北京オリンピックの開催について
北京オリンピックは、 2008年 8月8日~8月24日まで開催される。大会運営費 は約16億2500万ドルと言われている。
近代オリンピックは、かのクーベルタンの「参加することに意義がある」ことには違いない。が、現代社会にあっては、国際政治の荒波に翻弄されてもいることをわれわれは知っておかなければならない。近い過去のおいては、モスクワオリンピックには、東西冷戦の最中であり、アフガニスタンへの旧ソ連軍の侵攻もあって、アメリカをはじめ日本も不参加であった。決して、オリンピックは政治とは無関係ではないのだ。
近代オリンピックは、近代西欧資本主義社会の社会主義に対する謳歌を喧伝する役目を負ったことは否めない。スポーツにおける人間の親愛が、自由が「思想」や「体制」を超えられるかを問われ続けられたものでもある。その断片としてモスクワオリンピックがあろうと思う。今やソ連邦が崩壊し社会主義が危機に瀕しているといっても過言ではないが、社会主義の子供・中共(中華人民共和国=中国)が近代西欧資本主義社会の真似事をしようとしている。大会運営費 を約16億2500万ドルも費やそうとしている中国は共産国家ではないのである。中国が目指した国家像は、自由よりも「平等国家」であったはずである。しかし、トショウヘイの改革開放路線への急激な転変は、万元戸を生み、沿海都市部と内陸地方都市の経済格差を顕現化し、「平等ではない社会」を現出させたことはもう誰でも否定できない事実である。
毛沢東が樹立した国家は、もはや社会主義国家ではない。資本主義の生命である「私有財産制」は、現代中国の絶対使命となっている。私有財産制が認められなければ国家の富が集積されないことをソ連邦崩壊後の中国共産党は学習したのであろうが、いまだに「中国共産党一党独裁」を堅持していることを見れば、それは似非社会主義であることは明白である。中国は「平等社会」の仮面を被った資本主義国家なのである。ただ、中共の権力機構にのみ富が集中されている事だけが、皮肉にも中華人民共和国の体面を辛うじて維持しているのである。いわば、マルクスが資本主義を評して言ったように、今や社会主義が人民を「搾取」していることを注視するべきである。
中華思想は、本来「世界の中心」と言う意味である。世界の中心に「中国」があり、『東夷・西戎・南蛮・北荻』の野蛮国家が東西南北に位置していることを意味している。余談だが、古代中国では日本を『東夷』と呼び、中華思想を学んだわが国でも戦国時代は南からやってくるイスパニアやポルトガルを『南蛮』と読んで卑しんだのである。
まあ、それはそれとして、今回の北京オリンピックはアジアで東京についで二番目のオリンピックとなる。アジアの友人として大いに成功を祈るに吝かではないが、以上のような歴史観と国家観をしっかりと持ってこのオリンピックを見ることも重要である。今日のニュースには、中国の報道機関の報道の自由が制約を受けつつあるとあった。外国メディアには中共の体制内で可能な限り自由をつくろい、国内のメディアにはポイント制とかで圧力をかけ続ける。しかし、メディアの自由の進行は、誰も押し留めることができないであろう。
かのヒットラーはオリンピックを利用したことを思うべし。その「宣伝」の精髄を毛沢東が学んだことを思うべし。オリンピックは、スポーツの祭典であるが、同時に政治的である事には違いない。政治を抜きにして語れないのである。
死刑執行について
お待たせをいたしました。本日から、「徒然なるままに」書き記していきます。
一昨日、3人の死刑囚の死刑執行がなされました。メディアは、執行のみを取り上げて、死刑廃止があたかも国民の声であるかのごとく、声高に報道していました。
しかし、わが国は「法治国家」ですから、法によって裁かれた死刑囚の死刑執行は、至極当たり前であり、国民代表の法務大臣の刑の執行は政治的務めでもあります。法治国家の死刑は、私怨からのリンチではありません。国民の代表が国会で「法」をつくり、それを法の正当性の下、関係人が執行するのです。言わば死刑執行が国民から要請されているものです。そのように考えるのが妥当であります。
死刑廃止論者は、無残に虫けらのように殺された人間の生命やこれを育んできた親愛の人々にどのように説明しようとするのでしょう。私は、「あなたの最愛の人が目の前で残虐非道に殺されても、死刑を望まないのですか?」と問いたい。私には夢物語に聞こえるのです。
小泉内閣の時に、ある法務大臣は「私はキリスト者だから、死刑執行に署名しない」などと言っておりましたが、この法務大臣は政治家でなければ問題がありませんが、国民代表の政治家であることによって法務大臣になったのであるならばその政治的使命を高くして責務を果たすべきではなかったかと思います。できなければ、法務大臣に任命されるべきではなかったのです。かの政治家は、その法によって「信仰の自由」(キリスト信仰)が保障されていることを再学習すべきだと思います。かの政治家は国民の負託に応えられなかったのです。この点で、亡くなられた後藤田正晴氏は、政治的使命を立派に果たした政治家であると声を大にして顕彰したいのです。
封建制度化の「法」は概ね一人あるいは少数の政治的権力者によってつくられ、制度化されたのであり、法が執行されたものです。その反省の下、フランス革命のスローガンでもある「自由・平等・博愛」の精神が近代国家の成立を加速させ、その近代国家の統治制度が近代法によって決定されることとなったのです。この近代国家の「法」をどう読み取るかは、ベッカリーア著『犯罪と刑罰』が一参考になります。国民の「法」に対する見方・考え方が、現在のわが国では「死刑執行」を妥当と見ていることの理由を
死刑廃止論者は謙虚に考えるべきです。
殺された人の「人権」よりも「殺した人の人権」が大切なのであろうか。ともするとこれが、頭でっかちの、似非博愛主義者のメディアが「自由・平等・博愛」を擬装し、旗を振ることになるのです。歴史的考察をしっかりとすれば、「法」によってなぜ「死刑執行」が正当性を持ってなされるのかがわかります。
現在、わが国の生存する死刑囚は99人と言われています。歴代の法務大臣が執行を先延ばしし、避け、目を瞑り、怠惰な精神に酔っていたから現在も99人の死刑囚が執行されずにいるのです。生存している死刑囚の中では、1968年12月に福岡地裁で強盗殺人の罪で死刑判決を受けた「マルヨ無線放火殺人事件」の尾田信夫死刑囚がおり、今でも再審請求中であります。
かように、40年間も待たされ続けている、殺された人の家族がいることを思うことである。一日足りと安息の日々はない。精神が、肉体が長い年月によって却って蝕まれていく。殺人者よりも刻苦を味わっていらっしゃると私は慟哭するのです。私は、かような観点からいつも死刑囚の死刑執行の記事を見ているのです。