ボーヴォワールと古今東西③ 〜ビビりながら宗教について触れてみる〜 | 世界の切れっ端

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〜ひっそりと生息中@TOKYO〜

風邪をこじらせて熱まで出したけど、ビールで体内消毒したおかげで無事復活しました。(良い大人は真似しないでください)

 

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一昔前の日本でも根強かった“女性は外で仕事せず、専業主婦として家にいて家事や育児をするもの”という考えは、ジェンダー(社会的・文化的な性差)とバイアス(偏見)により生まれるジェンダー・バイアス(=「社会的・文化的な性差による偏見」)の1つとして考えられるらしい。(参考はこちら

 

一世を風靡したブルゾンちえみ先生によると、現在地球上に男性は35億もいるそうですが、それって女性も35億いるわけです。世界の半分は女性。

なのに、「なんでこんなに私たち女性は不平等を被っているの!?」と叫んでいるのが、日本でも明治期から始まった女性解放運動。かの平塚らいてう先生はボーヴォワール先生が誕生する20年弱前に産まれている。

 

どのように近代に入って女性解放運動が社会の表層に出て来ることが出来たのか・・・ということは今回はちょっと横に置いておいて、上記のジェンダー・バイアスが「社会的・文化的な性差による偏見」ということであれば、なんでそんなものが爆誕したのかちょっとその社会的背景を調べてみよう。

 

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社会を考察するにあたり、切っても切り離せないのは宗教だと思う。

その教義や戒律は、それぞれの社会や文化を形作ってきた。

 

ギリシア神話やメソポタミア神話、インド神話に中国神話、アステカ神話、、そして日本神話に至るまで、世界各地に残されている神話には男性の神様だけではなく女性の神様も存在する。ふむふむ。

さすがにこれらの神話が生まれた古代の人間世界がどうだったかは調べきれないけど、現代でも広く信仰されている主な宗教では女性はどんな位置付けをされているんだろう。

 

ボーヴォワール先生の出身国であるフランスはキリスト教が主流で、カトリック教徒が約90%。

カトリックは、女性牧師や司祭も存在するプロテスタントと比べて女性蔑視があるイメージが強い。例えば、カトリック教会は、イエスが意図的に男性のみを弟子に選んだことを理由として女性司祭を認めていないなど。

(一方、イエスは当時の規範に従っていただけだと反対派は反論している。詳しくはこちら

そもそも、旧約聖書でイブはアダムの肋骨から誕生した、という点から男性優位であると根拠づけられると考える人もいるみたい。

 

世界で2番目に信者の多いイスラームでは、男性は4人の女性と結婚できるのに女性は1人の男性だけだとか、遺産相続については女児は男児が受け取る半分の量だけ、などが聖典クルアーンに記載されている。

2021年、タリバンの報道官が「シャリーアの範囲内で女性の権利を尊重する」と宣言したが、「そもそもシャリーア自体が男女不平等じゃないか」みたいな疑問を持った人も少なくなかったのでは。

 

仏教はどうかと言うと、女性は修行しても仏になれないとする「女人五障(にょにんごしょう)」や、女性は親、夫、子に従うべきとする「三従(さんしょう)」の教えがある他、女性は男性に生まれ変わってこそ成仏できる「変成男子(へんじょうなんし)」なんて思想がある。

中国や韓国では仏教に並んで儒教の考えも根強いけど、ここでも家父長制は徹底されていて、女性の社会的は極めて低い。

 

ユダヤ教、特に超正統派のある一派では、現在のNYのコミュニティでも、女性は結婚したら髪の毛を剃るという身嗜みに関する規律の他、女性への教育は不要とか、多産が求められるとか、女性の自立を阻む戒律に縛られているそうな。(私の留学時代のNY出身のユダヤ系の女の子はショートパンツで元気に外を走り回って、今でもゴリゴリ仕事してるけど)

 

ヒンドゥー教では、カースト制の影響で、結婚時に新婦側から新郎側へダウリーという贈答をしないといけないため、女の子が生まれた時点で○しちゃうとか、夫に従順な妻は夫の死後は殉死することが美徳ということで、一緒に火葬されちゃうサティーという恐ろしい慣習があったり(1829年まで存続、今は禁止令が出ている)。もうなんかここまで来ると凄まじいな。。

 

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上記のような宗教的な解釈(?)に基づく男女差については、色々とよく見直さないといけないという考えや、現在の価値観に沿った新しい動きなどがある。

 

例えば旧約聖書でイブはアダムの肋骨から誕生した、という点。

創世記はシュメール語からヘブライ語に翻訳されている部分が多く、この「肋骨」は、シュメール語の誤訳に起因しており、正しくは“肋骨”の女ではなく、「“命あるものの母としての”女性」と訳すべきだったのでは?と、谷口正次先生は語る(詳細はこちら)。

 

キリスト教だって、色々と女性には制限があると言っても、カトリックが主流の中南米では聖母マリア信仰が盛んだし、西欧のカトリック諸国でも「I LOVE♡お母さん」文化があるので、決して家庭における女性の地位は低くないという考えもある。(竹下節子先生のお話が面白いです。こちら

 

クルアーンに関する解釈だってそう。

当時のアラビア半島では女性の地位が極めて低く、女児が生まれるのは一家の恥として産まれてすぐ生き埋めにされていたらしい。。

でもそれをクルアーンでは強く禁止している他、男性が妻帯できるのは4人としたのは、当時戦争により大量に発生した未亡人や孤児の救済するためであったり、女性の財産に関する権利を明確にしたというのは、当時の社会にとっては、画期的な女性の社会的地位の向上に資する考えだった。(詳細は塩尻和子先生の考察。こちら

超保守的なサウジアラビアだって、つい最近、女性の運転免許取得が認められた。

え!今までダメだったの?と驚きだけど、逆に現代社会の考えやニーズに沿って対応していることが窺えるのでは。

 

ユダヤ教では、超保守的なNYのコミュニティから抜け出した女性が自身の体験に基づく「アンオーソドックス」という著作を発表し話題になっている(詳細はこちら)。一昔ならメディアに発表なんて出来なかっただろうに、これも時代の流れかな?

 

とは言いつつ、まだまだカースト制度が根付くインドや、名誉殺人が肯定されるパキスタンやアフガニスタン、そして女性蔑視が残る中国(最近のショッキングなニュースはこちら)など、女性の地位が低い国は多いのもまた現実。

 

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ということで、宗教における考えや慣習が女性の社会的地位を低くする(と、現在では捉えられる)ベースの考え方となって、ずっと文化に根付いてきたようだが、近代に入ると賞味期限切れになってる考えも出始めた。

「う〜ん。。守るべき習慣や考えはあるんだろうけど、でも、今の時代にはもうその女性像は合わないのよ」と、今まで触れられなかった“女性はこうあるべき”論に疑問を呈し、「そもそも女ってなんぞ?」ところから問題提起したのが、平塚らいてう先生やボーヴォワール先生だったのでは。

「名称変えたら男女平等☆」なんてうわっぺらな考えの我が社なんて、「そーじゃねーだろ」って先生方から蜂の巣にされてしまうYO!!

 

「だって神様がそう言ってるんだもん。」「聖典にそう書いてあるんだもん。」

確かにね!神様には文句言えないよ。

でも、それを理由にしちゃったらもう思考停止だ。

もし前進あるのみと現代の私達が考えるのなら、ちょっと立ち止まって、現代を生きるに当たって最適な解釈をしていくべきなんじゃないだろうか。難しくても。

宗教が世紀を超えて人間の精神の拠り所となることはあっても、人間個人の成長や社会の発展を妨げるものではと思うんだ、本来は。こんな考え、タブーなのかもしれないけど。

 

だからよくわからん誤ったフェミニズムが罷り通ってるのも、ちょっと頭を抱えたくなるよ。

 

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「でも嫌なのよね。男女平等なんて。私は反対よ〜www」

かつて女性をクリスマスケーキに例えていた日本と全く同じ考えが現役続投中の、ジェンダー・バイアスが色濃く残るここ中央アジアで、我が同僚は屈託のない笑顔で語る。

彼女は男性並みに稼いでいる、つまり社会的に男性と同等に活躍しているにも関わらず、フェミニズムには反対のご様子。

 

お、なんでだ?

 

ということで、パンツ刑事(←まだこのネタやってる)は、3本目のビールを飲み干した。

 

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