Je suis le père de Chip. -2ページ目

Je suis le père de Chip.

Chip Chihuahua,le chien de ma famille.
Nous l'aimons beaucoup.
Nous voulons vivre avec lui pour toujours.

新潟市長選候補、みんな頑張ってる・・・と言いたいのだが。

 

若干1名だけ違う候補がいる。

 

パパは基本的に保守系支持なのだが、それ以前に「人として」のフィルターを大事にしたいと思っている。

 

野党統一候補の小柳。

一見クリーンなイメージなのだろうが、西村智奈美とか秘書の行いが不良な議員はボツ。オモテでは良いことを言っておきながら、かなりヤバいのが西村である。部下のしつけはボスの大事な責務である。それができていない上司に天下国家を語る資格はない。せいぜい抵抗勢力として頑張ってくれたまえ。西村君へのはなむけの言葉である。

小柳の政治家としての限界はここにあるが、パパとは主義主張は異なるが、若さも相まって好感の持てる人物であると思う。変なものとくっついたのが致命傷だろう。

 

前市議吉田に言うべきことは、「頑なになるな」である。

まだBRTのことをああだこうだと言っているようだが、BRTをリセットするにもカネがかかるということをわかっていないのだろうか。集票目的だとしても、青山以西の西区の票だけ集めて何になる。

言っておくが、BRTは市政としての既定路線である。それをリセットするということは、財政状況厳しい市政にあってさらなる財政負担を強いるものだと言わざるを得ない。政治家として何を言っても自由ではあるが、BRTリセットによるさらなる財政負担は避けて通れないだろう。市財政困窮を厳しく批判している吉田のかたくなさは命取りになる。言うのは自由だが、結果責任がついてまわる。それが政治家というものだ。西区以西の票を集めてもどうなんだろうね。BRTが定時制を確保していることは否定しようがない。彼もその恩恵に浴している中央区住民のひとりなのだ。高級車を乗り回している彼には所詮集票のための道具でしかないのだろうね。

中央区も、東区も、江南区もBRTを争点だとは誰も思っていないというのが正直なところだろう。偏狭な対立思想なんぞバランスの取れた市政の運営には邪魔なだけ。

 

飯野。はっきり言ってよくわからない。だが、若さゆえの真面目さには共感するものがある。篠田市長の後継指名もあった。積極的支持というほどではないが、彼の動静にはしばし注目といったところ。

 

さてさて、問題の中原であるが、若さが感じられない。旧態依然とした選挙姿勢で何を目標としているのか、彼の言動を見ていると理解不能。彼の限界は県議どまりといったところだろう。参議院議員になったのは出来過ぎなのだ。改選定数2が1になった参院選で森ゆうこに負け、翌年の衆院選で落選。

国会議員であったことの経歴を強調したいようだが、落選慣れした人物を我が市長に仰ごうとは思わない。当の本人はそんなこともわかっていない相変わらずの上から目線の物言いだが、その様があまりにも滑稽でならない。彼の政治生命が残っているとすれば、参院選で森ゆうこを破って初めて実現できるのではないか。この市長選で落選したら、次回参院選にも立候補するのだろうか。彼ならするだろう(笑)

だが、彼では勝てないとわかっている自民党にしてみれば、別の若手を擁立するに違いない。やさぐれた落選候補は政党としても扱いに苦慮するといったところだろう。今となっては引き際が大事とも言えない局面に突入した。見苦しい泥仕合を繰り返すのは止めろというのが彼へのせめてもの言葉だ。政治家の矜持とは何か。敢えて彼に問う。

 

 

新潟市長選は10月14日告示、同28日投開票だ。

 

今のところ、4名が立候補を予定しているとのことだが、今回の選挙の焦点は保守系2候補吉田と中原(以下、敬称略)の一本化ができるかどうかであった。どちらを自民党が推薦するか注目されたが、どちらも立候補への意思は硬く自民党の推薦は見送られた。これで保守系は分裂選挙となる。

 

新潟市長選だけでなく、すべての選挙には被選挙権を持つものであれば誰もが等しく立候補する権利がある。それを踏まえた上で、保守系2候補の選挙戦略を中心に考えてみたい。

 

候補予定者同士の意地の張り合いは漁夫の利を与えてしまうということは誰もがわかっていることなのだが、なぜ、かくも愚かなことになったのだろうか。特に新潟は形勢次第では野党系議員が当選する土地柄だ。新潟市に限って言えば、保守安泰ではない。前回知事選の新潟市の得票数を見てみても決して楽勝ではない。ましてや、現職ではなく新人候補予定者という実績のない者同士のどんぐりの背比べの様相なのである。4候補乱立の中で僅かでも得票が多い者が選挙戦を制する。この二人は前々回の新潟知事選や前回の参院選の結果をわかったうえで臨んでいるのだろうか。

 

確かに、我こそは次期市長選保守系候補と満を持して準備を進めてきた吉田には同情の余地がある。

参議院1期6年を務めた中原は、一昨年定数見直しで改選2から1に減った参院新潟選挙区で森ゆうこに敗れたばかりか、昨年の衆院選でも落選している。行き場を失った中原は、参議院から衆議院そして新潟市長選と手あたり次第立候補している。ついこないだまで国政の場にいた中原が新潟市長選に立候補する大義はあずかり知らぬところだが、吉田にしてみれば誠に迷惑な話である。

 

この二人の政治姿勢は今期で引退する篠田現市長に対しては概ね敵対的である。篠田市長にしてみれば、この二人を自らの後継候補にしたくはないだろう。現職在任期間中の市財政の悪化に対しては批判が多く、それを立候補予定者として声高に指弾するのも理解できる。だが、現職が次回市長選に立候補するのならともかく、引退する現職を相手に刀を振りかざしたところで自らが当選するための集票には素振り程度の効果しかないのではないだろうか。もっとも、今さら現職に対して無節操に「よろしく」とも言えないのも事実だが。

 

現職の市政執行には賛否両論あるにせよ、引退する現職の後継候補として現職支持票をごっそりいただいた方が選挙戦術的には優っている。現に北区長だった飯野が現職の後継との指名を受け、一部地元財界の支持を集めていることは注目すべきだ。件の保守系2候補にしてみれば痛手としか言いようがない。

 

自民党県連の調整力の無さが今回の保守系分裂選挙をもたらしたのは事実だが、自民党にしてみれば新人4候補乱立の中で突出した知名度を持つ者がいない現状においては、無理をしてでも推薦しようという動機が乏しいというのがホンネなのかも知れない。さらには、推薦されなかった候補の支持者が自民党離れを起こすなど組織的に禍根を残す懸念さえある。

 

野党統一候補である小柳が当選すれば話は別だが、残りの3候補のうち誰が当選しても後からそっと歩み寄って勝ち馬に乗った方が現実的とも思える。そんな自民党の姿勢が透けて見える選挙になりそうだ。自民党の影響力行使は当選してからでも遅くはないということだろう。今の段階で推薦を決め込んだ候補が仮に落選したとしたら、それこそ自民党にとっては今後の国政選挙にも影響しかねない。

 

 

話は変わるが、BRTについて。

各候補、BRTの廃止や見直しに言及しているが、その代替となる案がいまひとつ見えてこない。

 

新潟市は郊外の宅地化が進み、それに伴いバス路線を延伸してきた。1路線の運行距離が伸びれば、公道を走るバスは定時性が損なわれるのは当然の結果である。多少の雪でも市内バス路線はそれこそマヒ状態になっていた。

 

BRT運行開始前の古町は乗客もまばらな郊外からのバスがひしめいていた。これを解消するために、西地区では新潟駅と青山の間をピストン輸送することで、少なくともこの区間の定時性の確保は以前よりも改善されたと思う。青山以遠へは乗り換えが必要ということになるが、今は冬場の乗り残しも減ったように思える。

 

BRTで議論の余地があるとするならば、各停で運行できない連節バスではないだろうか。高いカネを出した割に当初見込んだ効果がどれほど実現できているものなのか。

 

いずれにせよ、バス路線は随時見直しをしながら、定期的にダイヤ改正で対応していくしかないのではないだろうか。

 

政策の重点は、少子高齢化に対応した市民レベルの施策の実行と市財政の再建にある。いつまでも、BRTにかかずらって市政の停滞を招く愚は避けたいところだ。

 

 

ラーメン通というほどでもないが、パパはラーメン好きではある。

だが、ラーメンにはひどい目にも遭っている。

 

数年前に魚介系で有名な某店で食べたラーメンは酷すぎた。

この店はバブル景気全盛の頃から飲み会の後の定番のラーメンとして新潟古町界隈では魚介系スープでは有名な店だったのだが、久々に立ち寄って往時を懐かしみ定番のラーメンを食べたところ大変な思いをした。

 

〆のラーメンのつもりで食べたラーメンが締まらないどころか、就寝して朝までグッスリのパパがこの日は夜中に起きて朝まで眠れなかった。喉が渇いて目が覚めたのだ。あんなことは何十年も生きてきたパパにしてみれば初めての経験であった。あの店はまだ営業しているようだが、あれ以来行っていない(笑)バブル全盛の頃は何度も行っていた店なのだが、今にしてみれば二度と行こうとは思わないが、いまだに営業しているところをみると、それなりの需要があるのだろう。まぁ、がんばってくれたまえ。もはや、この店、通好みの店ではなくなっているのは確か。

 

かつては真っ白なとんこつスープだった新潟では有名な九州ラーメンの店。古町発祥の人気店で新潟市内に支店を出すなど、地元では元祖とんこつラーメンのチェーン店であった。新潟に定着したあの店スープの色は真っ白ではないのである。あの古町店を始めとして店を閉じるなど、かつての勢いはもはやない。

 

過日、他の地区で細々と残った店に行ってみたが、昼時はそこそこ客の出入りもある。スープに関しては文句をつけたい部分もあるのだが、まあ、そこは個人の好みということもあるのでここでは言及しないでおこう。

 

元々、ここの店の麺は、新潟市内の某製麺会社の麺を使用している。この道何十年の製麺屋の麺は、いつも変わらぬ食感で安定感がある。パパの舌がどれほどのものかはわからないので美味いとは敢えて言わないが、自家製面を謳っているヘタなラーメン屋の麺よりも秀逸であると言いたい。それと、県内某所で食べたラーメンも良かった。共通しているのは食感だと思う。

 

パパがここで言いたいことは、自家製麺がラーメン屋の売りではないということなのだ。

店主こだわりの製麺も、そこいらにある製麺所の麺には、やすやすとは勝てないということなのである。今は製麺所もコンサルティングのようなことをやっている専門家である。何十種類もある麺の中からスープに最適な麺を提供している。さらには、業務用にカスタマイズしている。

 

新潟はラーメン激戦地とはいうが、大した修行もせずいきなり店を開く職人も少なくないと聞く。

彼は、こってりスープと言う。だが、パパに言わせてみればギトギトのごまかしスープでしかない。そんな職人が自家製麺とこだわったところで、この道何十年の製麺所に勝てる訳がないだろう。

 

自家製麺にこだわるのなら、ラーメン屋ではなく製麺所で修業した方がよかろうに。

親方の技を見よう見まねでレシピは分かっても、それでいきなり開業というのは、あまりにも親方と世間をバカにしてはいないか。そう考えると、潰れる店が多いのは激戦だからなのではない。素人が無謀に出店した末路が悲惨なだけの話。

 

古町の魚介スープの店の劣化甚だしいこととも併せて、新潟のラーメンには腹立たしく思えることが少なからずだ。

 

新潟市長選に4人が立候補するという。

 

この4候補には新潟市への土着性にこだわりたいと思う。

中原…西区、小柳…北区といっても旧豊栄、吉田…群馬出身、あと誰だっけ飯野とかいう流れ者。

 

純粋な新潟といえば、かろうじて中原だけではないか(笑)

賛否いろいろあるけれど、やっぱり篠田市長は生粋の新潟なんだよね。

 

篠田市長との対立軸をつくるために、特に吉田は廃止、中原は見直しとBRTを目の敵にしている。

 

だが、新潟市内や近郊のバス路線は一部のコミュニティバスを除けば新潟交通という私企業が担っている。確かに、BRTは郊外の人間にとっては不便この上ないだろうが、そのバス路線は新潟交通が握っている以上、集票のためにBRT廃止などと勝手なことを言っていいものか。BRT廃止は赤字路線の復活以外の何物でもない。となれば、新潟交通は赤字路線廃止を打ち出さざるを得ないだろう。

 

いくら選挙に勝ったからと言って、私企業に赤字を垂れ流しさせる道理はないのである。だとすれば、市が公的資金を投入しで赤字路線を維持させるか、赤字路線を廃止するしかないのである。手ぶらで新潟交通にガンバレもないだろう。公的資金投入は愚の骨頂というのは誰にでもわかる。そのためには、赤字路線の運賃値上げは不可避である。仮に、廃止後の路線に市がコミュニティバスを入れるという手もあるかも知れないが、パパとしてはそんなもの絶対に許さない。

 

BRT廃止は主要交通機関であるバス路線をズタズタにするだけでしかない。結局、BRTでいいからバスを走らせてくれという結論になるのではないか。不便だけれども現状がベターということになる。

 

むしろ、新潟島に住む人間としては、ドカ雪になるとバスに乗れないことがある。郊外から来るバスばかりでみんな超満員なのである。何度古町まで歩いたことか。

 

赤字路線維持のために財政資金投入は大反対である。

あくまでも、BRT廃止というならば、相応の運賃値上げは受け入れるべきだろう。BRTならまだマシという感覚になぜなれないのか?

そんなものを集票の道具にして欲しくない。

柏崎刈羽原発のある新潟県民は原発再稼働に慎重である。

再稼働容認を選挙公約する候補の当選の可能性は低い。

 

今回の知事選はそこから始まる。

 

では、各候補の選挙公約はどうだろうか?

 

安中候補は、前職の米山路線に一定の評価を加えた上で継承するとしている。(くだらない応酬を避けるため敢えて言及するが、女性問題は別。)

そのうえで、「新潟県にとって最大とも言える問題、原発政策についてですが、これは反対すべきものであります。そのため、原発を廃止するための政策を策定し、実行します。」(本人ブログ)としている。

 

花角候補は、「原発は3つの検証をしっかり進め、将来的には脱原発社会に全力」としている。

 

池田候補は「~3つの検証を厳格に進め~丁寧に議論します。~できるだけ早急に原発ゼロへと向かうよう、新潟としての責任を果たすとともに、原発停止後の新潟の産業・社会政策を検討するための新たな会議を設置します。」(本人公式サイト)としている。(気のせいかも知れないがこのサイトを閲覧するたびに表現が微妙に少しずつ変わっている気がするのだが・・・今は穏健な表現)

 

原発廃止を明確にしているのが安中候補。

 

花角候補は、将来的には脱原発社会を指向しつつ、「3つの検証」の実行を公約としたうえで自らの判断を示し、場合によっては一旦職を辞し自らの職を賭して出直し知事選で県民の信を問うとしている。

これが意味するものは、まずもって「3つの検証」に対する判断を知事たる自分が下し、それに対する政治責任を担保するものとして、落選もありうる知事選に政治生命を賭けるというものである。

 

池田候補は、現在の公式サイトでは触れられていないが、立憲民主党・日本共産党・自由党・社会民主党の野党4党が共同提出した「原発ゼロ基本法案」と政策的にリンクしている。本法案に新潟4区選出の菊田真紀子衆議院議員が名を連ねており同議員が知事選前から選挙応援に熱心だったこと、野党国会議員がひっきりなしに新潟入りしていることからすれば、明らかに原発ゼロが池田候補の政策目標である。

 

だとすれば、なぜ「3つの検証」を進めようとするのか?はっきり言ってこの候補の意図がわからない。「原発ゼロ基本法案」は、「すべての原子力発電所(原発)を速やかに停止、廃止する。」「施行後5年以内にすべての原発の廃炉を決定する。」というものである。にもかかわらず、「3つの検証」に3年以上もかけるというのはどういうことなのか。所詮野党の「原発ゼロ基本法案」はお題目に過ぎないということなのか?

 

「3つの検証」に意義があるとすれば、パパは再稼働の可否を判断するためのものだと理解している。判断という以上、再稼働「可」の可能性も「否」の可能性も等しくあるという中立的なものであるはずだ。「原発ゼロ」を主張する者にとっては容認しがたいプロセスであると思うのだが、どうだろう?

 

さらには、このブログの前回記事の繰り返しになるが、再稼働の判断を自らの政治責任とはまったく関係のない「県民投票」という中途半端な方法で県民に丸投げして知事の自らは安泰といった政治姿勢に県民として敢えて疑問を呈しておく。

 

長々と知事選3候補の原子力政策の話をしてきたが、主張としての分かりやすさでは安中候補だと思う。

 

花角候補は再稼働の可否には慎重寄りながらも中立的であるといえる。政治生命を賭けて信を問うことで、県民の意向を柔軟に受け止めることのできるオーソドックスな姿勢はうなずくことができる。保守系に対する野党系の決まり文句、「永田町や霞が関の顔色を窺う」との指摘は、こと新潟の原子力政策に関しては当たらない。民意に反していざ再稼働ということになれば、新潟は国政選挙も地方選挙も軒並み野党一色になるかも知れないからだ。むしろ、新潟県の民意をバックボーンに堂々と中央と渡り合えるのではないだろうか。それでも、与党が原発推進を押し付けるのなら、それは新潟県の切り捨て以外の何物でもない。

 

「県民投票」や「原発停止後の新潟の産業・社会を検討するための新たな会議を設置します」との池田候補の政策は、重要課題を他に丸投げするものだ。「3つの検証」と「原発ゼロ基本法案」との兼ね合いをどう説明するのか?政策関係なしならともかく、政策重視の有権者が清き一票を投ずるかどうか。もし、候補者の公開討論会があったとするなら、そして対立候補なら、真っ先にここを突くはずだ。今一度、論点を整理して堂々と政策を述べてもらいたいものだ。

 

偉そうなことを言っているが、このブログも随分と論点が整理されていないかもね(笑)

推敲する気力も失せたので、このまま放置・・・・。

新潟県が進めている福島第一原発事故の「3つの検証」が終わった後を考えてみる。

 

花角候補は、「県行政のリーダーとして県民に信を問うという形が良い」として「自ら辞職して意見を確認することもある」と「3つの検証」の判断を県民に問う可能性もあると述べている。これは簡単に言えば、知事を辞めて次の知事選で自らの職を賭けて県民の信を問うということだ。

 

一方、池田候補は、県民投票などで判断するというものだ。

 

新聞報道によれば、両候補とも、出直し知事選の可能性とか、県民投票などと多少ぼかした表現をしているが、ここでは柏崎刈羽原発再稼働の可否判断を知事選でやるのがいいか、それとも県民投票でやるのがいいか、少し考えてみたいと思う。

 

これまでの県政や選挙の影響などにより新潟県民の多くが原発再稼働には慎重だと思われる。従って、再稼働にゴーサインを出すためには、「3つの検証」でどれだけ原発の安全性や避難計画の実効性を検証しきれるかどうかだが、はっきり言ってこれは悪魔の証明に近い相当にハードルの高い作業となるだろう。そうしたことを考えていると、再稼働など到底できるわけがないという結論になる。

 

「3つの検証」など最初から結論がわかっている無駄な作業ということになりはしないか。永遠に稼働することのない原発であるとするのなら、検証など回りくどいことをするのではなく、さっさと廃炉計画を策定させた方がいいということになる。

 

話を元に戻す。池田陣営はごく最近になって自らの公約を原発ゼロであることを明言した。以前は、こうした直接的な表現ではないオブラートに包んだ言い回しであったのだが、花角陣営も再稼働慎重姿勢ということでホンネをあぶり出されたということかもしれない。

だが、可能性はかなり低いと思われるが、仮に県民投票で再稼働ということになったらどうなるだろう?

明らかに自らの政策と投票結果にネジレが生ずることになる。普通の政治家なら知事辞職ということになるはずなのだが、そうなればどの道知事選である。ムダのひと言しかない。それとも、「やっと議員になったんです」と言った某地方議員のように「やっと知事になったんです」と言って居座りを続けるつもりなのだろうか。

 

冗談はともかくとして、この陣営は、再稼働はしないという単一シナリオで柏崎刈羽原発にとどめを刺すつもりなのだから、県民投票など血祭の儀式程度の認識と思わざるを得ない。県民投票などと、いざという時の政治責任を軽く見ているフシがある。

 

そう考えると、職を賭し自らの政策と民意の一致をはかるために知事選にうって出るという花角候補の方が政治の仕組みをよくわかっている潔い候補ということになる。落選したら終わりなのだから。

 

「再稼働しますか、しませんか」のメニューを県民に提示するだけでしかないのが県民投票である。はたしてそれでリーダーシップといえるだろうか。原発再稼働の可否はそれほどまでに新潟県民にとっての重要課題であるのだから、たとえどんな結果になろうとも自らの職を賭して自らの政策として提示する、そんな覚悟を県政のトップには望みたい。

 

昔の話になるが、そうした政治のダイナミズムの中に身を置く政治家も結構いたように思える。今はスキャンダルなどで引きずり下ろし下ろされの誠にくだらいないやり取りばかりだ。

 

あっ、そういえば前職もそうだったよなぁ。

 

 

 

そんなことをいろいろと考えていると、新潟県に相応しい知事とは行政経験豊富な人物であるという結論になる。

 

一昨年の前回選挙では、前長岡市長である森民夫氏が与党系候補として立候補した。

彼は建設官僚を経てやがて長岡市長となるが、特筆すべきは2009年から知事選立候補までの7年もの間全国市長会会長を務めていたということである。選挙結果はご存知の通り、野党系候補のノー天気な前職が6万票の差をつけて当選した。

 

この選挙結果からすれば、原発再稼働をめぐるone-issue選挙と言ってよい。

なぜなら、森民夫氏の豊富な行政経験よりも県民はフラッとやってきた変人を選択したのだから。

選挙戦術だけの話をすれば、新潟県民にとってはなるほど原発再稼働に関する論議はわかりやすい。それを争点として選挙戦に臨んだ野党の作戦勝ちであると言わざるをえない。

 

だが、これによって、森民夫氏の豊富な行政経験は新潟県政にとって露と消えてしまった。

誠に惜しい人材を新潟県民はかくも簡単に切り捨てて、阿呆を首長に仰ぐこととなった。今や全国の笑いものである。

 

なるほど、田中角栄のような政治家の恩恵にどっぷりと漬かってきた県民性を考えると、扇動的な聞こえの良い政治家を好んでいるようなのだが、今となっては稀代の大物政治家を望むことよりも、調整能力を十分に持ち行政経験豊富な実務派を選択するのが王道とも思える。

 

国会議員であろうが、県会議員であろうが、県政の中に入って地道な調整を行ってきた人物ではない。言ってみれば、県会議員なんぞただの外野にすぎないのである。扇動された政治よりも満遍なく実務を見渡せる行政が望まれる。

 

公約というものは、県民の経済活動や高齢者・少子化対策などの政策課題に立脚したものでなければならない。いわばルーティンをしっかりとこなした上での公約であることを忘れてはならない。

 

なるほど、柏崎刈羽原発の再稼働問題は県民にとっての重要課題ではあるが、ただでさえ見劣りのする県政がそのone-issueのみにとらわれている間に、さらに置いてけぼりを食らったというのが今の新潟県の実態ではないだろうか。

 

その県政を弄んできたのが、あの連中なのである。

今、新潟県政は出口が見つからない長いトンネルの中にいる。そんな喩えようしかない低迷ぶりだ。

 

いや、ひょっとしたら出口のないトンネルに迷い込んだのかも知れない。

だとするなら、これまで歩んできた道を引き返すしかない。今年生誕100年を迎えた田中角栄だったら、トンネルの向こう側に出口を作ってくれたのかもなどと、つい無いものねだりを政治にしてしまうのは何故だろう。

 

田中角栄が失脚してから40年になる。パパはこれを新潟県の失われた40年と言ってきたが、落下傘のように降ってきた恩恵をそのまま享受していれば良い時代はとっくの昔に終わっている。新潟県から稀代の大物政治家などそうそう出るはずもない。もはや、ひとりの政治家に陳情して任せきりにして結果を待つということはできないのである。

 

だとするなら、有能な凡人に知事になってもらうしかないだろう。

首長として、民意を吸い上げ、役人を使いこなし、国との調整をしっかりできる人物こそが知事に相応しい人物ということになる。極々当たり前のことなのだが。

 

いくら偏差値が高く難関大学を出てマルチな資格を持っていようが、政治的に節操が無く落ち着きが無い人物には務まらない。

前職はとりあえず知事にはなってみたものの、どこか心ここにあらずといった素振りであった。目の前の目標を達成したらハイ次といった印象さえある。SNSであちこちとケンカを売っていたあの状況を見ていれば、よくもまあそんなことやっている余裕があるものだと呆れさせられたものだ。彼にとっては知事になることが目的であって、知事になって何をするかはどうでもよいことだったのではないかとさえ思えてくる。悪魔ならぬ魔女のささやきで所属政党もあっさりと変えた様を知事への華麗なる転身とは到底言えまい。醜聞によって職を辞した前職は、本人も彼を担ぎ出した連中も論外なのである。

 

では、前々職はどうか?

彼が知事就任して間もなく発生した中越地震の際は迅速かつ的確な対応を行ったとも思うのだが、その後の行政手腕はご存知のとおりである。

国からも隣県からも顰蹙を買うばかりでなく、新潟県市長会と新潟県町村会連名で「泉田県政3期12年間に生じた問題」なる文書までが突き付けられている。同文書によれば、「県と市町村との役割分担を無視した知事の指示により市町村等に混乱が生じたこと、国や他の機関に対する知事の行き過ぎた言動や対応により市町村事業等に遅れが生じたこと、知事が自分の主張する意見に固執するあまり、市町村の業務や事業等に大きな支障が生じたこと、県が主導し責任をもって取り組むとされた地域経済の発展や県民生活の向上に資する政策が進展していないことなど、数多くの問題が指摘された。」とのことだが、どう考えてもこうした文書が発出されること自体異常な状況である。

法律で策定を義務付けられた医療・福祉関係の4計画を全国で唯一新潟県が作っていなかった原因を知事が同意しないとの県の内部文書からも県内市町村長たちが提起した問題が裏付けられると思う。

 

いずれにしても、前職も前々職も、有能な凡人ではなかったということだ。

 

パパは「新潟市民オンブズマン」という呼び名に抵抗を感じる。

 

オンブズマンという制度はスウェーデンが起源とされる。そもそもを語るには少々長い前置きになるので、ここでは省略する。

現代のわが国におけるオンブズマンは、いわゆる市民オンブズマンのことで「行政の監視役」との位置づけのようだ。

 

それはそれで結構なのだが、「市民オンブズマン」の頭に「新潟」の2文字が着くと何やら新潟市民の代表のような錯覚に陥ってしまうのはパパだけか?

 

「新潟市民オンブズマン」の活動は新聞紙面やテレビ報道で知ることができるが断片的な情報でしかない。一般市民にとっては何やら訳の分からぬ集団が役所に注文をつけている程度の印象しかないこともあってあちこちとサイトを調べてみたが、残念ながらこのオンブズマンのブログは2015年8月以来更新されていないようである。

 

ただ、ピントの外れた新潟市政の監視役として、行政のムダ遣いや誤った施策を質している活動内容については結果としてパパの意見と一致するところが多いのも事実だ。

 

パパの言いたいことはひとつ。

ある意味どうでもよいことに執着して軽々に訴訟などとはやめてくれということだ。ただでさえ、ピントの外れた市政がさらにピント外れになってしまう。

 

市政が襟を正して、まっとうな市政になってくれればそれでいいのだから。意固地になった泥仕合は避けて欲しいということだ。

 

小針の女児殺害事件に際して、早速このオンブズマンは「(今年度、財政難を理由に削減または廃止された)子供の安全対策の予算は元の額に戻し、対策を取って欲しい」(5/18読売新聞より)と新潟市への申し入れを行ったようだ。限られた紙面の情報から多くを知ることはできないが、はたして元に戻すだけでいいのか?子供の安全のために必要なカネを惜しむべきではない、借金してでもやるべきだというのがパパの意見だがどうだろう?「元に戻す」とは何を根拠に言っているのか、さっぱりわからない。

 

話は逸れるが、現在もなお件の女児殺害事件については殺害動機などを調べているが、事件発生当初の報道でもわかるようにマスコミも市民も不審者情報にばかり気を取られていたような気がする。子供の安全はそればかりではない。むしろ、地域の交通安全をベースに子供を見守る、時には叱ることが、こうした不審者に対する安全も確保できるのではないかと思っている。不審者情報にばかり気を取られ、子供を巻き込んだ交通事故が発生したのでは本末転倒とも思えるのだが。オンブズマンの申し入れは、そうした観点にも言及しているようなので、まずは可としておこう。、

 

新潟市長選が今年の10月に行われる。

今から立候補予定者がああだこうだと話題になった矢先、降って湧いたような知事選に話題をさらわれてしまった格好だ。

だが、新潟市民にとってはそれはそれ。しっかりと候補となるべき人物を今のうちから吟味しておかなければならない。

 

厳しい財政状況とその割にピント外れの行政を行ってきた現新潟市政。今や政令市では最低レベルの貧乏都市となってしまった。

文化かぶれの象徴でもある「安吾賞」や「ラフォルジュルネ」。そんなことにうつつを抜かしてきた代償を払わされるのは新潟市民である。にもかかわらず、「水と土の芸術祭」などと寝とぼけた事業をやるというのだから開いた口が塞がらない。

 

この緊急事態に、普通の感覚を持った市長ならそうした事業を即刻止めさせるべきであろうし、そうすることが市職員のみならず市民に危機感を持ってもらう首長としての強力なメッセージになるはずだ。

 

だが、そんな姿は微塵もなく、NGT48などのイベントで相変わらずの緊張感のないコメントばかりの現職にはうんざりだ。

 

6年前に「安吾賞」についていろいろと疑問を呈した記事があるのでパパ自らリブログしておく。

あれからも現職の姿勢は変わることなく現在に至っている。この程度のことでしかないが、新潟市をここまで低迷させた現職の根っこはこういったところにあるのではないだろうか。