ボーヴォワールと古今東西④ 〜そして第3の性〜 | 世界の切れっ端

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〜ひっそりと生息中@TOKYO〜

小柄でフェミニンなワンピースが似合う私の同僚。

 

でも嫌なのよね。男女平等なんて。私は反対よ〜www

 

ヒーヒー大汗かきながら上から下へ重い荷物を運ぶ男性陣をよそ目に、“女性だから”という理由で肉体労働を免除され、涼しい部屋で待つ我々。

へーなんでそう思うの?と聞いたら、

 

「だって私と夫はフルタイムで働いてる。そして家事は私の仕事、家賃や車とかの高額な支払いは夫の仕事、って分けてるの。担当する分野を分けることで負担を平等にしてるわ。もちろん重い物を運ぶのは夫。だから何もかもに『男女平等』を求められたら嫌なのよね〜www」

 

なるほどね!

お互いそれで上手く半分こできてるなら良いよね。

この中央アジアの社会では、まだまだ文化的に「男性はこうあるべき」「女性はこうあるべき」という性別によるルールが根強くあって、中にはフェアじゃないこともあるんだろうけど、なんかみんな「だってそういうもんだから」で納得しているような気がする。

それに、その国におけるジェンダー間のあるべき平等というのをなんとなくでも概念的に持ってる気がする。

 

(ちなみに彼女は後日、旦那に「掃除の仕方が甘い」とケチを付けられたらしい。「だったら手伝ってくれたらいいのにね!」と私がキレたら、「でも掃除は男性がするものじゃないと思ってるから。その代わり話し合って家事代行サービスを頼むことにしたの」だってさ。上手く協議して着地点を見つけたようだ)

 

ちなみに、ウズベキスタンでは女装する男性はいないし、ゲイの存在も社会的に認められていないそうです。

 

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日本は女性の社会進出が進んだけど、「あれ?男性と同じくらい働いてるのに、私の方給料低いの不平等じゃない?」「フルタイム

で働いてるのに、家事も分担しないと、しんどいの私だけじゃない!」となって爆発したんだろう。

この日本のジェンダーにおける不平等は、インドやアフガンなど他国で繰り広げられているような不平等や蔑視が招く不幸とは内容が異なる(詳しくは前回

 

でも、日本において、男性が持つ権利を女性も等しく求める、つまり男女間において、責任も見返りも負担も全て平等を求めることが日本が目指す「男女平等」であるのなら、女性は男性がこれまで社会的な義務として負って来たものも半分背負う覚悟が出来ていないといけない。

 

多分、男であるが故にしんどいこともたくさんあるんじゃないのかな。

だって「男もつらいよ」って寅さんが言ってたもん。

戦争になって徴兵制になっちゃったら、来ちゃうよ私のところにも赤紙が。

「覚悟は出来てるか?俺は出来てる」と、JOJOのブチャラティ先輩みたいにかっこよく言ってみたいもんだよ。

 

『戦争は女の顔をしていない』スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチ(2016)

↑兵士として最前線で戦ったソ連の女性兵士の話をまとめたノーベル文学賞受賞作品。女性差別が今より残る当時、戦地へ行く前〜帰還後を通して彼女たちが女性であるが故に遭遇した辛い事実が書かれている。

 

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元々、現代みたいに各個人の個性が社会的に認められるようになるまでの時代、生まれてきた時代の身分や性別、そしてその社会的制度における役割がまず第一で、その中に個性は埋もれていた、というか重要視されていなかったんだろうな。

ヨーロッパの貴族の女性なら貴族の女性としてあるべき姿、はたまた江戸時代の武家の男性なら侍として果たすべき役割・・・という感じ。

 

でも今は、個性という土台があってから性別(ジェンダー)をある程度自分なりに個性の一部としてカスタマイズできるようになったのかもしれない。

身体が男性か女性か、心が男性か女性か、という選択肢だけでなく、「どちらでもない」ノンバイナリー(Xジェンダー)という中性を表す第3の性が出てきた。

どちらの性別でもない、逆にその両性である、またはそういった性別に捉われたくない・・・など、様々な理由がある。

 

こういう考えが広まりつつあると言っても、受け入れられるかどうかは、その土地や国の文化的・社会的な背景によって違いはあるんだろうな。

制度より個人を優先してアイデンティティが求められる社会感が世界的に広まっている現代だけど、もちろんそうじゃない文化や社会もあり、それはどちらが良いとか悪いとかじゃないはず。

文化や社会によってジェンダー格差の内容が異なるのだから、求めるジェンダー平等も同一の内容ではない。昨今、なんでもグローバル化だとか言ってるけど、全部一緒くたにできるわけない。

 

だから、LGBTQ+を受け入れるのが先進的で、そうじゃないのは保守的で間違っている!というよくわからないマウントを取る人が時々いるけど、それこそ間違ってるんじゃないかなぁと思う。

多様性を認めようとしながら、排他的じゃないか。。

いろんなジェンダーを認めましょう、というのなら、「男性的」「女性的」を求めることも等しく個性として認めていいよね?

色々考えに違いはあるだろうけど、個人であっても、文化や国であっても、それは「違い」であって、「優劣」ではない。

だから、LGBTQ+が広まっているアメリカは良くて、保守的なサウジアラビアは悪い、と簡単には言えないはず。

 

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とは言っても、世間を跋扈している「それってただの口実では?」と思うような偏ったフェミニズム。

男女平等だー!と言いつつ、「○○女子」とか「〇〇男子」とか呼んでグループ化することにより、その希少性から他と差別化を図ったり、かたや、これが流行だと思ったら手の平返したように「今は性別関係ないんですぅ〜」とか言ってくる奴。

それまでジェンダー差別で苦労した人、はたまた、性的マイノリティであるが故に苦労してきた人が、ようやく声を挙げられるよう築いてきた努力の結晶を、横から軽いノリで便乗することによって逆にアンチを作り出してしまうという悲劇が生まれている気がする。

(つまり、よく概念をわかってない不勉強な奴は、余計なことをするんじゃあない!ということです)

 

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話はあちこち飛びましたが。

 

こんな世の中、性別含めて自分は一体どんなアイデティティを持っているのか、どんな特徴や特技があって、どうやって今の社会を生きていきたいのか、流行りのラベリングに便乗せず、ちょっとたち止まってちゃんと考えよう。

そして相手が持つ自分との相違点や特徴を個性として互いに認めよう。

そうすることで、現代社会はさらに良くなれるはず。

 

第3の性が市民権を獲得し始めている今日。

もしボーヴォワール先生がご存命なら、今の現代人はそう言われそうな気がする。

 

 

 

 

4本目のビールを飲み干して調査を終えたパンツ刑事、今夜もへそ出して寝ます。

熱帯夜@タシケント