徒然時事日記 -15ページ目

教育3法案の改正について

  わが国の戦後教育の経過と問題点は先に述べた。今回は、衆議院で可決された3本法案について述べてみたい。教育関連3法案とは「地方教育行政法改正案」、「学校教育法改正案」と「教員免許法改正案」である。


  地方教育行政法改正案は、いわゆるいじめによる生徒の自殺が相次いだことから提起された問題を政治の場で解決しなければならなかった教育現場の脆弱さから必要なことである。悲鳴をあげているのは教員ではなく、その教員に教えられている生徒なのだということをあらためて認識することだ。教育を等しく受けさせることは国家の義務であるが、戦前の反省から国家の意思を抑制しながらそれを地方の地方教育行政に委ねてきたのである。その中核は教育委員会であろう。


  しからば、教育委員会は生徒の命を救ったであろうか。平々凡々として一日を過ごし、学校にはふんぞり返っている存在ではないのか。一方、校長は教育委員会の影に怯え、さらには媚を売る。皆さんの住んでおられる自治体の教育委員会を一度は訪ねてみるとよい。ほとんどの方は、ご覧になったことがないと思う。職員が漫然と椅子に座っている風景が飛び込んでくる。電話相談には、理想論のみ言って一日を過ごす。当たり障りのない言葉しかない。もっと悪いのは「教育事務所」であろう。教員の事実上の人事権限はここが掌握している。この中、「教育指導主事」がおりこれがまた教員に対してはきわめて強い権能を有している。校長クラスや校長になりたいものはここに頭を垂れるのである。事件が発生すると現場に責任を取らせるのがこれである。教育事務所は生徒の命を救ったであろうか。事件が明るみに出ることを恐れ、ひたすら隠蔽しようとする。教育委員会は何をしたのだろうか。何もしていないのだ。


  確かに学校は会社とは違う。生産現場とは違う。しかし、教員が能力を磨くにおいて、会社の社員と違うことはない。学ぶこと、働くことはまったく同じである。教育職は聖域ではない。それぞれの組織には自ずとヒエラルヒーができる。組織が安定するためには「権力の統制と調整」が必要である。そのための責任部署を作り責任者を置くことは当然である。そして、教育の向上と安定を図ることにおいてなんら不思議はないのである。単なる「平等」は悪しき平等である。平等とは法の下における「機会の平等」を言うのであって、横並び一直線を言うのではない。人には自ずと個人差があるのだ。学校教育法を根底から改定することでなければまた同じことが繰り返されるであろう。


  かつて評論家の大宅壮一は、わが国の高等教育について「駅弁大学」と揶揄したことがある。乱立気味の大学、マンモス大学等々、旧文部省の行政のあり方を批判したわけである。特に短大に対しては厳しいものがあった。2年間で何ができるのか、卒業証書発行所、花嫁道具に成り下がっていると。更に問題なのは、教育系の大学・学部だけでなく、他大学・短大に「教職課程」なるものを設置させ、教員免許状を乱発してきたのであった。教員免許状が「花嫁道具」なのである。初等中等教育にのみ「教員免許状」が必要なのである。大学にはない。その道に秀でており、専門的に研究し、学生を指導できるならば誰でも大学の教員になれるのである。教員免許状を取得しているとその人は立派に見られたものであったことを事実として反省すべきときに来ている。専修免許と言いながら、大学院修士課程で学部の教職課程を履修すれば取得できる制度がおかしいのだ。成績は優良可の「可」でいいのだから良質の教員ができるわけはなかろう。


  教育免許状はかくて取得さえすれば死ぬまで一生有効なのである。宝は生かされないのだ。筒に入って箪笥の奥に仕舞い込まれているのが相場だ。吉田松陰の「松下村塾」は、なぜ明治国家の指導者を輩出したのかを考えれば答えは自ずと出てきそうなものだ。免許は不要にして公募し、優秀な教員を確保する道もつける必要があると私は思う。吉田松陰の教育とは何であったかを今一度考える必要がある。

自衛権とはなにか。

  自衛権とはなにか。それは日本国を敵国の武力攻撃から守る自然権である。憲法に書かれていないからといって、この権利がないわけではない。国家が持っている防衛の基本権利なのである。かくかくしかじかでこれこれが自衛権であるなどと規定するものではない。時間と場所を選ばず、国家と国民の生命、財産を敵の攻撃から守ることは至極当然のことである。国際法上、日本国の主権が及んでいるところであれば、この自衛権が発生すると考えるべきである。

  

  自衛権には「個別的自衛権」と「集団的自衛権」があるとされる。戦後、自民党政府は何を勘違いしたか分からないが、前者があって、後者はわが国にはないと言ってきた。これが政府解釈である。しかし、国の防衛には幾多の方法がある。世界の歴史を紐解けば中学生でもわかる。集団的もあれば、個別的もある。。政府解釈は「憲法」や「法律」ではない。従って政治においては、主権者たる国民のニーズによって政府の解釈が訂正されなければならないとすれば、勇気を出して十分に説明し国民の支持を得て後、その解釈を訂正すべきである。近代的国家の防衛で「集団的自衛権」がなかったときはないのだ。国際法のよって立つ標はこの集団的自衛権をおいて他にないのだ。

  

  5月18日付朝日新聞の社説には、奇妙な論理が噴出している。集団的自衛権は何のために必要かなどと言っている。隣国の大きな軍事力を見よ。排他的経済水域を我が物顔で跋扈する中共の海軍を見よ。空においても然り。日本をスケープゴーストにして、軍事力を飛躍的に増大させている人民解放軍は一体どのぐらいの規模であるか不透明極まりない中で、わが国は防衛せねばならないのである。

  

  開示されているその国防費は2006年度が2807億元、前年度比14.7%の伸びである。驚くなかれ。18年連続して二桁の伸び率を達成しているのである。実体の国防費は、わが国を超えていると考えるのが正当であろう。公表されている総兵力は225万人で、内訳は陸上が160万人、海上が艦艇780隻、航空が約4000機である。最近では、旧ソ連の航空母艦を改造していると言われているし、自力で空母の建造に着手しているとさえ言われている。空母そのものは攻撃型の戦闘基地の移動である。かような解放軍の戦力は自衛であろうはずがない。かようの軍事力に対する抑止力こそが集団的自衛の戦力保持である。


  かの社説はこの現実を隠蔽しているかオポチョニストの言である。「個別的自衛権の延長で考えるべき」と言っているが、自衛権はそもそも延長されるはずがないのだ。「集団的安全保障」とは元来集団的自衛権を双務的に発動するからこそ安全の保障になるのであって、勘違いもはなはだしい。朝日新聞の社説は何を言いたいのであろうか。方程式の解を求めるようなわけにはいかないのが国防である。現実に即応せよ。これが防衛の基本ではないのか。

小野木康浩さん(38)と言う人知ってますか。

小野木康浩さん(38)と言う人知ってますか。

毎日新聞の電子版では、次のように報じた。『鉾田署は14日、潮干狩り中に波にさらわれおぼれかけていた親子ら3人を救助した小美玉市与沢の会社員、小野木康浩さん(38)に署長感謝状と記念品を贈った。小野木さんは5日午後0時50分ごろ、鉾田市滝浜のヘッドランド周辺で、埼玉県戸田市の主婦(39)と小学2年の長男(7)の2人が、波にさらわれ助けを求めているのを発見。海に飛び込んで救助した。その直後「助けて」という声を聞いた小野木さんは、千葉県柏市沼布施の小学4年の男児(9)が、沖に流されかけているのを見つけた。再び海に入って約50メートル泳ぎ、男児を抱えながら浜に泳ぎ着いた。感謝状を手にした小野木さんは「泳ぎは自信がありました。助かって本当によかった」とうれしそうに話した。粟生泰久署長は「離岸流のある大変危険な場所で、連続して3人も救助していただき敬意を表したい」と勇気をたたえた。【岩本直紀】5月15日12時4分配信 毎日新聞』

なんと勇気のある人だろう。わが身の危険を顧みず、次々と人命救助に行く。泳ぎの達者な人でもおぼれている者を救助することは大変難しい。ものすごい力が救助者にかかるからだ。

比喩が適当か分らないが、冬のオーバーコートを着たまま水に入ることを想念してみよう。動こうとすればするほど、力が濡れたコートに吸収され、力が果てるのだ。自宅の風呂に普段着のまま入って御覧なさい。その実感が分ります。ビーチサンダルを履いたまま泳いだことがありますか?これがなかなか難しいのです。距離が長ければ長いほど力が失せてしまいます。


法的には、川で溺れている人を横目にして通り過ぎることは『不作為の罪』です。何らかの行動が求められるのです。『不作為の罪』とは、『何もしないことによる罪』なのです。自身が泳げなくても、救助するべく他の人を呼ぶとかして事に当たらないといけないのです。こう言うことを知らなくても、普通の人間であれば助けなければと思うでしょう。ですが、わが身の危険が頭を過ぎります。どうしたものか、躊躇するうちに溺死してしまいます。その一瞬の判断は個々人に委ねられます。そういう意味でも、この小野木康浩さんの判断は素晴らしいものでありました。

命を助けられた人は、この後小野木康浩さんに感謝し続け長生きをして下さい。小野木康浩さんは、人の命の恩人としてどうかどうか長生きをして幸が多からん事を祈ります。