ああ、憐れ。
実に痛ましいことが起こった。
「15日午前7時ごろ、福島県立高3年の男子生徒(17)=同県会津若松市=が「母親を殺した」と切断された人間の頭部を持て福島県警会津若松署に出頭した。男子生徒はバッグに頭部を入れて署に現れ、署員に「刃物で殺した」と話した。男子生徒の自宅にあった女性の遺体は、布団に横たえられていたという」。「関係者によると、男子生徒は精神科に通院歴があ」ったと言う。
殺されたと思われる女性(多分男子生徒の母親)のご冥福を心からお祈りするより他に術がない。また、男子生徒の弟の心のケアーを十分にして欲しいと願わざるを得ない。そして、事実関係をしっかりと解明して欲しい。17歳の少年の心に何が起こったのだろうか。産みの母親を殺すにいたった動機とは一体なんであるのか。心の闇が深かったのであろうことだけが推測される。
一人の親として考えざるをえない。
国民投票法の成立は何を意味するか。
憲法第96条にもとづく法の具体化は、立法府の使命である。
立法府は主権者の国民代表が議論を尽くして、政治的対立を克服しながら、国家と国民に安寧と秩序及び幸福を齎すべく存在する。戦後のわが国のデモクラシーは、確かに占領軍によって与えられたものであったが、それが戦後60年を経る過程でわが国の政治風土と立派に調和し育まれ、日本の平和を維持し世界の平和に貢献し続けてきたのである。
一部メディアは、ともすると憲法改定が必要でない風潮を作ってきた。護憲と言いながら、一方では憲法が要請する「法律」の制定を蔑ろにしようとする。まるで矛と盾である。真の護憲とは、憲法の不備を克服することである。不磨の大典
ではないのだから、国民代表の意思が憲法改定を望むにおいて、いつでも対応できる「法」を備えておくことが立法府のなさねばならぬ本来の仕事である。然る後に、国民が望むのであるならば具体的の憲法新案を発議することが真の姿では
ないのか。斯様な筋の通った道筋を示すのがメディアのやらなければならぬ喫緊の仕事であろう。
国民の代表は国会議員である。メディアではない。メディアの主張は、飽く迄報道機関の言い分である。結果は、国民に責任を負わないのである。その瑕疵は「法」によって裁かれるとしても、立法府には責任を負うものではない。国会議員は国民に政治的責任を負っていることとは対極にある。責任を負わないメディアの主張は、無責任とも言えよう。
国民投票法も法であるから、その時代時代の国民の声を反映するべく改正されなければならないのは当然である。それをなすのもまた立法府である。立法府は選挙の為にあるのではない。メディアの為に存在するのでもない。主権者の意思を代弁するのである。その意思の吸収をスムーズにするための機関として政党がある。政党政治が行われる。そして、権力の効果的な執行機関として政府がある。行政府がある。所謂議員内閣制である。これが意思を具現化するのである。
国民投票法の成立は何を意味するかを新華社が電子版で伝えた。新華社の主張は側面的である。憲法9条の改正だけが取り上げられる。平和憲法の全体を見ていない。中共では、 改憲がなかったのか。改憲は平和憲法を蔑ろにするのか。兎も角も、他国の国民が望むことに口出しは無用である。一部政治家の主張の為に改憲するのではない。日本国民が判断することである。
いわゆる日本的「甘えの構造」について
日本学生野球憲章には、以下のようにある。
「われらの野球は日本の学生野球として学生たることの自覚を基礎とし、学生たることを忘れてはわれらの野球は成り立ち得ない。勤勉と規律とはつねにわれらと共にあり、怠惰と放縦とに対しては不断に警戒されなければならない。元来野球はスポーツとしてそれ自身意昧と価値とを持つであろう。しかし学生野球としてはそれに止まらず試
合を通じてフェアの精神を体得する事、幸運にも騎らず非運にも屈せぬ明朗強靭な情意を涵養する事、いかなる艱難をも凌ぎうる強健な身体を鍛練する事、これこそ実にわれらの野球を導く理念でなければならない。この理念を想望してわれらここに憲章を定める。
第一章 総 則
第一条 この憲章は、学生野球の健全な発達を図ることを目的とする。
第十三条 選手又は部員は、いかなる名義によるものであっても、他から選手又は部員であることを理由として支給され又は貸与されるものと認められる学費、生活費その他の金品を受けることができない。」
高野連は、今般の「野球特待生」問題で処分の緩和を打ち出した。高野連は過去において幾多の厳しい処分を実行したものだったが、最近では夏季優勝高の不祥事に対して咎めることをせず、憲章の存在意義を蔑ろにしつつある。部員以外の不祥事でも厳しく対応してきたのは他ならぬ高野連ではなかったか。この甘さはいったいどっこから出てくるのだろうか。
日本学生野球憲章の前文には「勤勉と規律とはつねにわれらと共にあり、怠惰と放縦とに対しては不断に警戒」するとある。第十三条には「いかなる名義によるものであっても、他から選手又は部員であることを理由として支給され又は貸与されるものと認められる学費、生活費その他の金品を受けることができない」と厳格に定義しているではないか。
「勤勉と規律」は、もはや高野連にはない。処分されるべき部員は7900人を超えるというが、数が問題ではないはずだ。全ての違反した高校、部員の処分が第一である。経済的の困難から退学しなければいけなくなるからとかの問題ではなかろう。苦しいのはこの奨学生の親だけなのかを考えれば分かりそうなものだ。母一人、子一人で進学させている母親がおり、暗いうちから仕事に出、男並みの重労働をし子供を高校に通わせている人もいるだろう。その子らへの配慮なしに、単に野球が少しできるだけで奨学金を得て進学させていることに甘いのは一体なぜだろう。対象高校が500校だろうが、部員が1万人だろうが憲章違反は明らかなのだから、処分するべきである。高野連と野球少年の親には「道徳性」が欠如していると言わざるを得ない。このような部員たちは、何でも「処分は緩和される」と錯覚して大きくなる。本人のためにも良くはない。学ぶことは、高校に行かなくても学べる術が沢山ある。大検を受けて進学する事だってできる。処分を実行して後、改革すべき点は改革しても遅くはない。
今回の問題の関係人全てに「甘えるな」と声を大にして私は言いたい。自縄自縛に陥っている「怠惰と放縦」の高野連、「勤勉と規律」が泣いている。