではないかと思う。現在起こっている残虐な事件の数々は、犯罪者たちの「心の中」に問題があると思う。
では、次回は自我を育てることが出来なかった人々が犯した罪を書いていきたいと思います。
追記 「アンパンマン考」の終わりが見えてきました。あと2回ほどで終わる予定です。どうにかクリ
スマスまでには間に合いそうです。
すべての人の心の中にバイキンマン(悪)はいて、すべての人の中にアンパンマン (善)は存在する。
前回の続き。アンパンマンについての第7回目。
前回までで、物語としてのアンパンマンが、「人の心の中の葛藤」を描いたものであり、それは「永遠」(心の中の欲望は果てしない)に続くものである、といったところまで書いてきました。
そして物語の基本的関係は、「欲望」(ドキンちゃん)から湧き出た「欲動」(バイキンマン)を抑えるため「自我」(アンパンマン)が必要である、といったことになります。
私は「人間の欲望とそれを抑える自我」、これがアンパンマンのテーマだと思います。
では今回は、「暴走した欲動・捕らわれた自我」で書きます。
つまりこんな状態。
捕らわれたアンパンマン(自我)、バイキンマン(欲動)が貪り食ってます。
さて、貪欲な人間というのは、心の中のアンパンマン=自我が、バイキンマン=欲望に負けている状態なのではないか。そう考えていくと、自制心を失った犯罪者がいかに多いか、ということに気がつかされます。
養老猛司「バカの壁」では、人間の欲についてこう書いています。
「欲というのは、現代社会ではあまり真剣に議論されていない。欲を欲だと思っていない人が多い。欲を正義だと思っている。人間の欲を善だというふうにしてしまうと、行き着く先は、金権政治家みたいになってしまう。欲というのは単純に性欲とか名誉欲とかではなく、あらゆる物は欲だといえる。 中略 結局考えていくと、全ての背景には欲がある。その欲をほどほどにせいというのが仏教の一番いい教えなのです。誰でも欲はもっているので、それがなければ人類は滅びるのはわかっている。しかしそれを野放図にやるのは駄目だ、と。欲にはいろいろな種類がある。例えば、食欲とか性欲とかというのは、いったん満たされれば、とりあえず消えてしまう。これは動物だって持っている欲です。ところが、人間の脳は大きくなり、偉くなったものだから、ある種の欲は際限がないものになった。金についての欲がその典型です。キリがない。要するに、そういう欲には本能的なというか、遺伝子的な抑制がついていない。すると、この種の欲には、無理にでも何か抑制をつけなければならいのかもしれない」
では今度は、茂木健一郎「欲望する脳」(集英社新書)から
「人間は、自分の生の衝動をストレートに発揮するとき、他者の都合などすっかり忘れている。この点にこそ、人間の欲望が決して予定調和には成り得ないということの根本的理由が見出される。欲望に本質的に内在する脆弱性が現れるのである」
「時代は巡って、文明が人間の欲望を解放し、欲望に従うことこそが経済システムにとって望ましいことである、という欲望の制度化が進んでいる。自分の欲望をできるだけ制限しないという態度を支えるテクノロジーがここまで進んだことと、昨今私たちが目にする文化表象は決して無関係ではない。現代人は、いろいろな意味で我慢することを忘れたのである。」
「コントロールすることのできない他者に向かうからこそ、欲望には、根本的な脆弱性がある。その脆弱性に儚さを感じて、いっそ欲望を否定してしまえという衝動は、仏教だけの専売特許ではない。ありとあらゆる宗教に、そのようなモチーフは存在する。それは人間の脳の一つの安定解である。しかし恐らくは、他者に対する欲望の中に潜む脆弱性ととことん付き合うことの中にしか、人生の恵みを味わうことも、人間の脳という不可思議なにして力強い臓器の潜在的力を生かす道もないのである。ひょっとしたら、そこにはテストやドリルのような決まった答えはないかもしれない。その答えのない無明の領域で自己について考え、他者について考える。これ以上の脳のエクササイズはないように私は思う。欲望の内包する脆弱性に目覚めた者が、その自覚の下に自身の欲望と真摯に向き合おうとする時に、そこには孔子以来多くの思想家が取り組んできた人生の倫理問題の核心が立ち現れるのである。」とある。
さすが、脳学者・茂木健一郎、難しい。
だが、私が思うに、この「欲望と真摯に立ち向かっている」のは彼なのではないか。
この本の「まえがき」にこう書かれています。「自らの欲望の成り立ちを見つめる時に、人は自分であることの苦しさと喜びに目を開かれていく。欲望することが人の定めならば、せめてその正体を精(くわ)しく見つめてみたい」とある。極端に簡単にすればこういうことでしょうか。
心の中の戦い。暴走する欲望と戦う自我。
図解雑学 フロイトの精神分析」鈴木晶著(ナツメ社)では、人の欲望についてこう書いてあります。
「フロイトは人間のこころの病だけではなく、人間の作った社会や文明についても理論を展開している。
動物の場合は、本能に従って生きていればいい。動物は、本能によってその動物と周囲の自然とが、パズルがぴったりとはまるように、うまく噛み合っていることだ。ところが人間の場合は、本能が壊れてしまったため人間と自然との間に隙間ができてしまった。その隙間を埋めるために(いいかえれば、壊れてしまった本能を埋め合わせるために)、人間は文明や文化を作り出した。文明や文化とは、簡単にいえば、生活レベルが高まり環境が変化していくことで、集団を形成することも社会を形成することも、その一つである。その文化や文明のおかげで、人間は生きていけるのである。こうしたものを作ったのは人間が動物よりも優れていたのではなく、そうしなければ、生き延びてこれなかったからである。
しかし、文化や文明をつくり出した人間は、しだいに社会によって我慢を強いられるようになった。
人間は1人では獣を捕まえることはできないので、集団を形成し、その集団はやがて社会を形成するようになった。そして社会を維持するために、法律などの掟やルールを設けた。しかし、人間には無意識の中に本能的な欲望があり、それを現実を無視し、ひたすら満足を求める。個々人がその欲望のままに動いたら、社会は成立せず、人間は生きていくことができない。そのため、人間はいろいろな欲望を我慢しないといけない。このように、自分たちで作った社会は、個々人のわがままを許さず、人間を抑圧しているのである。
人間は、社会を維持しその一員として生きていくために、本能的な欲望の中でも、特に性欲と攻撃性を抑圧する必要がある。性欲についていえば、人間は夫や妻を何十人も持つことはできないし、性欲を自分の好きなだけ満足することはできない。また、攻撃性についていえば、殺したいほど他人を憎んでいたとしても、殺すことは許されない。性欲や攻撃性を満たして他人を傷つければ、法律などの掟やルールによって罰せられ、社会から排除されてしまうのだ。
だが、性欲や攻撃性は生まれつき人間に備わっているため、我慢することはできても、それ自体をなくしてしまうことはできない。そのため、人間はいつでも抑圧され「欲求不満」の状態に置かれているのである。そして、その不満がこころの病を引き起こすのである。」
「抑圧されている欲求が浮上するとき→社会生活で満たすことが許されない本能的欲求は、普段、抑圧されている。つねに浮上しようとする攻撃性や性欲は、他のこと(趣味をする、スポーツをする、ストレスを発散させる)に転換させ、満足させていることも多い。しかし何らかの要因によって抑圧されていたものが浮上することがある。(解放)」
「戦争のような状況では、攻撃性を解放されることが許されているため、人間は思う存分、攻撃性を満足させようとする。(敵を惨殺したり、敵国の婦女を暴行したりする行為)」
これらは、フロイトが考えたこと。欲望の果てには、遂には人間性が失われてしまうということなのでしょうか。
つまりバイキンマンの力が増して、抑えるべきアンパンマンの力が弱くなったとき、人は欲望のままに行動する。それはいつか、他者の物を奪い、他人を傷つけ、殺人を犯すことになるだろう。
昨今の犯罪を見てみれば、欲望を抑えきれなくなった人間の犯行がなんと多いことでしょうか。しかも簡単に残酷に人を殺している。これはあまりにも心の中のアンパンマンの力が弱まっているか、ということになるでしょう。
ちょっと自制心(心の中のアンパンマン)が働けば、起こらなかった犯罪も多いはずです。そしてそのために命を落とした人もいないということになるのです。
では「悪と魔の心理分析」頼藤和寛著(大和出版)から
「われわれ人間はいったん悪の道には染まると、いよいよ易きに就いて堕落しやすく、また不品行というものが(良心の呵責を別にすると)、ある種の開放感を与えてくれるという経験則も認められるのである。 中略 人間の歴史において繰り返されてきた悪行の数々は、われらと無縁ではない。ネロもヒットラーもポル・ポトも、われわれと同じ種族に属するヒトであった。悪鬼羅刹や魔物やエイリアンといった邪悪な存在のイメージを創出し、共有してきたのもわれわれである。それらすべては、われわれの身内や心から発現してきたものだ。われわれ全員の心の奥にそうした凶々しい側面が隠れていないという保証はない」
そう、だれもが心の中に「欲望の暴走をする悪」バイキンマンが潜んでいることになる。
そしてそれを抑え、打ち砕くために、アンパンマンは心の中にいる。
となれば、欲望が異常に求められている現代に必要なのは、「心の中の強いアンパンマン」ということになるのではないか。
まだまだ次回に続きます。
アンパンマン考 6 アンパンマンは死と再生の物語
前回からの続き。
アニメ「アンパンマン」を娘と見ていて思うことは、必ず同じパターンを繰り返していることです。基本パターンは「アンパンマン考 2」に書いた通りですが、決まった流れで決まったことを行う、ここに何らかのテーマが隠されているように思えてならない。そう思い、ここ1週間、真剣に「アンパンマン」を見ているわけです。
「おいおい幼児アニメだから、同じことを繰り返しているだけなんだよ」といわれそうだし、自分もこの一連の記事を書く前はそう思っていた。しかし、どうもやらそう簡単ではないことが分かってきた。とにかく「アンパンマン」は深いのです。
さて、流れに沿って同じことをする、というのは、どこか儀式性があるように思える。儀式は同じことを繰り返すことある。だから、決まった所作や行動があって、それに則って事が進められることが重要となってくる。相撲で、土俵入りして四股を踏む、塩を撒く、立ち会って、相手と戦って、勝敗をつける。これは流れに沿った一種の儀式である、ということは前に書いたことである。歌舞伎や能のような伝統芸能も決められた動作で決められた形で演じる。これも儀式的要素が強い。儀式とは祝い・弔い・祭りなどのための決まりに従って行う作法。
では、アンパンマンのどこに儀式があるのか。
それは「アンパンマンの顔の交換」 これが必ず行われる。
見ていて本当に不思議なことなのだ。
ではストーリーから
バイキンマンに攻撃される。特に顔に水を掛ける。
顔が汚れてしまう。顔が濡れると力が出ない。(死の象徴)
アンパンマンの創造主であるジャムおじさんに新しい顔を焼いてもらう。(ジャムおじさんは多分やなせたかしの分身だと私は思う)
新しい顔がやってくる。
「いつもバイキンマンにやられるんだから、先に顔を作っておけ」とか「顔が濡れないようにしておけ」とか、突っ込みが入りそうである。また「顔を交換しただけでなんでパワーアップするんだ」といっていた人もいた。
しかし、これはまさしく「死と再生の儀式」である。一度死んだものが新しい命を得て復活するという儀式なのです。そして、同じことを繰り返すことに意味があるのです。
これは「終わりがない」こと、「アンパンマンの戦いは永遠に続いていく」ということを描いているのである。アンパンマンは毎回この死と再生を繰り返しているのだ。
「死と再生」とは神話にも多く取り上げられる人類にとって普遍的なテーマである。
「死と再生の神」という項目でウィキペディアに解説がある。
概要はこうである。
「生きている神話的存在が、一度死に、死者の存在する地下世界に行った後、再生するという説話は世界中に広く分布している。「死」と「再生」は文字どおりのものである必要はなく、食(日食、月食)などで象徴される場合も含む。
このような神としては、オシリス、アドニス、イエス・キリスト、ミスラなどがあり、女神ではイナンナ 、ペルセポネも死の国に行って戻ってきた。死と再生はエレウシスの秘儀の中核をなすものでもある。日本神話のイザナギの黄泉訪問、アマテラスの岩戸隠れも類縁である。また、二十世紀怪奇文学のクトゥルフ神話のモチーフの一つである」
さてこの項目にユングの説が載っています。
「スイスの心理学者カール・グスタフ・ユングは錬金術その他の心霊主義的システムの研究から、死と再生という元型は集合的無意識により個人間に共有される象徴主義の一部であって、心理学的統合過程に役立ちうると論じた。つまり、人間には無意識の力動があり、それは元型として象徴的に捉えられる。元型の中には個人個人の枠を超えて共有されるものがあるので、地域の神話として確立し、また似た種類の神話が各地に生まれた。」
この集合的無意識とは、「われわれの心の奥底には、われわれの祖先の経験したものが遺伝してきていると考えた場合の心の深層。個人的な経験を超えた、人類に普遍的のある無意識」と解説されています。
だんだん難しくなって、アンパンマンからも外れてきたので、このくらいにしておいて。(っていうか自分も分らない。ユングは難しい)
ここでは、アンパンマン自体が「死と再生」を繰り返す、神話的物語であること。アンパンマンの物語が「人類の心の奥底にある普遍的なテーマ」を扱っていること、を踏まえてもらえればいいです。
ここで「善と悪とか永遠に戦う神話」として、インドネシアで行われる「バロンダンス」が思い浮かびます。
「民族楽器ガムランの伴奏に合わせて行われる踊りで日本の獅子舞に似ています。この踊りに登場する愛嬌のある獅子のような形をしたバロンという動物は、善の魂を演じ、ランダという動物は悪の魂を演じます。バリの人々は、人の心の中には、常に善と悪が同居していると信じています。この踊りは、この人の中にある善と悪の戦いを物語っており、結果としてその戦いの決着はつかず、この四には善悪が永久に存在し、闘争を繰り返すことになります」と解説しています。
つまり、アンパンマンとバイキンマンの戦いは世界的な神話に持ちいられている、人類の普遍的テーマだということです。
次回に続く。
追記 今回の記事に盛り込もうとしてやめたもの。
①バイキンマンが食物から生まれるカビやバイキンであることから、日本神話における食物起源神話を思い起こしたこと。
②「アンパンマン」の顔が丸で構成されているのが、どうも、「太陽や月の象徴」のように思えてならないこと。太陽や月が、日々死と再生を繰り返し、季節によっても死と再生を繰り返すものと考えられ崇められたことから、物語アンパンマンと結びつけようとしたこと。
③ユング関連からいえばアンパンマンの顔は「曼荼羅」かもしれないとも思ったこと。
④善と悪の戦いでキリスト教から天使や悪魔の戦いを関連付けようとしたこと。また善から悪への転換ということで堕天使ルシファーのことを書こうとしたこと。
などなど、思ったこと、考えたことを書き連ねようとしましたが、どんどん最初の本題から離れていくので、これらはやめました。(自分の備忘録として記しておきました)
「アンパンマン考」はここで大体半分くらい書きました。まだ残り半分あります。これをクリスマスまでの5日間ほどで、どうしても書き上げたいんです。まあこれには訳があるのですが……。でも間に合うかどうか……。徹夜で仕事にも影響が出始めました。。。そこまでしてアンパンマンに付き合うのも、娘のためでしょう。でも、これがどうして娘のためなのかは、最終回で書きます。


