浜松市中区と東区をご朱印めあてでウォーキング(2020/09/27) | パンダの音楽

パンダの音楽

静岡在住のセレクタ兼チャーターです。

独自ヒットチャートの公開、お気に入り楽曲の紹介等を致します。

9月27日(日)に浜松市の中区と東区を自主メニューでウォーキングしたことを記事にします。今回は「自宅や会社の近くにあって何度も近くを通り過ぎているのに立ち寄ったことがないところ」シリーズでGoogleマップとにらみ合いながら自宅を出ました。
まず向かったのが冒頭の画の松尾神社です。自宅を出てから35分ほど、2.8kmほど歩きました。初めて訪れたのですが「まつおじんじゃ」でなく「まつのおじんじゃ」と読むことも初めて知りました。
=========================================

御祭神は白鬚大神(しらひげのおおかみ)、大山咋神(おおやまくひのかみ)、嚴島姫神(いつくしまひめのかみ)。和同年間(708-715)の創建で、浜松神社と言い、白鬚大神を主神として奉斎する浜松の総社である。猿田彦神とも言われ、八方除け・寿命守護の神として、遠く三河地方まで崇敬が及ぶ。天正5年(1577)浜松城内の守護神をこの浜松神社に合祀し、松尾神社と改名する。歴代の浜松城主の祈願所として崇敬を受け、明治元年(1868)明治天皇より御使用の御茶碗を下賜される。

=========================================

…云々。街中にあるこじんまりとした神社と思いきや、創建から1,300年あまり、浜松市街地ではもっとも歴史のある神社だったのです。本殿は改装中でしたが、中に例祭で練りだす神輿が納められていました。

浜松市街地には肴町(さかなまち)と元魚町(もとうおちょう)と似たような地名があるのですが、松尾神社は元魚町に鎮座しています。この神社周辺の商人達は家康の命により、浜松城に近い地区に移転し、そこが肴町(さかなまち)となり、元あった所を元魚町(もとうおちょう)としたと言うことです。現在もこの神社の筆頭氏子町は肴町となっているようです。
松尾神社を出て約1.3km、15分ほど歩いて浜松城へ着きました。
おぉぅ、この日は日曜日、家康くんと直虎ちゃんに会えたんですね。
浜松城は浜松市街地での定番中の定番の観光地です。いい天気の休日で、多くの観光客が訪れていました。
私はウォーキングイベントを含めて何度も訪れているお城なので、少しも新鮮な気持ちにもなりませんでしたが、ご朱印集めの延長で「ご城印」めあてに訪れたのです。

ジャーン!、これがその「ご城印」です。2020年は家康が築城してから450年めにあたるメモリアル・イヤーとして派手な記念バージョンをいただきました。人生初の「ご城印」が自分のいちばん身近にあるお城であるのもほほえましい思い出になりました。

天気予報は「曇り時々晴れ」だったと思うけど、良い天気になりました。少し汗ばみでしたが、秋風が心地よかったです。
浜松城をあとにして再び国道152号線を北上、1.0kmほど歩いて天林寺に着きました。実家の菩提寺が曹洞宗であり、一度は訪れてみたかった寺院なのです。
=========================================

山号は「真徳山 天林寺(しんとくざんてんりんじ)」、傑堂義俊(けつどうぎしゅん)禅師が、文安2年(1445)に引間城(ひくまじょう)の麓に亀鶴山万蔵院(きかくざんまんぞういん)を構えたのが、当寺の始まりである。場所は現在地より南であり、浜松城の鬼門にあたる所とも言われる。同じ浜松市中区にある広沢山普済寺(こうたくざんふさいじ)は華蔵義曇(けぞうぎどん)禅師が開山した寺院であるが、傑堂義俊禅師は華蔵義曇禅師の高弟であり、普済寺十三門派の1つに称される。

=========================================

…云々。普済寺という大きな寺院の隠居みたいな感じですが、それでも750年余りの歴史がある古刹です。
お寺の由縁については天林寺のホームページに詳細に記載されているので参照されたいです、リンクはこちらです→真徳山 天林寺
立派な本堂や鐘堂、広い墓地が整備されていて、思った以上に規模が大きいお寺で驚きました。
お彼岸は過ぎていましたがお墓参りで訪れている方が多く、おのずと静かにお祈りする気持ちになりました。暑かったこともあり、ご朱印を受付してもらってからしばらくは本堂でゆっくり休ませていただきました。
ご朱印をいただいたあと、墓地へ向かいました。上の画は墓地へ向かう途中にある橋梁からの撮影で、この下の国道152号線を何度も行き来していて気になっていたのです。
上を歩いてみれば「なるほど」の世界、天林寺のある丘を切り拓いて国道が通されたのがよくわかりました。
天林寺を出て、再び国道152号線を北上しました。 10分ほど歩いて常楽寺に着きました。バス停の名前になっている寺院で前々から気になっていたのです。
お寺の中はひっそり、1人きりの世界でした。寺務所も開いておらず、ご朱印は諦めました。
本堂の他には目につく建物も見当たらず閑古鳥…、すぐ隣にある信貴山へ向かうことにしました。
遠州信貴山別院(えんしゅうしぎさんべついん)、遠州信用金庫本店のすぐ隣にあり、数えきれないくらい前を通り過ぎていたのに初めての入山です。
=========================================

信貴山(しぎさん)とは大和国(やまとのくに:現在の奈良県)にある、聖徳太子の御開基による日本最古の毘沙門天の霊刹である。当山では御本山の毘沙門天の御分身を日々還座おまつりしている。毘沙門天は七福神の随一にて、家内安全・商売繁盛・福徳開運の霊験あらたな福の神である。信貴山の寅は毘沙門天王の福徳を千里の空を駆け巡り、お授けする、お使いである。寅の日(3日)となる毎月3日、13日、

23日を御縁日と定めて、御護摩をつとめている。

=========================================

…云々。お寺の由縁や創建のことなど調べてもよくわからなかったけれど、おそらくは真言宗派で毘沙門天を祀っていることは確かなようです。

本堂の前にアショーカ・ピラーの石像があって、中に入ってマニコロを回しながらお参りしました。ここの石像は寅ではなく獅子なんですよね…。
本堂の中に入り、参拝客が自分1人だけの中、静かにお祈りさせていただきました。
本堂の中にはさまざまなお守りや縁起物が売られていました。残念ながらこの日はご住職が不在で、書き置きのものも用意されていないため、ご朱印をいただくことはできませんでした。なお、遠州信貴山のホームページがありましたのでご案内いたします、リンクはこちらです→遠州信貴山別院

信貴山を後にして、黙々と北東方向へ歩くことにしました。国道152号線を5分ほど北上してから二俣街道に入りさらに北上、上島小学校の近くで右折し東へ進む→馬込川を越えてひたすら東へ進む→イオン市野ショッピングモールなど天王町のにぎやかな界隈を通り過ぎると、「大歳神社(おおとしじんじゃ)」がありました。

遠州信貴山別院から約4.8km、1時間ほどの徒歩でした。ここも車で何度か前を通ったことがあるものの立ち寄るのは初めての神社です。
=========================================

創立の年月は詳ではないが、平安時代から時を繋いでいる。 元来「天王宮」「天皇宮」「大歳神社」の三社に別れてご鎮座になっていたが、後に合祀され、更に当神社氏子四町の氏神を合祀し現在に至る。そして、その総称として「天王宮大歳神社(てんのうぐうおおとしじんじゃ)」と申し上げる。
<天王宮>:御祭神= 素戔嗚尊(すさのおのみこと)、 櫛稲田媛命(くしいなだひめのみこと)、大己貴尊(おおなむちのみこと)、事代主命(ことしろぬしのみこと)、伊邪那岐尊(いざなぎのみこと)、伊邪那美命(いざなみのみこと)、武甕槌命(たけみかづちのみこと)、 経津主命(ふつぬしのみこと)、太田多根子命(おおたたねこのみこと)。景行天皇40年事代主命が須羽(すわ)の地に、天王社を建立して先祖を祀り、この霊殿を日本武尊東征の年、この地の首長御久和神人がこの処に奉遷したものである。坂上田村麿が東征に出陣の際、武運長久を祈願したとも云はれ、遠州一円の天王社の総社と云はれる。

<天皇宮>:御祭神= 長慶天皇(ちょうけいてんのう)、亀山天皇(かめやまてんのう)、後宇多天皇(ごうだてんのう)、後二条天皇(ごにじょうてんのう)、後醍醐天皇(ごだいごてんのう)、後村上天皇(ごむらかみてんのう)。長慶天皇神韴霊(かみふつみたま)及び南朝五皇統天皇(なんちょうごこうとうてんのう)の神霊をお祀り申し上げたのが由緒と伝えられている。

<大歳神社>:御祭神=大歳神(おおとしのかみ)。延喜式内社であり、延長5年(927)に醍醐天皇が編寡された「延喜式神名帳」に「遠江国長上郡小一座大歳神社(とおとうみのくにながかみぐんこいちざおおとしじんじゃ)」とある。

=========================================

…云々。とにかくまぁ神様がいっぱい、神様のかたまりです。東区のほとんどは天竜川の氾濫原からなる平野にあり、大歳神社の周りも住宅地にはなっているものの田んぼが広がっています。大歳神が五穀豊穣の神様であることがいちばんしっくりきます。

まずは拝殿にてお参りしました。今年(2020)の新型コロナウィルスの疫病退散で話題になったアマビエさまがここでも祀られていました。
拝殿の西隣りにある御久和稲荷社(おくわいなりしゃ)もお参りました。
本殿の方と違ってここは1人でひっそりお参りしました。すぐ横に弓道場もあり、気が引き締まる感じでした。
神社の駐車場にはツーリングのバイクがいっぱい停まっていて、20人くらいのライダーさんが休憩されていました。
天気も良い秋の観光日和だし、ツーリングの参拝客も多いのかと勝手に思っていたら、いやいや、「ツーリングオアシス」としてライダーさんの中では名が通った神社なのでした!。
いろいろなツーリンググループのステッカーが貼られていて、まさに「聖地」です。
ご朱印は8パターンありましたが、「②一般」と「⑦通常」を選びました。②のご朱印は季節がらの絵が描かれていて、中秋の名月のこの季節にあったものでした。8パターンの筆頭が「①二輪」となっているところが"肝"です。
ご朱印を受付して待っている間、ありがたいことに無料で缶コーヒーをいただきました。
1時間も黙々と歩き、火照った身体には良い休憩所になりました。なお、大歳神社の公式ホームページがありましたのでご案内いたします、リンクはこちらです→延喜式 天王宮 大歳神社

大歳神社を後にして次は有玉方面…北西方向に歩きました。イオン市野ショッピングモールの東沿いを歩いてから主に県道261号線(姫街道)を進み、二俣街道を越えてすぐ右へ曲がって東名高速道路をくぐってすぐのところに有玉神社がありました。

大歳神社から約3.3km、40分ほどの徒歩でした。この日ご朱印スポットとして訪ねようと思った神社です。
=========================================

明治後期、当時の有玉村は世帯数380戸あり、地域内には郷社神明宮を初めとして村社、無格社合わせて12社があり、そのうち村全体で祭典を行う神社が3社、小部落で行う神社が9社あった。神社の多くは境内、社殿共に狭く神社の尊厳を保持しがたく、加えて祭典の繁雑さを訴える世論が台頭してきたので関係者協議の結果、一村一社に合併し、宏荘・尊厳なる社殿を建築して氏子の信仰と社会教化の中心にしようとして、明治40年(1907)、郷社神明宮を八幡宮境内に移転し併せて11社を合祀し、郷社有玉神社と称することにした。新社殿は大正2年(1913)に完成し、同年9月10日に御遷宮された。

=========================================

…云々。創建の時期は不明ですが、有玉村=現:浜松市東区北西部の地域のおいて、昔からの村の鎮守であることは確かです。

参拝客らしいのは私だけのようでしたが、本殿の中には大勢オッチャンやオッサンがいて、藁を結んだり作業されていました。この日はそれこそ奉納祭の準備なのか、…ひょっとしてもう正月の支度なのでしょうか、氏子さん…地域の方々の思いが集まって、賑やかでした。
ただ宮司さんの姿は見当たらず、社務所は開けっぴろげで何やら氏子さんたちの荷物とか置いてあったけどご朱印を受け付けている様子ではありませんでした。
こちらは俊光将軍社といって、有玉神社本殿の横にある社でした。合祀されているふうでもあります。
ご祭神などつまびらかなことは書きませんでしたが、有玉神社に関連するわかりやすいホームページがありましたのでリンクを載せておきます→有玉神社

その後はさすがに歩き疲れ、助信へは電車(遠州鉄道)に乗って帰ることにしました。最寄りの駅は「自動車学校前」、有玉神社からは600m、約8分ほどで着きました。

上の画はこの日のウォーキングの軌跡を映したGoogleマップになります。自宅→(主に電車通り)→(国道257号線)→[松尾神社]→(主に国道152号線)→[浜松城]→(国道152号線)→[天林寺]→(国道152号線)→[常楽寺][遠州信貴山別院]→(主に国道152号線)→(二俣街道)→[大歳神社]→(主に県道261号線)→[有玉神社]→(主に二俣街道)→[自動車学校前駅]=(遠州鉄道)=[助信駅]~自宅。約12kmのウォークでした。

遠州信貴山にて、今日のお言葉、「念ずれば 花ひらく」。世界平和と諸願成就を祈念してアショーカ・ピラーは建てられました。自宅から遠州信貴山までは徒歩で15分ほど、ご朱印目あてではあるがまたお参りしに行きたいところです。このところ自主メニューで歩くことが楽しくなっているので、この波に乗って浜松市内をもっと歩こうと思うのでした。以上、記事終わり。