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アンパンマン考  5  善と悪の戦い。ユング心理学から

アンパンマンについての5回目


まず


アンパンマンはバイキンマンであり、


バイキンマンはアンパンマンである。(画像はバンダイのおもちゃストラップから)


今度は違う角度から「アンパンマンとバイキンマンはなぜ戦い続けるのか?」を考えてみます。


今度はユングです。以前に「沢尻エリカの心の葛藤」を書いたときに引用したのがユングでした。そのときは「ペルソナ(仮面)」「投影」という考えを引いてあの騒動を書いてみました。今回は、だれもが自分が嫌がって否定する悪を無意識の中に持っているという概念「シャドー」を引用してみます。


「手にとるようにユング心理学が分かる本」長尾剛著(かんき出版)から引用。
シャドーの項目より

『シャドーとは、「たいていの人は、自分が嫌いではないでしょう。なぜでしょうか。それは人が自分を「自分にとって正しいと思える人間・良いと思える人間」であるように努めているからでしょう。
たとえば、ある人にとって「誰にでも優しく思いやりをもって接する」ことが正しいと思えるならば、その人は実際に、そうした生き方を目指すでしょう。また、別の人が「勉強でも仕事でも、他人より正しいと思っているなら、その人は努力家として生きるでしょう。  いずれにしろ、このように人は「自分にとって正しい、良いと思える生き方」をするもので、だから人は、自分で自分が好きになれます。
しかし、です。人は無意識の中に、その反対の性質や考え方というものが、あるのです。たとえば、誰にでも優しくて皆から愛されている人の無意識の中には、じつは「他人をいたぶろうという残虐性」がある。努力家として皆から尊敬されている人の無意識の中には「問題から逃げたりさぼったりしたいという願う怠惰性」がある。とユングはこのように「人間には、当人が嫌って否定する悪が、無意識の中に存在する」ことを発見しました。これが「シャドー」(影)と名づけられた元型です。
シャドーの中身が、無意識内に潜む元型ではなく、その人の意識であったなら、当然人生も180度違ったものになっていたはずです。しかし、それでも、人はたいていそんな「シャドーの人生」を望むわけではありません。なにしろ、シャドーはその人にとっての悪であり、その人の意識では「好きになれないもの」あるいは「許せないもの」だから。だからそもそも私が嫌う、許せない、軽蔑する、そんな人間性が、私の中にあるわけではないか」、とシャドーそのものの存在を否定したくなる人も多いでしょう。
しかしユングに言わせれば、そうした、「意識が嫌う元型」があるからこそ、人の心とは深く複雑なもので、だから人間は、さまざまな価値を見いだせる、さまざまな可能性を秘めた存在である。
シャドーはその存在を認め、意識が拒否するのではなくコントロールすべき元型なのです。シャドーは夢の中に登場する場合がある。彼らはいわば「夢というドラマの中の悪役」です。が、それはシャドーであり、じつは、あなたの無意識の産物である場合が多いというわけです。また、宗教の教えや昔ながらのおとぎ話には、悪魔や鬼といった「凶々しき悪しき存在」が、登場しますね。これらは、個人を超えた全人類共通のシャドーといえます。
悪魔や鬼は、「存在を許されない」とされるものです。初めから「存在を許されない」というものだったら、なぜ、人間は悪魔や鬼を空想し、生み出したのでしょう。それは、彼らは「シャドーをたとえた姿」なのであり、言いかえれば「初めから人の心に存在する」ものだからです。キリスト教では、悪魔を「絶対に許されないもの」として、否定します。しかしユングは「悪魔とは、人が誰しも持つシャドーをたとえた姿なのだ」と説き、その存在をますます訴えました。人がシャドーという元型を意識するのは、辛いことです。が、心の成長に必要なことなのです。だからこそ、ユングは、「悪魔(シャドー)を認めよ」と訴えたのです。
シャドーは無意識の中に潜んだままだと、いつか暴走して、その人の心を壊すかもしれません。しかし、意識がシャドーと向き合い、シャドーの危険性や恐さを見つめることで、人は「こんなものを表に出して、暴走させてはいけない」と自覚できます。つまり、意識によってシャドーの危険なパワーを無力化できるのである。
優しい人が自分の隠れた残虐性を見つめることで、「この私のシャドーが表に出てしまったら、皆を悲しませるんだ」と自覚する。そうして、より深い思いやりの心を意識する。そんなふうになれば、その人はもっと優しい人となって、もっと、「自分にとって喜ばしい人生」が得られるでしょう。』


長い引用でしたが、そのまま載せました。シャドーをバイキンマンに、それを抑えるものをアンパンマンに置き換えるとよく分かるでしょう。

さてこの心の中の善と悪の戦いは多くの物語に登場します。
例えば、
「スパイダーマン3」では、善と悪のスパイダーマンが葛藤している。


「ロード・オブ・ザ・リング」のゴラムは自身の心の中で善と悪が戦っている。


「スーパーマン3・電子の要塞」では、善のスーパーマンと悪のスーパーマンが戦っている。


また、お笑い芸人の「二丁拳銃」にも、人間の中に共存している天使と悪魔の戦いをネタにした漫才がある。(ヤフー動画、お笑いでこのネタが見られる)


その他にも神話や小説にも多く使われている。
それだけ人間の根本に係る問題だからでしょう。
様々な宗教でも、ここが一番のテーマになっているといっていいでしょう。
それは人が生きている限り、心の葛藤は永遠に続くからではないでしょうか。


これを基に、次回へ続く。

アンパンマン考 4 旅人たちは欲望を刺激する者? ロールパンナは超自我の戦い?

前回の続き。アンパンマンについての4回目。


「アンパンマンの世界」は、「人の頭の中、心の中であり、心の葛藤を描いた物語だ」というのが前回までのお話でした。
今回は「なぜ、アンパンマンたちの住む町に次々と旅人は訪れるのか?」です。


毎回必ず、レギュラー以外のものがやってきます。ここから物語が始まるわけです。
ドリアン王女だったり、大根役者だったり、お琴ちゃんだったり様々です。
そこから、騒動となって、いつものパターンでバイキンマンとアンパンマンの戦いとなるわけです。
また、アンパンマンたちが、どこかに行くというパターンもあります。お花の国だったり、氷の国だったりします。しかし基本パターンは変わりません。すべてが「新しい欲望」の投入ということになのです。

人はどこから欲望を抱くのでしょうか。本能的欲望のほかに、現代では外からの刺激によって引き起こされる欲望が多いでしょう。


テレビのCMを見て「あっ、あれが欲しい」と物欲が湧き、好みの異性を見れば「性欲」が湧き、スーパーやコンビニに行けば「これ旨そう」って食欲が湧いてくる。
そう、欲望を抱かせるものが外からやってきて、心の中を刺激することになる。
そうなると、物語のアンパンマンでは、必ず、何者かが、やって来るところから始まっていることが重要となります。
それは、大概は食べ物であることが多い。(焼きソバマンとか、チョコレートマンとか) また、音楽や演劇のような楽しそうなもの(ハモニカくん、たいこマンとか)もある。
それら自体が、欲望のもととなっている。
それが「物語アンパンマン」では、旅人がやってくるという形をとっているのだ。
つまり、現実社会では、欲望を誘発するものは目や鼻や耳などの五感を通してやってくる。物語では、身近な物が○○マンや○○ちゃんなどと変化して心の中に入ってきているということなのだ。


だから、身の回りのものが多いのはそういうことなのだろう。子供向けのアニメだから、食べ物や雑貨が多いが、これが大人の心の葛藤を描いた「アンパンマン」なら性欲や金銭欲を抱かせるものが登場するはずだろう。
例えば、シャネルやグッチのバックを見て、これが欲しいと感じたとする。しかしお金がなければ買えないと諦める。だがどうしても欲しいとなれば、無理にローンでも組んで借金をし、手に入れようとするでしょう。もっと自制心を失っていれば、盗んでしまうかもしれない。
これをアンパンマンの世界で表わせば、アンパンマンたちの住む町(その人の心の中)にバックマン(?)が現れる。それは良いバックを持っている。(物欲が湧く) それを見たドキンちゃん(本能的欲望)が欲しいとねだる。そこでバイキンマン(欲望がエネルギーとなるエス)が無理やりでもバックを奪おうとする。
そこにアンパンマン(自我)が現れ、バイキンマンを遠のけて(買えないと諦める)、 平和が訪れる(欲望が去り心が落ち着く)。
アンパンマンがバイキンマンに負けてしまったら、借金をしてでも手にいれたり、盗んだりすることになる。


この心理の葛藤が「物語アンパンマン」だろう。この自我やエスは無意識の中で行われている。
無意識は、本人は意識していないが日常の精神に影響を与えている心の深層である。
普段は分からない心の深層である無意識が、寝ているときに見る「夢」に現れるという。精神分析では、「夢診断」「夢分析」は非常に重要である。
そうなると、アンパンマンの世界は「夢の世界」「無意識の世界」ということになる。
これは見ている人の心象風景となっているのか。
そういえば、アンパンマンは空を飛び、バイキンマンも空を飛ぶ。そして風景も変化する。
これらは心の中、あるいは脳の想像した世界である。
だから大人が理屈をこねて科学的に考察しょうなんていうのは、意味のないことなのではないか。


ロールパンナは不思議な存在である。

登場回数は少ないが、印象は強く、異色の存在となっている。
「メロンパンナちゃんのお姉さん。人に優しく、人の為につくす力があると言われるまごころ草の花粉を入れて作られるロールパンですが、ばいきんまんが、まごころ草の効力を消して悪い心を作るバイキン草のエキスをこっそり入れたので、正義の心と悪い心、二つの心の間で揺れ動く」とキャラクター紹介にある。
ロールパンナは、顔を隠し(ぺルソナ?)、素顔を見せない。
他人との距離を保っている。
自分自身の「善と悪」が戦っている。
ロールパンナはメロンパンナの姉という設定なのに、顔は人の形をしている。


思ったのは「ロールパンナは超自我」ではないか、ということ。


「超自我とは、自我にとって「理想」であると同時に「禁止するもの」である。超自我は自我が従わないと、自我を厳しく罰する。その結果、劣等感や罪悪感が生じる。超自我は自我の一部。」とある。




ひとりの人間の心の中で「善と悪」が戦っている、これこそが「アンパンマン」のテーマなのか、
次回はこれについて書きます。


まだまだ続く。

アンパンマン考 3 ドキンちゃんはリビドー(本能的欲望)である。

アンパンマン考の3回目
ドキンちゃんについて。
「バイキン星の女の子。わがままですぐ気が変わる、感情的だが情にもろいところもある。プライドが高く、自分が世界一可愛いとおもっています。しょくぱんまんに憧れています。」とキャラクター紹介されています。


「おなかがすいた~」「あそびた~い」


「バイキンマンどうにかして~」

しかし、バイキンマンがアンパンマンにやられそうになると、欲望が満たされないドキンちゃんは「先に帰ってるから」といってしまう。
ドキンちゃんがアンパンマンに攻撃されることは絶対にない。


ドキンちゃんは本能的欲望そのものなのである。


よってバイキンマンを使って欲望を満たそうとする。

本能そのものであるからピュアである。



しょくパンマンに恋をし、



時には優しい面を表す回もある。


「ドキンちゃん=リビドー」なのである。

リビドーとは、人間の行動の隠れた動機となる本能的欲望。こころを動かす本能的なエネルギー。フロイトはこのエネルギーを本質的に「性的」なものとした。しかしユングは単なる性的エネルギーだけではなく、広く一般的な生命のエネルギーとした。
つまり、ドキンちゃんそのものが本能的欲望であり、行動を起こすエネルギーとなっている。
ドキンちゃんが欲望をしめし、バイキンマンに命令する場合もあるが、バイキンマンが欲望を満たすものを発見するとドキンちゃんに報告することもある。本能は快楽原則によっているので、バイキンマンとドキンちゃんはセットなのである。


バイキンマン=エスを使って欲望を満たそうとする。食べたい、恋愛をしたい、それ自体は生きて行く為に必要なことだが、エスは貪欲であり必要以上に欲を満たそうとする。(前回で解説した)
しかし欲望の暴走を抑えるためにアンパンマンが来て、バイキンマンを遠ざけて、心の安定を計ろうとするのだ。
自我と欲望とエスの関係である。
そこで、「物語アンパンマン」を見れば分かることだが、アンパンマン(自我)がバイキンマン(エス)を抑制しようとすると、必ずドキンちゃんが先に帰ってしまう。または飛ばされたバイキンマンに「待ってぇ~」といって一緒に遠くに消えていくことになる。必要以上の欲望が消失したということになるのだろうか。だから、バイキンマンとドキンちゃんが去ったあとは、町の住民やアンパンマンたちが、その回に登場したものを食べたり、(ヤキソバマンなら焼きそばをみんなで食べる) 楽しんだり(しらたまさんならミュージカルを観る)して終わることになる。これは心の平穏は、必要な欲望を満たすことによってもたらされ、、欲望を貪ることではないということを表しているのではないだろうか。生きていくための欲望は、それ自体は悪ではない。欲望は人間に必要なものだからだ。
アンパンマン(自我)がドキンちゃん(本能)に攻撃することは絶対にないというのは、本能の欲動がなければ、人は生きていけないということ。食べたい、寝たい、恋をしたい(性的な欲望)は人にとって必要なことだからである。

またこういう回もある。バイキンマンとドキンちゃんが満腹になって、寝てしまい、アンパンマンと戦わないという回がある。


このとき寝てしまった2人を見て、みんなが安心して布団を掛けてやる、というところで終わる。

つまり、欲望が満たされ、エスが大人しくなると心の中は平穏になるということだ。


そう考えて「アンパンマン」をよく見ると、「心の葛藤」が実によく描かれていることがわかる。これは制作者が意図していることなのか、それとも知らず知らずのうちに描いているのか、その辺が実に不思議である。


次回に続く。


アンパンマン考 2 フロイト心理学から。「アンパンマンの世界」は人間の心の中を表している。

前回の続き、第2回。


さて、遂に本題に入ります。が、その前にいくつか。バイキンマンは「ばいきんまん」と表示するのが正しいようですが、ひらがな表記だと分かりづらいので、ここではカタカナ表記の「バイキンマン」で統一します。
そしてところどころ画像を入れますが、非常に画質が悪いです。(パソコン画面をデジカメで撮影) 説明の補足という目的だけで載せていますので、見づらいところはご了承ください。


では、アンパンマンの基本的ストーリーから、


①新しいキャラクターがやってきます。ここではてんどんマンたちです。


②腹のすいたバイキンマンが見つけます。



③バイキンマンが奪おうとします。


④アンパンマンがバイキンマンを退治します。


⑤平和が訪れます。


まず、基本的なストーリーはこうなります。(細かいところは、今は抜いてあります)


さてここでフロイトの精神分析を拝借します。5歳の娘への回答にそれはないだろう、と言われそうですが……、それはおいおいまとめていきます。とりあえずは、私自身が考えたことをダラダラ書いていきます。
では「図解雑学 フロイトの精神分析」鈴木晶著(ナツメ社)を参考にして「なぜアンパンマンとバイキンマンは戦い続けるのか」について、心理学から見ていきたいと思います。
2つの登場キャラクターの関係については、


でありながら、


でもあるということです。


結論からいえば、この物語は人間のこころの世界を舞台にしたもの。バイキンマンはひたすら欲望(エス)を満たそうとする存在であり、アンパンマンはその欲望を抑えようとする「自我」である、ということです。
「物語アンパンマン」は人の欲望、心の中の葛藤を描いた物語である、ということなのです。よって、戦いに終わりはなく、人が生きている限り永遠に続くということです。


それでは、それらを説明していくために、基本原則から列挙していきましょう。


快楽原則と現実原則
フロイトは、人間の欲動は快楽原則と現実原則の2つの規則に従っていると考えた。快楽原則とは、欲動がひたすら満足を求めることである。しかし、人間が社会で生きていくためには、欲動の満足を我慢しなければならい。人間はしつけや教育を通して我慢を身につけていく。この我慢することが現実原則である。この原則で性の欲動と自己保存欲動を考えると、自己保存欲動は現実原則に従いやすいが、性の欲動はなかなか現実原則に従おうとせず、快楽原則にしがみつこうとする。

欲動とは人間を行動に駆り立てる内在的な力。性欲、食欲、運動、排泄欲など。これがバイキンマン。
バイキンマンは欲望の象徴ということになる。つねに食欲を満たそうとしむさぼり食べる。また、平和な町(心の中)を征服しようと暴力を使う。しかもこれら貪欲である。それにバイキンマンには「かびるんるん」という手下みたなのがいるが、これはカビで、いわいる増殖する。欲望が無限のように膨らむように、バイキンマンもかびるんるんを使って欲望を満たそうとする。


このような欲望をフロイトは「エス」と呼んだ。
エスとは無意識の中にあらゆる欲動を含むもので、ひたすら欲動を満足させようとする。
エスはいわば、欲動の貯蔵庫であり、ひたすら欲動を満足させようとするものである。その内部は混沌としている。こころを動かしているエネルギーはすべてエスの中から湧き出しており、エスはひたすら快楽原則に従う。したがって、自我としてはエスを野放しにしておくわけにはいかない。エスをコントロールしなければならない。

ここでアンパンマンが必要となるのだ。だがアンパンマンの役目は、決してバイキンマンを抹殺するわけではない。欲望の塊をいまある視界から遠ざけるに過ぎないのだ。
アンパンマンの敵は常にバイキンマンのみである。遠くに遠ざけるだけであって、制圧したり、やっつけることではない。「バイバイきーん」といって視界から遠ざかる、欲望なのだ。


仮面ライダーやウルトラマンのように敵を倒すことは、制圧し、征服し、相手を抹殺することである。
しかし、アンパンマンは敵であるバイキンマンを一時的に退けるといった形である。


これが永遠に続けられる。


自我とエスの関係。
フロイトは自我とエスの関係について、次のように書いている。
「エスと自我の関係は、暴れ馬と、それをコントロールする騎手の関係に似ている。ただ、騎手は磁力で馬をコントロールするが、自我は隠れた力でエスをコントロールする。騎手が馬から落ちたくなければ、しばしば馬の行こうとする方向に進みしかない。同様に自我も、エスの意志をまるでそれが自分の意志であるかのように実行に移すことがある」

エスは無秩序で混沌としており、社会の掟などを無視して、ひたすら快楽原則に従う。そのため自我がエスをコントロールしないと、人間は社会生活を営むことができない。しかし、フロイトが暴れ馬にたとえているように、エスの力は強いので、いつでも自我がエスをかんぜんにコントロールできるとは限らない。時には、エスが行こうとする方向に引っ張られることもある。
しかし、一方で、自我とエスは真っ向から対立しているわけではない。自我にもエスにも大きさがあるわけではないが、比喩的にいえば、エスの方が自我よりもはるかに大きい。自我は、エスというどろどろの海の中に、その一部が固まってできた小さな島のようなものである。その島の一部が抜け出して、島が小さくなることもあれば、島のまわりのどろが固まって島が大きくなることもある。つまり、自我が大きくなることもあれば、小さくなることもある。


「図解雑学 フロイトの精神分析」p155より


この文章、「エス」をバイキンマン、「自我」をアンパンマンに置き換えるとよく分かる。
だから、アンパンマンは(心の中を)常にパトロールをしている。欲望の抑制機能となり、欲望が暴走しないようにだ。


また「バイキンマンが欲望の塊である」という証拠に「バイキンマンは小さくなる」という特性がある。これは、洗われたり、きれいにされたりすると、バイキンマンの身体自体が小さくなるのだ。欲望も浄化されたりするとしぼむことがある。まるで心の動きを表しているようだ。


また、バイキンマンがタイムマシンに乗って過去に戻り、幼児となっているアンパンマンをやっつけようとした話があった。ここではアンパンマンも幼児となってが、そこには同じく幼児のバイキンマンがいた。その幼児のバイキンマンを鍛えれば、幼児であるアンパンマンをやっつけられるだろうと考えたのだ。この回の話のミソは、未来のバイキンマンが幼いアンパンマンをやっつけるのでなく、あくまでも、幼いバイキンマンと幼いアンパンマンを戦わせようとしていたところ。言いたことは、欲望と抑制が同じ力の均衡を保っていること。欲望の成長とともに、それを抑える抑制も成長するということ。つまり3歳の子供の心の中のアンパンマン物語だとすれば、3歳のアンパンマンの自我がいて、3歳の欲望のバイキンマンがいるということ。(分りづらいがこの辺りは次章以降で説明します) つまり、心の成長とともに彼ら2人(欲望と自我)も成長していくということになるのです。


「図解雑学 フロイトの精神分析」の説明では
『自我とは、私が「これが私だ」と思っているもので、心の主体となるものである。動物には自我はない。人間は本能が壊れてしまったため、そのままでは生きていけなくなった。そこで自然との隙間を埋めて生きていくために、本能の代理としてこころを生み出し、さらに自我を作り上げたのである。
人間は生まれてから死ぬまで変化していくが、子供のころの自分と今の自分は同じだという自覚を持っている。自我は、この一生持続する「私」のことだ。自我は変化すると同時に、一生を通じて同一のものである。
だが生まれたばかりの乳児にはまだ自我はない。自我は生まれつき備わっているものではないのである。乳児は自分と外界の区別も、自分と母親の区別もつかない。しだいに、自分と自分が加えている乳房との違いを知り、自分と母親が別の存在であることを知る。そして母親の自我を手本として、それを見習って自分の自我を作り上げていく。
自我は最初は全能感に浸っており、「自分はなんでもできる」と思い込んでいる。そして、しだいに自分は決して全能ではないことに気づいていく。また快楽原則と現実原則の関連でいえば、自我は最初はひたすら快楽原則に従うが、成長するにつれて現実原則に従うようになる』
と解説しています。


と今回はここまで、次回は物語の最大の謎というべき「ドキンちゃん」について書きます。


アンパンマン考 1 事の発端

Ⅰ事の発端、娘の疑問と父娘との対話

月曜から木曜までの夕方6時から1時間、BS4チャンネルで「アンパンマンくらぶ」が放送されている。アニメのアンパンマンが4本と「はるなおねえさん」のコーナーが本編の前後、途中にある。このコーナーではアンパンマンにちなんだ料理を作ったり、工作をしたりする。

この番組を5歳の娘は毎回欠かさずに見る。私も仕事が休みの日はつられて何気なく見ている。夕食を待つ間、娘が大人しくしているので、丁度いい時間帯なのだ。

さて、大人が見れば「アンパンマン」はどれも似たような話で、展開に変化はなく、出てくる登場人物()はだいたい同じだ。退屈というわけではないが真剣に見ているわけではない。

そこで、このワンパターンの勧善懲悪アニメを毎日のように見ている娘に「飽きないのか」と聞いてみた。

だが当然のように「面白い」という。

「へー、どこが?」と訊き続けた。あれだけ真剣に見ているのだから、何か子供が引き付けられる何かがあるはずだ。ちょっと興味が湧いた。

「うーん、アンパンマンがずっこけたりするところとか、ドキンちゃんの目がハートになるところ」と答える。と言いながら、目はアンパンマンを流しているテレビに釘づけのままである。

「ふーん」確かにビジュアル的に子供が喜びそうなところだ。でもそれだけで見続けるほど、単純ではなさそうなので「どこかもっと面白いところがあるんじゃないの?」と畳みかけてみた。

「だってみんな見てるし。○○ちゃんなんてアンパンマン博士なんだよ~」と答えながら、バイキンマンがアンパンチを食らって飛び去って行くのを見ながら「でもなんでアンパンマンとバイキンマンはいつもケンカしてるの?」と逆に質問してきた。

不意のカウンターパンチで「おっ」と唸ってしまった。「鋭い」そこに気付いた娘は偉い。確かにそれがこの物語の根幹だろう。私も見ながら「アンパンマンとバイキンマンが戦い続ける」ことがどうも不思議なことだと思った。パターン化された物語には、普遍的なメッセージが隠されている。馬鹿にしていけないのだ。老人が「水戸黄門」を見続けるのと同じだ。夢中になって見るのは、人を引き付ける魅力がどこかにあるはずなのだ。

そこで、アンパンマンに関して娘が不思議に思っていることを出させて、いろいろ聞いてみた。

要約してみれば大体こうなる。

「やっつけたバイキンマンはすぐまた出てきて、いたずらをするのはなぜ?」

「××マンとか○○マンとかなんで身の回りのものが出てくるの?」

「なんで人の形をしているのはジャムおじさんとバタコさんだけなの?」

とかいろいろ出てきた。言われてみれば確かにそうだ、と感心もした。

ただやはり「アンパンマンとバイキンマンがいつも戦っている」のが一番の不思議らしい。

どうやら、バイキンマンが全くの「悪」というわけでもなく、また悪であるべきドキンちゃんの存在がとても不思議だからだろう。「悪が絶対悪でない」「やっつけられる者が全くの悪」でないということだろうか。

よし、ここはアンパンマンの謎を解いてやろう。それが分れば幼児がアンパンマンを夢中になって見る理由も分かるかもしれない。

「物語を物語る」なんて大層大袈裟なサイト名でブログを開設しているのだから、ここはひとつ娘の疑問ぐらい簡単に答えてやろうと思ったのだ。だがそれが間違いのもとだった。

考えれば考えるほど、「物語としてのアンパンマン」は深いことが分った。

まずネット検索したが大したものは出てこない。「バイキンマンの資金源は?」とか、「なぜアンパンマンはマントがなくては飛べないのか?」といったものばかり。どうも安直なものばかりでどうも納得がいかない。それに、逆に謎が増えてしまうのである。

そこで途中まで書いていた「朝青龍マレビト論」を書き終えてから、準備に入って、数か所の図書館を回り、本を借りまくって、本屋に行って関連のありそうな本を集めた。

そして、アンパンマンを見ている娘の横で、私は娘以上に真剣に画面を見つめ、ノートを片手にして、気なった箇所をメモしていった。

そんな私の姿に、妻は「そんなことしたって、1円にもならないのに」とこぼし、呆れ果てた。

「くそー」こうなったら意地でも「娘の疑問」に答えてみるぞ。

それは自分の納得のいくものにするぞ。

それに是非とも、クリスマスまでにしたいのだ。(これには訳がある)

とは言ったものの果たして書き切れるのか。

期限はあと10日ほど……。

予定としては、








とこんな感じとなります。