手が焼ける、って言葉はおやごさんはがお子さんを評する際に使いがちになる言葉だが、親御さんがお子さんに「手を焼かない」なる積極を示す事例は稀。
育児放棄とは気配が異なって見えるのは、樹木さんの方に意識的な、能動として「これ以外の手ほどきが思い馳せず」に親しい一貫ががうかがい知れるからだ。
当の娘本人さんの言質から推察できるのは、その「普通でなさ」が飛び抜けてると、人は早々うろたえてもいられなさに対面するのだということ。
否応のなさに常に身を置かされ、自在と言えば響きがいいが、困難さに手を貸さずの一貫ぶりが徹底の度合いを「極端」に極ふりしてる。
子供の側にしてみれば平気な訳がないし、少なからずトラウマを生じさせるほどの「異常」を覚える。
根っこに「否応のなさ」が常にある。
親子関係に普通これをねじ込む家庭はあるまい。
されど実態がここにある。
そしてひとしきりの「親子」実存の期間を経て、終了の後にも、そこの「息吹」は息づき、記憶されていた。
本木さんに対する也哉子さんの、疼(うず)くような、慟哭のような衝動めいた顕示は、そのいくつかは本来樹木さんに向けられるべきものだったと推察される。
されどそうして吐露できる伴侶を得た幸いは、吉なのかその他なのかは、この夫婦仲のうちにだけ結論があればいい。
ただ🐼は樹木さん宅に生まれ落ちないで済んだ幸いに感謝を覚えたのは本音です。