徒然時事日記 -14ページ目

哀悼;現職農林水産大臣の死

  松岡農水大臣の突然の不幸な死を悼む。深い哀悼の意を表明したい。

  

  現職大臣の自死は、現政権にとって何を意味するのかと言うよりも、国民として大臣の死は、大変残念なことである。なぜならば、一政治家として国政に参与し政治的使命を全うしようとするのが本来の姿ではなかったかと考えるからである。一政治家の死と言うよりも、血税の公正公平な使途を決定する活動が政治であるならば、松岡大臣はその疑惑に真摯に応える努力を惜しむべきではなった。


  法的に見れば彼が国会で答弁を繰り返していたことが一見正論のように見えるが、政治的にみれば国民に対して何らの説明責任を果たさなかったのである。法を守ることは一般人でも等しく了知するところである。が、一旦政治家を背負うこととなれば話は別であろう。国民代表の代議士や参議院議員になれば、法を守ること以上に政治的自覚と責任を果たすべきであった。私はそのことにおいて大臣の説明責任が欠如していたと考えるのである。


  国会は法的責任を説明するところではない。国民に対して政治的責任を果たすところなのである。それゆえに、疑惑の政治資金の妥当性を懇切丁寧に述べるべきであったのである。現行法の枠内で正しいと思うのなら、それを一心に押し通すべきであろう。それが国民代表の責務である。


  政治家は命を賭して政治家になったのであるから、その使命をまっとうに果たすまでは万難を排して事に処するべきなのである。大臣が自死して政治と金の諸問題が解決されたのではない。ますます、疑惑が深まったと国民の多数は思うのである。国民から付託された大臣の職責は命に代えざるものであろう。われわれ国民は、その政治的疑惑を一大臣の死によって歪められないようにせねばならないのである。





食の安全保障

国民の生命は今輸入食品によって危機的状況にある。中国がアメリカに輸出する歯磨き粉に致死量のジエチレングリコールが発見され、FDA(アメリカ食品医薬品局)は全面的な調査を開始したと電子版が伝えている。


それによると、「ジエチレングリコールは腎臓や中枢神経に悪影響を及ぼす有毒物質で、過去多くの死亡事故が起きている。安価な甘味料・保湿剤として使用されるケースが多い。先日も中国企業が輸出したジエチレングリコールを原料とした咳止め薬が原因で、数百名の死傷者が出たばかり。現在、中国ではジエチレングリコールを規制する法律がなく、企業の自主判断に任されているという。世界各地で中国発ジエチレングリコールの健康被害が広がる中、早急な対策が望まれる。(翻訳/編集・KT)」というものである。


驚くべきことに、当の中国の会社は「中国では練り歯磨きに少量のジエチレングリコールを使用することは合法であり、安全だ」と強弁している。中国は世界にどれだけの食品を輸出しているのか不確かだが、わが国では人体に悪影響があるとのことで、『食品衛生法第26条第3項に基づく検査命令』を出して中国に警告しているケースは、平成19年5月23日最終改正の『別表』によると41例が数えられる(厚生労働省HPより)。次いで多いのはタイで24例、韓国18例、台湾15例となっている。これによれば中国から輸入される食品には『食品衛生法第26条第3項に基づく検査命令』の「製品検査の対象食品等」が圧倒的に多いことが分るのである。そのうち水際で阻止されて廃棄されているものもあるが、既に国内で流通し終わっているものも少なからずある。実に恐怖であろう。

   特に恐ろしいのは、「その加工品」もあることだ。例えば『しいたけ』である。生鮮のしいたけではなく乾燥しいたけもある。このきのこ類は、添加物・調味料に使われている場合が実に多いのだ。生鮮・乾燥しいたけを食しなくても、われわれの口には添加物等で結構採り入れられていることが恐怖である。


食品衛生法第26条第3項には、『厚生労働大臣は、食品衛生上の危害の発生を防止するため必要があると認めるときは、生産地の事情その他の事情からみて第1項各号に掲げる食品、添加物、器具若しくは容器包装又は第10条に規定する食品に該当するおそれがあると認められる食品、添加物、器具又は容器包装を輸入する者に対し、当該食品、添加物、器具又は容器包装について、厚生労働大臣又は登録検査機関の行う検査を受けるべきことを命ずることができる。』とある。と言うことは、これらの食品にはわれわれに『危害』を及ぼす重大な具体的理由があるのだ。それは中国で野放しになっている農薬であり、基準値を超える残留農薬が検出されているのだ。将に、中国の食品によって日本人の生命が脅かされているのである。国家の安全が脅かされていると言っても過言ではない。


軍事的な安全保障と同様に食の安全保障も極めて重要である。戦後の自民党政権による農業政策のつけが担保されない理由である。食料自給率を少なくとも50%になるような政治的目標が欠如しているからである。日本人が食べる食べ物は、日本国内で日本人自身が作らなければ安全保障とはならないであろう。

家族とはなにか


朝日新聞に連載中の『家族』に女優の江角マキコ氏が投稿した。現役女優の新聞投稿は珍しいが、これを記事として取り上げた朝日新聞の意図がわからないが、結論的には連載に対するカンフル剤としての大きな効果があったことだけは知ることができる。

ブログ記事などでは、いろいろ話題にされている。それはいつもながらの女優の売名行為だ。それは個人の問題であって、一般の人には関係ないことだ。女優のファンだろうがなかろうが無関係なことだ。女優の夫君がフジテレビ関係者なのに何故朝日新聞に投稿したのか。サンケイ新聞になぜ投稿しなかったのか。そのような家族は数多(あまた)いる。石原慎太郎が弟の裕次郎を想って書いた『弟』だ等々である。好意的に見ようとすれば、これは姉弟愛の深い絆によって結びついた家族の物語であろう。


個人の問題であることは誰にでも分る。従って、悪意をもって見れば誹謗・中傷があってもおかしくはないのだ。しかし、同胞(はらから)の死はどのような形であっても受け入れざるを得ないのは人間等しい。その死に対して、かの女優のように思うことだけが家族愛ではない。千差万別である。しからば、読書子はこれをどう捉え、我がこととして考えるのだろうか。それが問われているのがこの投稿記事である。


今回の記事は、あまりにも唐突であった。配達された朝日新聞を見て、「おやっ」と思った。何故女優が投稿したことを喧伝しているのかと。また、同時に有名女優であるからその意味ではきっと来春の大学入試の小論文のテーマになる可能性が高いだろうと瞬間思ったのである。昨今の刑事事件の報道は、実に殺伐としている。自殺、殺人等紙面を飾られない日はないと言っても過言ではない。時節柄を反映して、女優の手紙による『家族』への投稿は、メディアにとって時期を得たものであったと言わざるを得ない。平和と愛の戦死を自称する朝日ならではの仕方であった。


家族の絆や家族の愛とは朝日新聞だけで育てられ、深められるものではない。メディアによって醸成されるものではない。他人では窺い知れない同胞の愛情は、生れ落ちたその家族の長い生活のなかでしか生まれ得ないと私は思う。人の子であるならば、誰でも同胞の死に突然遭遇する。祖父や祖母の、父母の、兄弟姉妹の死は必ずやってくる。しかし、人はその屍を乗り越えて生きてきたし、生きてゆくことができると思う。そういうことを日常に、あるいは心の片隅におきつつ生きていける支えのことを「絆」と言うのであり、家族の愛情の「アガペー」と言うのだ。