徒然時事日記 -13ページ目

ダルフールの生き血を吸う中国


外務省の海外安全ホームページには、【スーダンに対する渡航情報(危険情報)の発出(2007/03/23)】の見出しがある。


なぜ、スーダンが危険情報の対象国なのかというと、次のようである。
『1.概況(1)スーダン西部のダルフール地方においては、2003年初頭からのスーダン政府と反政府勢力との間の衝突の結果、約180万人の国内避難民が発生し、約20万人のスーダン難民がチャド側に流出したと言われています。2006年5月、政府と一部の反政府勢力の間でダルフール和平合意が署名されましたが、同合意への署名を拒否している反政府勢力も存在し、地域住民や人道支援関係者に対する襲撃は依然として続いており、この地方の治安は不安定な状態が続いています。』と。また、『2.地域情勢(1)~(7)』には、その経過とアフリカ連合や国連機関、NGOの平和維持の活動が縷縷述べられている。


中国は既に国連の常任理事国となっている。アフリカの発展途上国の支持をいまさら得ようとする必要性が低い。にも関わらず、2007年2月2日、中国の国家主席胡錦濤は、スーダンを訪問した。これにはいろいろの憶測が飛んだものだが、結論は中国のエネルギー政策拡大化の一側面である。発展が著しいといわれる中国のエネルギーの確保は、国内生産だけではもはや継続的に補えないところに来ている。従って、石油について言えば、メジャーが利権を欲しいままにしている中近東よりも、未開発だが広大な国土をもつスーダンに埋蔵されている地下資源に着目し開発の触手を伸ばそうとしている。と同時に、ダルフール紛争に対して人道的の解決をスーダン政府に要望し世界に人権外交を喧伝しようとするものであった。


スーダン在日大使館が提供している経済情勢では、鉱物資源が鉄鉱、金、クローム鉱、マグネサイト、石膏などで、すでに相当量の生産をあげており、また南部の森林資源も巨大な木材生産の可能性を秘め、そこに開かれた土地からは茶、コーヒーなどの生産が見込まれている。最近、内外から大きな脚光を浴びているのが油田であり、東部の紅海沿岸、中西部、南部などで1975年から油田開発が始まり、1992年スーダンの民営会社によって本格的な石油の生産が開始されている。1999年から石油の輸出も始まり、現在、石油資源開発への投資は国の最重要課題だといっている。
 


斯様な国への胡錦濤の歴訪は、ダルフール紛争の政治的解決を促し、内政干渉を嫌ってきたこれまでの中国自身の姿勢の変化を示すものだとの一部のメディアの論調があったが、それは穿ち過ぎである。中国が人道的な配慮を優先させたからではない。中国の政治的利益即ち人権に対する世界の厳しい目を一旦そらしつつ、内実はダルフールに揺れるスーダンの脆弱さに目をつけて、その地下埋蔵資源を廉価に持続的に獲得する方途をつけようとしたのである。


言わば、中国の世界戦略は紛争地域に出かけていって、表面上は人権を標榜しつつ、裏面では国勢の弱った人民の生き血を吸うがごとくである。われわれはこれに惑わされてはいけないのである。中国は、『共産主義国家』なのである。


予防接種は

わが国で麻疹ワクチンの接種が始まったのは1966(昭和41)年である。更に、定期予防接種が始まったのは1978(昭和53)年であった。1989(平成元)年には、はしか、風疹、おたふくかぜの三種混合ワクチンが導入されている。麻疹の予防接種は平成18年6月の政令改正で1歳と5~7歳での2回接種となった。ワクチン接種は今年4月から全国で実施されている。就学前に免疫力を強め、蔓延を防ぐためであるとされている。


われわれの小さい頃にはワクチン接種がなかったから、流行の中で自然感染し免疫を得ることが一般的であったのだろう。自身の経験では、幼稚園入学前後に麻疹に罹り体中赤い発疹ができ、父が運転する自転車の後ろに乗せられて医者に通ったことを覚えてる。お尻にペニシリンを射ちに行ってたのだと思うがその真偽は定かではない。


  麻疹(はしか)はかつて「命定め」と呼ばれて恐れられたものだった。その多くは乳幼児期に感染し、生死を分ける高熱の数日間を小さい身体で必死で耐えねばならなかったのだ。高熱のため中耳炎や脳炎などを合併し、数千人に1人の割合で死亡に至ったと言われている。しかしこれを乗り越えれば、一生麻疹に罹患しない免疫が得られると言われていた。したがって、現代では一向に話を聞かないが、近所の子供が麻疹と聞くとわざわざ自分の子供を近づけて「はしかにかからせた」ものでもあった。


  麻疹は一般的に乳幼児期にかかる病気なのに、なぜ今、若者に流行しているのかである。国の積極的、継続的な予防策がなかったからである。接種時に合併症に罹ったり、ショック死などあったからではないのか。また、国民の経済的負担と接種時の危機感が鈍らせたこともあろう。しかし、空気感染のこのはしかは、国境線がない。人の移動が地球規模となり、その速さは戦後の比ではない。国内で罹患症状をみせないまま、外国へ旅立つ者があるとすると、その地ではしかが蔓延することともなる。はしかを蔓延させないためには、国家の積極的な感染予防と経済的支援、国民に対するアカンタビリティー(説明責任)を高くすることである。それによって、国民も亦接種の自覚を高め、義務を果たすことができると私は考えるのである。

「マイバッグ」が懐かしい


私が小さい頃、昭和30年代であるが、日常の買い物には「買い物カゴ」をもって誰でもが買い物をしたものであった。

総菜屋に行けば、店では量り売りをしており、お客用に適当な大きさに切っておいた古新聞で包んでくれもした。余談だが、バナナなどはまだ高価な果物で、遠足か運動会でなければ買えないものであった。しかも、1本1本が量り売りだったのだ。


私の兄弟は6人いたが、どう言うわけか夕飯のための買い物をよくさせられたものだった。もちろん、あの懐かしい「買い物カゴ」をもって家を出るのだった。近所には、同学年の男の子も女の子もいたから、内実は恥ずかしかったものだ。その素材は籐や竹などがあったように記憶している。まるで、おばちゃんの買い物姿だったのだ。


産経新聞の電子版が伝えるところでは、買い物を入れる「マイバッグ」を持っている人は約6割にのぼることが、環境省のアンケート調査で30日、分かったということだ。エコ運動が浸透しつつあると思われる。その理由の一つに、レジ袋は焼却の際に有害な物質を出したり、焼却炉の温度を異常に高めたりすると言われているからである。


レジ袋は買い物客にとってなんとも便利な物であった。わざわざ家から「買い物カゴ」を持って出る不便さがない。無料で店から提供される。家に帰れば、レジ袋は生ゴミや可燃物、不燃物などを入れる実にありがたいものとして転用できるのである。大きい商品には大きいレジ袋が、小さい商品には小さいレジ袋が用意されるのだから客にとっては不自由がまったくなかったと言えるだろう。従って、大量生産・大量消費の高度経済成長期を境にして、あの懐かしい「買い物カゴ」が各家庭からなくなっていったのである。

 
2007年4月施行の『改正容器包装リサイクル法』では、一定規模の小売店に包装容器を抑制する取り組みの報告を求め、不十分な場合は勧告などの措置をとることになった。単に包装容器を抑制するといっても様様の用途、大きさや容積があるのだから、スムーズに行かないであろうことは察しがつくが、レジ袋は年間約300億枚が消費され、家庭ゴミの6割を占めることが問題とされている。これを環境に負荷をかけないようにするにはどうすればいいのかと言うことが問われているのである。焼却されないビニール製のレジ袋が海洋を漂い魚類の体内から消化されずに出てきてもいる。かような環境破壊の一原因となるレジ袋をわれわれは作らず、使わずにいればいいのであるが、現実の消費文化の有様からは早急な対応ができないことも知るべきであろう。
 
要は、おしゃれなマイバッグでも、5円のレジ袋でもいいのである。我々自身が買い物のときにレジ袋を断り、「マイバッグ」に入れて買い物をすればいいだけのことである。