徒然時事日記 -9ページ目

最近の時評 アラカルト

アラカルト ②



中越沖地震で東京電力柏崎刈羽原子力発電所(柏崎市、刈羽村)が大きな被害を受けた。活断層の地盤の上に構築されているようなのだ。その中、私がTVのニュース実況映像を見ていて不思議だったのは、外部の電源部分が黒煙を上げ、火元もしっかりとその映像で捉えられていたにもかかわらず、消火活動が少なくともその何分かはやっていなかったことだ。そのメディアのヘリが到着するのに何分かかかっていたと思うが、それとこれを重ねて考えると、およそ1時間は消火活動がなかったと言うことだ。自前の消防によりあるいは地元の消防署の応援を得ていの一番に駆けつけて消火しなければならないはずなのに、それがなかったのである。それはなぜか。その時、「放射能」が漏れている危険性がマニュアルから判断され、それを東電が知っていたんだと思われる。水にではなく、空気中に漏れがあった可能性が高い。メディアではそこのところを突いているものがなかったのもおかしい。きっと後々問題となろう。そうであって欲しくないが、、、。


わが国の首相の危機管理は幼い。地震が発生した直後に現地に飛んだ。格好がよかった。首相自らすぐやってきて心配してくれている。と、被災民にそして国民に訴えたかったのだろう。であるが、一国の首相が現地に早々と入るにおいて、あまりにも軽軽すぎた。国土交通相か災害担当相、若しくは首相補佐官が入るべきであった。実務官僚の責任者が入るべきであった。なぜか。その際、国家存亡のことがほかに起こったらどうするのか。首都に「頭」がいないことは危機管理として脆弱の誹りを免れないからだ。甘いと言わざるを得ないのだ。


「18日午後0時15分ごろ、京都市伏見区の京都南社会保険事務所で、年金相談に来た男が、応対した国民年金業務第1課の男性職員(47)に声を荒らげ、胸を拳でたたいた。通報で駆けつけた伏見署員が男を公務執行妨害で現行犯逮捕した(7/19、読売WEB版)。」暴力はいけないが、今般のことは社保庁職員のふざけた怠慢から起こっているのだから、平身低頭してことにあたらなければならんのです。対応した職員にそういう気持ちが現れていなかったんでしょう。皆、殴ってやりたい気持ちを必死に押さえているんです。



ガス中毒に見せ掛けるなどして夫ら2人を殺害したとして殺人などの罪に問われ、平成3年に死刑が確定していた諸橋昭江死刑囚(75)が、肺炎のため死亡したことが18日、分かった。関係者によると、諸橋死刑囚は東京拘置所(東京・小菅)に収容されていた今年5月14日、急性心筋梗塞(こうそく)と診断されて都内の病院に搬送された。その後、入院して治療を続けてきたが、今月17日午後、間質性肺炎のため死亡したという(7/17、産経新聞WEB版)。死刑囚が病気で手当てを受けることには反対しないが、その病気故に死んだとなると、被害者としての本人とそれに連なる人々の気持ちはいかばかりだろう。最高裁で死刑が確定しているのだから、相当の時間の経過があるのだから死刑を執行するべきではなかったのかとの思いが強い。関連で、一度、賀川豊彦氏の『死刑囚』を読んでみて下さい。


最近の時評 アラカルト

アラカルト①


  目下、わが国では参議院議員の選挙戦たけなわである。小沢氏の潔さとは反対に、安倍首相の態度はいささか武士(もののふ)ではない。判官贔屓ではないが、年金問題で頑張った民主党に、小澤民主党に政権の道を明けさしてやろうと思っているのは私だけではないだろう。



  この参議院で改選対象の大仁田氏は、自説を曲げずに出馬をやめた。政党政治とは何かが分かっていなかった若者だったのだろう。自嘲気味に、荒れた委員会では議長のボディーガード的な役割しか与えられなかったと告白しているのは、なんとも「痛ましい」。かの、元NHKアナウンサーの「おばんです」氏は、残酷であった。大橋巨泉氏の議員辞職は言わずもがなである。



  新潟県中越沖地震が起きた。死者10人となった。倒壊した家屋の下敷きになった人が多かったということだ。お悔やみ申し上げます。


  この地震でもライフラインが遮断された。すでに被災から4日経つがおよそ1万人ぐらいが避難所暮らしである。独居の人もあろう、病気の人もあろう、それらの最も弱い人々が最も先に助けられるようなシステムが未だ構築されていない。これが日本の「福祉」の現状である。阪神大震災からちっとも変わっていない。



  年金問題であるが、これは国家機関の作為あるいは無作為の犯罪だ。強制的にお金を集めておいて、記録しないでほったらかしにするどころか、記録そのものもいい加減で支離滅裂だ。第三者機関と言った「正義の味方」が現れて大鉈を振るうと言うが、いちいち対象者の家を訪れて頭を下げ、「記録回復」の処置をとるのが本筋だろう。我々国民が好き好んで間違ったわけではないのだ。国家機関の役所の職員の怠慢で起こったことなんだと言うことを忘れてはいけない。事務所まで出かけろとは、何事ぞと言いたい。交通費がかかるだろう。病弱のお年よりもいるだろう。現役は会社を休まなけりゃならんだろう。一体全体、これはなんだ。ふざけるな と言いたい。

朝日新聞の矛盾論

   7月7日は七夕である。七夕が近づくと天気予報でも当日の天候の具合が報じられる。保育園、幼稚園、小学校で、あるいは村々の小さな地域、町町の公民館、お年寄りが身を寄せている介護施設、都市部でも民間の商業施設、公的な広場等々、思いを乗せた短冊が笹に舞っている。近来、わが国では7月7日はそのような夢や志が遥か彼方の天の川に願いをこめて七夕を祝ってきた。

  

   近くの公立の図書館に行ったとき、七夕が飾られていた。短冊には習いたての字で子供の願いが書きつられてあった。「いつまでもへいわでありますように」「ぷろのさっかーせんしゅになれますように」「おばあちゃんいつまでも元気で」等等。私は一瞬足を止めて、それらの夢に見入ったものであった。私の小さい頃もこうだったなーと感懐に耽ったのである。7月7日とはそのような七夕の日である。

   しかし、朝日新聞では7月7日はどうもそのような日ではないらし。社説には【盧溝橋事件70年  もう一歩、踏み出す勇気を】が掲載された。社説は新聞社の心臓である。このような社説にどうして7月7日は【盧溝橋事件】なのかがわからない。事件が7月7日に起こったことなど知る日本人はもはや数少ない。知っているのは研究者や〈朝日新聞〉だけである。であるから、どうして子供たちの夢が馳せる7月7日の七夕を歪曲する必要があるのだと言う事である。七夕を祝ってはどうしていけないかである。子供の夢を破壊する朝日新聞だから「ショウガナイ」のだろう。

  

   朝日新聞の歴史観が噴出した内容の社説には、7月7日に起こった盧溝橋事件は中国では「七七事変」と言われ「民族屈辱の日」とされている。「七夕を祝う日本とは大違いだ」と言う。結論から言えば、朝日新聞ではどうも7月7日は七夕を祝ってはいけないのだと言うことになる。その日は中国民衆と中国政府のために、日本への怒りと言う「民族感情の渦が代々受け継がれていること」を再意識させる日とさせるべきであると言う。そして、歴史の論争は「専門家に任せ」て一国の総理大臣が現地に行って頭を下げることだと主張する。


   中国の歴史上最も他民族の虐殺があったチンギスハンの大帝国は、現ヨーロッパにいたるキプチャクハン国などの4ハン国の事実が物語るように、他民族への大虐殺の歴史、大レイプの国家建設事業であったことが井上靖の『蒼き狼』に語られている。ここに一例として、朝日の歴史観を敷衍すると、中国4000年の歴史を踏む現中国政府はどれだけの侵略日や虐殺日に対して頭を下げざるを得ないかである。他民族との融合は何によって行われたのかの一歴史的事実は、婦人の獲得であり、侵略する民族の血が他民族を圧倒していくことが正当化されたことによる。そうすると、わが国2000年の2倍の歴史がある中国では、その『思い出の日』はいくつあることになるのだろうか。数多であろう。朝日の主張によると、征服された民族の日々が歴史的には重要であるから、4000年の歴史を中国政府は精査して《頭を下げる》必要がある。そして、世界のありとあらゆる国家でその過去の時代において一度でも他国を、他民族を征服したことがある国は、かようにして「歪められた歴史観において、屈辱的に、頭を下げる」必要があるのだ。朝日新聞の依拠する『弁証法』ではそうなるであろう。


   朝日新聞はどうも偏狭の歴史観が好きなようである。この社説に代表される朝日新聞の生命は、真っ赤に彩られている。人民解放軍報、人民日報、新華社の代理人を彷彿とさせる記事ではある。「世界」の言論をリードする「朝日」は偉い。その世界とは、《中華世界》である。四囲の民族を劣等に見る中華である。中華とは、前にも言ったことだが、東夷・西戎・南蛮・北荻(草冠なし)の中心にあることを表徴する文字である。『朝日』とは中心に太陽が照り映える意味に通ずるから、その意味では代理人であろう事は察しが着く。『真っ赤な朝日』なのだから。


   最近、初代防衛省大臣が「原爆投下はショウガナイ」事件で辞任したが、これを批判した当の朝日が社説で、中国とは違って日本では、「とりわけ広島と長崎への原爆投下といった被害の方が深く記憶に刻まれがちだ」と《ショウガナイ》発言をしていることは批判されるべきである。被爆者の悲哀が深く心に刻まれないとするなら、どうして久間氏は辞任せねばならなかったのかを朝日新聞は証明せねばならない。と言うよりも、どうして『広島と長崎への原爆投下といった被害の方が深く記憶に刻まれがち』なのはいけないかである。阿鼻叫喚の地獄絵図を侮辱する朝日の記事は徹底的に批判されるべきである。これまで朝日は社是として深く刻まれるべきであると主張してきたではないか。そうであればこそ、防衛大臣が辞任したのではなかったのか。これも朝日新聞の矛盾である。彼らが何を学んだか知らないが、矛盾こそ朝日の生命なのだろう。かの毛沢東の著作『矛盾論』の背骨は「唯物史観」であるから当然なのだろう。


   その典型的な記事の一つは、本日7月8日付け13版7面、『盧溝橋事件70年7 友好と反日』の正当化記事、35面の『軍国の子どもたち  写真が語る戦争』の自虐史観に基づく記事である。特に後者はある意味で重要である。一面全部を使うことで朝日は戦争の残虐性を際立たせようとし、先の盧溝橋記事に援護射撃を試みたのであろうが、朝日新聞の戦争への加担証拠となる写真でもある。朝日新聞は過去の克服と銘打つ記事が多いのは当人が言っているようにかような戦争賛歌、戦争美化が先陣を切って朝日がやっていたからである。その名残が、最近まで新聞トップにあった『旭日旗』であり、社名の『朝日』なのである。


   この社名を変えずして、朝日新聞が世界の言論をリードする資格はない。それも「世界」新聞とするほうが的を得ているだろう。あの「世界」が似つかわしい。