サカナクション山口さんの勇敢な「鬱の過渡期中」コラムたちのありように、勇気が出た | アメブロなpandaheavenブログ

アメブロなpandaheavenブログ

最近漫画の先生始めました。
好評です☆

写真を撮ったり映画を見たり。でもやっぱり普通が一番!
みんなも無理しないでね!

サカナクションの方が難渋されている旨どこかの記事では知っていました。

症状を読むにあたり、その正確さと、やりきれなさをよくここまで正鵠を射る表現にせしめたものだと思うのと同時に、「こうした綿密さゆえ」に苦しみが増しもする本当さに、私は大きく救われる心地を覚えたのです。

 

故に、ここに近日知っただけの記事たちから紐解けるコラムにしたくなって取り上げることにしたんです。

 

5人組ロックバンド「サカナクション」のボーカル・山口一郎(43)が30日、自身のインスタグラムを更新。体調について伝えた。

 山口は22年5月に「帯状疱疹」と診断されたことを報告。同7月には極度の倦怠(けんたい)感や疲労状態などの不調が続いていたとして同月いっぱいの休養を発表し、バンドの全国ツアーをキャンセルした。

キャパオーバーと、真面目さ由来の「強い間に合わなさへの衝動」が無尽蔵に積み重なっていったのだと推察します。

「まだいける」と思ってる間に蝕まれる部分が鬱って奴にはあり、その「前走部分」には「くたびれてるだけ」で済ませた真面目な人ほど、重篤化まで手を出しに行かなくなっちゃう。

この日は「鬱病には『揺り戻し』という頑張れた一日の後にケチをつける副作用が存在する。今、フェスによる『揺り戻し』の繰り返し無限ループから抜けられなくて、非常にしんどい」と打ち明けた。

 通院や慎重な行動を心がけるものの、「どうにも沼に足を取られて、濁った泥面に浮かぶ死んだ蝉のように、いつか沈んでしまうのではないかと怯えてしまう」と告白。「そんな寛解とは程遠い日常を過ごしている」と明かした。

ここにすでに「寛解」を口にしたくなる心象が痛いほどわかる。実態は「それどころではない」位置にいるのに、「治った暁には」を「いくつも治療の山を通り越した先」を気が急いてみたがりにかかるのだ。


このどうしようもなさは、「できてきた人」「こなせてこられた人」ならではで、なまじ「できないできた人」より重篤化の幅を深く濃くしてしまう。

これを伝えるべきか、しゃぶしゃぶの時に鍋底に沈み焦げつくマロニーのように、自分の中だけで秘匿しておくか悩むのだ。

発信すれば誤解を生むし、黙っていても違う誤解のされ方をする。この病気を公表し音楽を続けていく事は想像より、しんどい事なのかもしれない」と続けた。

 そしてSNSでの投稿を暗闇の中でのキャッチボールに例え、「安易で危険」とし、「当たりどころが悪ければ、相手の精神状態に致命傷を負わせる可能性があるのだ」と提言。ネットリテラシーについて説き、「人に優しくして損することなんてないのだから」と伝えた。

「正確に伝わらなさ」は健常時からついて回ってたことに違いないのに、罹患以後はことさら「正しく伝わらなさが怖く」なる状態なのに、執着心はそれを許さないでいます。

 

強かった期間は問題視に上がらなかった俎上に、みすみす「今、しないでいいはずの不安まで囲い出す」を開始し、手を止めれなくなる。衝動で動くことであって、ことの正否で判断ができてなさ、がもう鬱の症状そのものだ。

 

「安易で危険」は軽率から予断を許さなかった項目まで、みすみす「引き入れる」ととで、現状より一層の困難の抱え込みを予見できてる「妄想」も過分にかさ上げしてしまうんです。


本当にこの時点では「何も考えておかない」に静観させていなくては、「ろくでもない思案」に竜巻みたいな暴風雨で脳内が湧き立ってるんです。

 

周囲の賛否や正誤の観念を「病気だから」の一声で、オール・チャラにしてもらわないことには、差し支えることばかりなんです。

「しかし、僕というたかがミュージシャンが、この日本でそれを発信するとバカがバレるので、自分の思想を抽象的な表現や情景描写、定点観測をし、歌詞に混ぜ込むことしかできない。でも、それも文化の役割だと思っています」とつづった。

本当はこのタイミングでこの自虐は不毛であるしなさぬが吉なのだ。

そこを「自分は自分だから」くらいの間合いで口外に至るのもまた「症状」にあります。

「掴む」歌詞は記述の通りの思索の上で成立させるスリルが売りですが、仕組みをここで暴露しとく必要も、正確も、無用のタイミングでした。

 

「この病気を公表し音楽を続けていく事は想像より、しんどい事なのかもしれない」と胸の内を明かしています。

ですね。

そして「それ以外にありようが?」と思う時、ここが最善なことも腹の奥にあるんです。

山口さんは「鬱病には『揺り戻し』という頑張れた一日の後にケチをつける副作用が存在する。今、フェスによる『揺り戻し』の繰り返し無限ループから抜けられなくて、非常にしんどい」と上がり調子に見える一方、内面とのギャップが生じている様子を伝えています。

揺り戻しは「不調になりかけて」ハッとする際には、もうその波の起こす波紋が「始まってた後」とわかり、調子がいい時に継続しとくべきだったことが「その波紋」のうちにあるまま継続される苦悶を自身に強く不満とともに覚える時間に転換してしまいます。

 

「中途で放り出す」なるものも自身に許しきれず、周囲にもかかる迷惑を勘案できるくらいには良識があるので、「不調部分は自分だけ」の見下げを、他者以上に自分に課し出します。


ここが過酷なほど、惨めなほど、苛烈に苛ませるんです。自分のことなんで、どこまでも忌憚(きたん)なくやっつけ切れるくらい、内面の奥底までやり切れてしまう。

 

他者のことなら、手加減も塩梅も聞かせられるのに、「許し難い自分」は自分自身で隅々までわかってしまってる。

そこで「ブレーキの効かない」叱責を、自分に「ふんだん」にかませるから、底無しに落下し、回復不能まで破壊に入る。

 

そして「そうなるのが自分でわかる」なる変なメタ視は残ってるくらいにクレバーさはあり、それを恐れる、なるニュアンスは、健常者には「マッチポンプ」すぎて、説明すらしたくないものです。

「早く慣れなければ、早く新しい習慣を身につけねば」との思いから、通院や慎重な行動を心がけ、回復へ向け務めているとのこと。しかし、「どうにも沼に足を取られて、濁った泥面に浮かぶ死んだ蝉のように、いつか沈んでしまうのではないかと怯えてしまう」と心境を明かしました。

わかる。

🐼も罹患の極初期の時「ニューノーマル」に急いで達しなければ、と🐼なりの生真面目さで同じ回路の考え方に至れました。


ただ、これには罹患直後では時期尚早なのを「わからない」まんまやっちまう、から諸先生方の診断が優先されるべき地点です。

 

「外野の意見をどこまで真に受けれるか」のさじ加減がぶっ壊れてる不安も、ここに起因してますが、自身では認めたくないんです。


故に「それをしないで済ませる」回避に実は腐心して居ます。絶対、言いませんけどね。

 

「いち早く大丈夫っぽく見せれる」」に逸ってるものだから、そういう期間はこの記事の写真にあるような目つきになるのが、すごく理解できます。


表出できてる感情と、みんなが冷静に感じる目の奥の闇に落差があるんです。

これは丸々「不調」そのものの露見です。

 

山口は「小さい頃、親父がシャボン玉の中にタバコの煙を吹き込んで、煙玉を作ってくれた。輪郭がない煙に明確な境目を生み出したそれに、当時僕は手品を見た後のように驚いて笑った」と若かりしころの思い出を回想。「今自分の中に漂っている煙のような不安には輪郭がない。ただ漂っていて濃淡しかない。それは思春期の頃のように、すぐに晴れたり曇ったりするような事もない。ただ邪魔なだけ。邪魔で邪魔で仕方がない」とつづった。

彼に作詞の才覚が宿っててくれたことに感謝をしたい。

状態を罹患車当人が健常者になるべく正確に齟齬(そご)なく伝えるには、詩的表現が持つ「既存の語彙で到底足りないニュアンス」の再現性に努めることが一般人より断然有利だからだ。。

 

🐼も時折書くけれど、鬱のごく最初に「目の前のものは何かはわかるが、名前と『連結』を全くしてくれない自分の脳」に激しく嫌悪しましたし、落胆もしました。


それがいつまで続くかも分からず、怖くて、焦るみたいにブログを綴るという文章の途絶えない鍛錬に走ったのを思い出します。

 

健常者に「鬱の苦悶っぷり」を正確に伝えたところで、健常者には用のある話題でも種でもない。

それでも健常者は馬鹿みたいにそれを聞いてくるし、答えきれなさに「人一倍惨め」を覚えてる罹患中の人は、「そこ以上」に自信を落下させない機会に、ここで「真っ当に応える」でぜひ得点も稼ぎたくなってる・・」なる無明のうちにある。

 

ある意味、うつの罹患者の心象とは、例えるなら

自殺の名所で投身はすでに叶っていて、「その落下中」か「落下後」なのに、一生懸命「自分が投身したわけ」を伝えたがる。みたいなところがあります。

 

詮なきことなのに、生来の生真面目さや、誤解されたくなさが不思議と勝り、人一倍そこで「すでにたりてないリソース」を無為に投入にあてがってしまう。


そしてその衝動の根っこは「それをせねばおられない」程度の蒙昧な心象起因なのだが、そこは自身では検証にあてがえない。

そういう「マダラな温度差」で「かろうじて過ごしている」人たちなのだ。

基本的に「どうしようもなさ」を他者に迷惑かけまい、で精一杯になってる。

 

「スマホのボイスメモの中へ輪郭がないこの不安を閉じ込めるだけだ」をここの記事にわざわざ吐露する機会に当てがったのは、かろうじて「正直でいられる」姿のうちで、「わかってもらえないでしょうが、ここが最善」を気高く放てた方であると思うのです。

 

ここすら、ホントいえば言いたくないとこですから、それなりに勇気いったはずです。

 

 

総じて、🐼はこれらコラムの正直さと、現場の嘘のなさを「今・多分これが要るであろう誰かに」と、現状ですら「渡す」心意気を自身に満たす工夫に、山口さんが挑んだものと解釈しました。

 

事実、これらに勇気づけられ、発奮を起こせ、こうしてコラムに再構築させるだけの熱量を🐼は得ました。


この正確さ、この中途の「渡しにくいニュアンスの中」をもがきつつ描くという、アーティストやクリエータならではの手腕に乾杯を叫びたく思うほど仰天してるんです。

 

弱ってるなら黙ってろ、が世間一般の「王道」なんでしょうが、表現者ってものは「弱ってる最中」ですら部材にします。

「その瞬間でしか掴めないでいた」もまた、機会の一つに過ぎない、という視座が厳然とあり、その「二度はここの道には至れなさ」は稀有な体験談で「自分も忘れちまう」もんだから、刻んでおく必要があるんです。

 

自分から出たから、って覚えておけないほど「罹患時の他人っぷり」は性格も記憶量も異にしてますから、心のどこかに「しめた」ってのもある、が🐼には正直なニュアンスです。

 

それを書く気にさせてくれたのがこれらの記事でした。御礼申し上げます、ありがとうございます。

 

こうもつけ加えます。

時間がかかりますが、必ず治ります。

🐼がそうでした。

 

焦りますよね。

 

大丈夫。道があります。

ただ、時間はふんだんに使ってください。そこは譲れないんです。

性格由来の部分まで踏み込んだ調子の合わせは、自身の調子が整っててこそ、なので。