教育基本法の改正について
今、わが国では教育基本法の改正が世情を賑わしている。なぜ今になって教育基本法が改正されなければならないのであろうか。
教育はどの民族、国家であっても最も重要な国家施策の一つである。教育によって国家体制が堅持されることは、戦前の歴史を紐解けば一目瞭然である。いわゆるわが国の「軍国教育」も教育の一つであった。「国家神道」によって臣民教育が行われたことは歴史的事実である。あるいは、戦後の中華人民共和国の共産主義の教育も教育である。近い過去では、中国、朝鮮の「反日教育」も然りである。それは、国民の意思統一に欠かせないことであるからだ。政治的統一になくてはならない国家百年の大計でもあるからだ。
教育に政治性を反映させることは至極最もな営為である。教育が国家によってなされる公教育の場合は、国家目標に則って実践される。教育が私教育であるならば、個人に私淑するのが当たり前である。明治国家の建設においては、吉田松陰の松下村塾出身者が突出しているのはこのいい例である。徳川幕藩体制下の重罪人松蔭は、明治国家樹立に幾多の英傑を輩出した。その教育の実践において身分を越えた人間教育を実践したからであると思う。本来の教育とは、真っ当な人間を作ることにある。その社会に貢献して、社会の一員として社会に貢献することを学ばせることである。その目的意思が奈辺にあろうとも、教育はまず個の精神に光を当てなければならないのである。
翻って、わが国の戦後教育は如何。戦後の教育改革は、GHQ(連合国軍最高司令部)による対日占領政策の一環として進発したものである。GHQの占領政策の要は、教育の民主化であったと言っても過言ではない。軍国主義や国家至上主義が戦争を拡大せしめ、遂にはデモクラシーに対する「罪」ともなったと考えられたからである。
GHQの考える「教育」とは、「真理の探究、民主的国民生活の準備、自由を招来する社会的、政治的責任についての訓練」であった。そして、1946年3月、米国教育使節団が来日し、教育制度改革に関する答申をGHQに提出して、徹底的に軍国主義の残滓をも排除するよう勧告したのであった。
さても、教育基本法はこれらをバックボーンとして制定されたのであることをしっかりと把握しなくてはならない。GHQは、「超国家主義、国家神道、天皇崇拝、および国家は個人に優越するという説を鼓吹する教育を排除」するべきであるとする声明を出した。その具体的改革として、わが国は「教育基本法」、「学校教育法」を制定して、初等・中等教育におけるアメリカ式の六・三・三制の教育を導入したのであった。
戦後日本の教育の指針は、「民主教育の実践」に彩られることとなった。精神的支柱が滅失し、アメリカ式の個人尊重主義が蔓延んだ。「個人の威厳と価値、独自の思想と創意、探究心の養成」が声高に唱えられた。国家目標が希薄となり、個人が国家に優越するなどとの幻影を抱かせた。アメリカ式個人主義が、美しいわが国の伝統的家族国家を蔑ろにしたのである。忠孝が廃れ、国家が滅亡しようとしている。礼を失した日常は、やがて彼らをも虐げることとなるであろう。人間社会でどのように生きるかが問われなければならないのに、自分ひとりが生きていればそれでいいではないか等との錯誤した個人主義が教育の本来の目的であるかのようになってしまっている。
孟子の言に、礼がなければ禽獣に劣るとある。憐憫の情がなければ人間ではないと言っている。教育とは、人間が人間らしく生きるための智慧を身につけさせることである。社会の一員として立派に国家や国民に奉仕できる豊かな心を育てることである。
教育基本法の改正は、国民の英知を結集して、道徳を涵養する柱を持ってなされなければならない。ただ単に、カリキュラムの変更で良しとせず、教育委員会の改革のみで溜飲を下げる事とせず、日本的デモクラシーとも言うべき「家族」をいかに立て直すかに心血を注がなくてはならないのである。
日本国憲法制定の見方、考え方
2007年5月3日は、日本国憲法の施行日である。日本国憲法が施行されて60年経つのである。
戦後われわれは、日本国憲法(以後、憲法)が国民主権・基本的人権の尊重・平和主義を基本原則とする「平和憲法」であることを、学校で、地域社会で、あるいは家庭で学んできた。日本国憲法の制定によって、正確に言えば、明治憲法(大日本帝国憲法)の効力が昭和22年5月2日で終焉することとなったのである。明治憲法は天皇が制定することから欽定憲法と呼ばれ、日本国憲法は主権者・国民が制定することにおいて民定憲法と呼ばれるのである。憲法の前文には『日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、(中略)ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する』とある。それは、日本国民が主権をもって憲法を確定したことを意味するものである。
ところで、わが国の主権はいつ失われいつ回復したのだろうか。それは、1945(昭和20)年9月2日、東京湾上の米・戦艦ミズーリ号において、日本側を代表して重光葵外相、梅津美治郎参謀総長、連合国を代表して連合国最高司令官のダグラス・マッカーサーが「降伏文書」に署名を行い、わが国がポツダム宣言を無条件で受諾し、日本の降伏が法的に確定したことによって失われたと考えることができる。降伏にはこのほか、降伏する軍隊と敵軍の指揮官の間で敵支配下に置かれる兵員や武器・地域などの条件を決める「降伏規約」の締結があるが、この場合は、当該指揮官の権限に属する軍事的事項に限られる。それゆえ、敵の占領する地域の主権を敵に移譲するといった政治的事項の決定はできないとされている。従って、昭和20(1945)年9月から、昭和26(1951)年9月まで、即ち日本とソ連・支那・インド等を除く旧連合国48ヶ国との間に調印された『日本国との平和条約』(サンフランシスコ平和条約と通称される)締結を経て、日本の主権が回復されるまで主権がなかったこととなる。そして、この条約は調印の翌年、昭和27(1952)年4月28日に発効したのだった。所謂ここにおいて、わが国民が代表者を通して政治的に統治することができる主権が回復したのであった。
われわれはここに、政治的な事実として国家主権のないまま憲法が確定されていたことを認識すべきであろう。この一歴史的空白は、当時のGHQの日本統治の安定指向と合衆国の極東戦略が色濃く反映するところから到来していると考えられるのである。また、日本国憲法は大日本帝国憲法下の帝国議会で制定されたこと、その草案がGHQ特に民生局の主導によってなされたことは事実である。無条件降伏下の当時の政府は、意思決定が自由にできず、独自に統治権力を執行することができなかったことをわれわれは歴史的事実として認めるべきである。
GHQ統治下において、日本政府にさまざまな施政ができたとしても、最終的にはGHQに強烈に抗うことができなかったのである。GHQ最高司令官ダグラス・マッカーサーは日本統治の最高権力者であった。昭和天皇は礼服に身を包んで軍人の略服だったダグラス・マッカーサーのもとを尋ね、主権者として、元首として天皇一身の責任を表明したことは、爾後のわが国の運命を決した事柄であった。したがって、わが国の運命はどのように説明しても、GHQの手に委ねられたものでしかないということが否定しがたいのである。
憲法は言わずもがな、国家統治の基本法である。その国家統治のあるべき姿は国民自らが決定することが民主主義では最も重要なことである。わが国の憲法は、GHQの押し付けであるとの論調はこれもまた歴史的事実である。であるが、結果としてGHQの統治下、わが国政府が議会で日本国憲法を制定しえたのは不幸中の幸いであるし、戦争直後のカオス的な状態において憲法を制定し国政の安定を計ることができたのは先人の賜物と言わざるを得ないのである。押し付けられたのかそうでないのかの論議は、不毛である。押し付けられたとする憲法は、何故に「平和憲法」となったのか。押し付けられなかった憲法であれば「平和憲法」とならなかったのかを証明しなければ、ともかくもこの60年の平和を顧みれば、論証に正鵠さを欠くものといえるであろう。
戦後60年経って、国民の権利・義務に対応できないところがあるならば、この憲法を改正すべきであるし、不磨の大典ではないのであるから、国民代表の議会の下で憲法を改正することに躊躇があってならないのである。正当に選挙された国民の代表が国会で憲法改正の発議をし、慎重に議論を重ね、遂には国民の直接の選挙を行うのは理に適っているのである。それが歴史を進展させる一齣である。
歴史的考察とは、現代的価値観からするものではない。そうであるならば、すべての歴史が批判され、否定に繋がることとなるであろう。歴史的価値を見出そうとする努力は決して無意味ではない。第二次世界大戦後の世界情勢、極東情勢などを年頭に入れながらわが国の憲法の制定を紐解く必要がある。そこに政治的価値を見出す努力が必要である。この視点においては、成立時の憲法は類まれな「平和憲法」であったに違いない。
あの日本語ワード・プロセッサーはどこにいったのか
私の2歳年下の親友が東京のコンピューター専門学校を優秀な成績で卒業したのは、もうかれこれ35年も前のことだ。私などは、数Ⅲの授業で、コンピューターは2進法で考えられているんだとしか教えられていなかったから、彼の偉業に感服さえしていた。
当時、私は大学生で、学費を稼ぐために(本当は飲み代だったかも)友人の誘いで田町にある橋梁専門の一流会社に夜間ガードマンとしてアルバイトをしていた。友人同士のローテーションで勤務するのだが、当時としては時給が格段に良くて、夕刻から翌朝の会社員の出勤直後まで担当したのだった。会社の夜間はシーンと静まり返っていた。ところが、ある階のある場所だけは、まるで生き物のように機械が動いているのだった。それが「コンピューター」というものであった。「コンピューター室」は、1フロアの半分か3分の一ぐらいを仕切って、その部屋だけはエアコンが効いていたと思う。会社の担当者からは、そこには絶対入らないように言われたと記憶している。埃が大の苦手だから、土足が厳禁でもあった。部屋はもちろん施錠されていた。「コンピューターって、こんなにも大きいのか」と頼もしくもあり、日本の科学技術に感心させられたものでもあった。
アメリカでは1977(昭和52)年頃には既にパーソナル・コンピューター時代が始まっていたと言われているが、わが国ではやっとシャープの「日本語ワード・プロセッサー」が登場した頃だった。東芝から発売された「JW-10(トスワード)」は、当時600万円以上する代物だった。日本のパーソナル・コンピューターが「仮名漢字文節変換方式」の日本語処理にもたついていたのに、「日本語ワード・プロセッサー」はこれ以後凄まじい勢いで普及していったのである。
「日本語ワード・プロセッサー」はもう生産中止となっているのだが、これがわが国の「パーソナル・コンピューター」の発展を牽引したといっても過言ではない。今から15、16年前までは「日本語ワード・プロセッサー」が全盛だったことも忘れかけている時代である。日本の「パーソナル・コンピューター」の進展は、「日本語ワード・プロセッサー」のお陰でもあると私は思っている。
私と同年代の者にとっては、「ワープロ」を使いこなすのが一苦労だった。仮名かローマ字で入力するといったことすら戸惑ったものだ。笑い話だが、「シフトボタンを押しながら…」と言われてもどうすればそうなるのか理解するのに時間がかかったものだ。シフトボタンを押すがすぐ離してしまっている自分に気がつかないのだった。
市販された「ワープロ」の初期のものは、画面が小さくて、機械本体が言うなればデスクトップ型の15インチモニターぐらいであったと思う。プリンターの速度が遅くて、この機械は「一体何を考えているんだ」といらいらしながら文章作成作業にあたったものである。それが日進月歩の技術革新で、あっという間に小型化され、現在の「ノート型パソコン」の大きさとなったのであろう。更に
驚くべきは、これは「超便利だ」と思っている間に、同時的に「パーソナル・コンピューター」の時代が幕を開けたことだった。これによって、将に現代社会はITの時代を迎えたのだった。
しかし、私はあの「ワープロ」が懐かしい。あなたは?