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琵琶湖サイクリングで、滋賀県大津市の瀬田の唐橋を通りました。

 

ビワイチ出発の地のモニュメント(2021年6月に瀬田ライオンズクラブが大津市に寄贈)

 

瀬田の唐橋は、琵琶湖の南端から瀬田川が流れ出す場所の、少し下流にあります。


全長223.7メートル(大橋約172m、小橋約52m)、滋賀県道2号線(大津能登川長浜線)が通るこの橋は、ことわざ「急がば回れ」の語源になりました。

かつて、東から京都に向かうには必ず通らなければいけない交通の要衝地だったため、歴史上の多くの戦乱に登場しています。

このブログ記事では、

 

  • 「急がば回れ」の由来
  • 瀬田唐橋の歴史
  • アクセス・交通手段・駐車場

 

について紹介します。

 

 

  「急がば回れ」の由来

 

瀬田の唐橋

 

ことわざの「急がば回れ」は、 「物事を急いでしようとする場合も、着実な方法を取るほうが、早く目的を達成できる」という意味。

「武士(もののふ)の やばせの舟は 早くとも 急がばまわれ 瀬田の長橋」という和歌に由来しています。

 

 

 

東国から京都に入るためには、矢橋(現在の草津市)の渡し船を利用するのが最短ですが、比叡おろしという強風で船が遅れることがありました。

 

急がば回れ

なので、遠回りでも瀬田唐橋を利用する方が着実で、結果的には目的地に早く到着するということを例えています。



この和歌の作者には二説あり、平安後期の歌人・源俊頼(みなもとのとしより)が詠んだという説(※1)と、室町時代の連歌師・宗長(そうちょう)が詠んだという説(※2)があります。

 

(参考)

 

 

 

  瀬田唐橋の歴史

 

明治時代まで、瀬田川唯一の橋であった瀬田の唐橋

 

狩野晏川 山名義海模 高階隆兼等 石山寺縁起

狩野晏川/山名義海模「高階隆兼等/石山寺縁起」(画像出典)文化庁 文化遺産オンライン


琵琶湖を船で渡るには比叡おろしの影響を受け、瀬田川の下流は急な山に囲まれて大軍が進むことができませんでした。

 

 

歌川広重 近江八景之内 瀬田夕照
歌川広重「近江八景之内 瀬田夕照」(画像出典)文化庁 文化遺産オンライン

 


つまりこの橋は、東から京都に攻め入る際に必ず通らなければならず、「唐橋を制すものは天下を制す」と言われるほど軍事・交通の要衝だったのです。

 

 

 

671年 壬申の乱

天智天皇の子「大友皇子」と、その叔父「大海人皇子」との間に、皇位継承を巡る戦いが起きました(壬申の乱)

大海人皇子は東国に逃げていましたが、地方豪族を味方につけて、近江京の大友皇子のもとに攻め込みます。

瀬田の唐橋で最終決戦が繰り広げられ、大友皇子が敗れて、大海人皇子が天武天皇になりました。

 

 

 

平安時代中期(900年頃):俵藤太秀郷の大ムカデ退治の伝説

平将門の乱・川口村の戦い(茨城県)で、将門を討ち取ったとされる地方豪族・藤原秀郷(俵藤太秀郷/たわらのとうたひでさと)

室町時代の御伽草子「俵藤太絵巻」に、大ムカデ退治の物語が伝えられ、瀬田の唐橋が登場しています。



瀬田の唐橋に66メートルもの大蛇がおり

 

大蛇

 

秀郷がやすやすと踏み越えたところ、大蛇はおじいさんに変身。

 

おじいさん

おじいさんは秀郷に、

 

「お前のような勇者を待っていた!三上山の大ムカデが琵琶湖の魚を食い尽くして、皆困っているので、ムカデを退治してほしい!」

とお願いしました。

そこで秀郷は三上山へ行き…

 

大ムカデ

 

ムカデに矢を射り、見事に退治しました。

おじいさんは秀郷をたたえて、瀬田の唐橋の下にある「竜宮」に秀郷を招待。

秀郷は一生食べきれないほどの米俵をお土産に持ち帰って、「俵藤太」と名付けられたとのことです。

 

米俵

参考:国立国会図書館 レファレンス事例検索

 

 

 

1184年 瀬田・宇治川の戦い(治承・寿永の乱)

源平の戦いにおいて、源氏の内部で木曽義仲と源頼朝が対立し、頼朝は弟・義経と息子・範頼に義仲追討を命令。

 

範頼は瀬田へ、義経は宇治へ進軍しました。

義仲の側近・今井兼平が瀬田の唐橋の橋板を外し、源範頼に抗戦したと伝えられています。

しかし義仲はこの戦いに惨敗し、琵琶湖畔へ敗走しますが、粟津の戦いにおいて31歳でこの世を去りました。

 

 

 

1221年 承久の乱

後鳥羽上皇が、鎌倉幕府の北条義時に対して討伐の兵を挙げた承久の乱

後鳥羽上皇の挙兵を受けて、鎌倉幕府方は東海道・東山道・北陸道の三道に分け、総勢19万騎で京都へ進軍しました。

両軍は瀬田橋を挟んで戦い、幕府方が勝利を収めました。

 

 

 

1573年 武田信玄の遺言

戦国武将の武田信玄は、野田城の戦い(愛知)の後に持病が悪化し、甲斐の国へ撤退。

その途上の三河街道で信玄は死去しました。享年53歳で、亡くなった地は駒場・浪合・根羽(いずれも長野県南部)と諸説あります。

武田氏の軍学書である「甲陽軍鑑」によると、信玄は重臣・山県昌景に対し、「明日は瀬田に(我が武田の)旗を立てよ」と遺言を残したそうです。

 

 

 

1582年 本能寺の変

1575年織田信長が、朽木(現在の高島市)などから木材を調達し、瀬田の唐橋を現在の場所に完成させました。工期はわずか90日だったと言われます。



しかし本能寺の変で明智光秀が信長を倒したため、信長の家臣・山岡景隆が、光秀が安土城を攻め込まないように唐橋と瀬田城を焼き払いました



その後、橋を再建したのは豊臣秀吉です。秀吉のもとで、瀬田の唐橋は、現在のような大橋と小橋の2つになりました。

 

 

 

明治時代以降~鉄筋コンクリートの橋へ

1924年(大正)13年、それまで木造橋だった瀬田唐橋は、鉄筋コンクリート製になりました。

そして戦後、交通量が増え老朽化も進んだため、1975年(昭和50年)から1979年(昭和54年)にかけて架け替えが行われ、現在に至ります。

また、2012年(平成24年)に、クリーム色から唐茶色に塗り替えられました。

 

クリーム色の瀬田唐橋

以前のクリーム色(画像出典)snaplace

 

瀬田の唐橋

現在の「唐茶色」


参考:土木学会 鉄の橋百選-近代日本のランドマーク

 

 

 

  アクセス・交通手段・駐車場

 

 

〒520-0851 滋賀県大津市唐橋町

  • 京阪電鉄:石山坂本線「唐橋前」下車 徒歩5分
  • 車:名神瀬田西・東ICから5分

瀬田の唐橋に駐車場はありませんので

  • 近隣の有料コインパーキングに駐車する
  • 唐橋公園駐車場を利用する(徒歩9分/駐車無料)
  • 建部大社を参拝し駐車場を利用する(徒歩6分/駐車無料)
といった方法があります。



本日は、瀬田の唐橋をご紹介しました。
 
歴史を知ると、旅やサイクリングが一層楽しくなりますねニコニコ
 
ちなみに、ビワイチ出発の地モニュメントの横にある瀬田川観光船組合の建物↓↓↓
 
瀬田川観光船組合
 
ビワイチを応援する「サイクルサポートステーション」の1つで、トイレや休憩所を利用できるそうです。ありがたや~
 
ここから瀬田の唐橋を眺めながら、歴史に思いを馳せるのもいいかもしれませんにっこり
 
 

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(訪問日:2023年6月25日)