人はパンのみにて生くる者に非ず 人生はジャム。バターで決まり、レヴァーのようにペイストだ。
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無邪気だったあの頃。
僕らはきっとあの鐘の音を聞いていたんだ。
でもその時はそれが何の意味か分からずに。
だけどそれは愛の鐘の音だったんだね。

・・・ちょっと浜崎あゆみ風味のリリックを書き連ねてみたのだが、、、
愛の鐘の音と云うものは本当にある…実在するものなのである。

この「愛の鐘」と云う曲は昭和25年に毎日新聞の公募に応じる形で世に出たと云うことらしい。21世紀の町田で「時報」として定着したメロディーだ。もう10年ほど前になるが町田市成瀬でこの曲が愛ある結末をアシストしたことがあった。

相模原で女児を拉致した男が成瀬の家にて監禁する事件が起きたのだ。女児はその後、連れ出され先の茅ヶ崎で保護された。女児監禁場所が成瀬だと何故分かったか、結局はそれで犯人も逮捕されたのだが…それは女児の記憶に「愛の鐘」の音がしっかりと刻み込まれていたからだ。加えて犯人が当時成瀬に店を構えていたローカルな宅配ピザチェーン「ツーウェイピザ」から出前を取ったことも原因となった。大手ではない知らないピザ屋と云うことが女児の記憶に残っていたらしい。まさにローカルネタ尽くしの事件だったわけだが、それにしても防災無線から防犯目的も兼ねて流れるメロディーが事件解決に役立つとは、、、まさかの展開であった。

「愛の鐘」、自分自身にとってもお気に入りの曲である。先述の通り、町田では20世紀末か21世紀になって導入され、それ以前は別の曲が流されていた。流される時刻も、今は季節によって異なってくるが昔は夏も冬も夕方5時であり、通称「5時の鐘」と呼ばれていた。「5時の鐘」が外出先から戻る基準となっていた。

町田の多くの人にとって「愛の鐘」は初めて聞く曲だったのだろうが、私にとってはお馴染みの曲であり、町田で導入されたことにとても驚き、また嬉しく思ったものである。初めて「愛の鐘」に触れたのは旭川、恐らく1987年のことだ。
「ふくしま事件ちゃんねる」と云う今は福島以外の事件も取り扱っている中々マニアックなところがあるのだが、東北新幹線のトンネル内で帰省途上の10歳少女の遺体が発見されたとの中々謎めいた事件が紹介されていた。

走行中の車内から飛び降りてしまったのかと思いきや、原因は動画内でも触れられているように、子供たちは先に東北新幹線古川駅ホームに降り立ったのだが、帰省と云うことで大きな荷物を抱えていた母親がこれをうまく処置することが出来ずに中々ホームに現れない…そこで不安になった兄が車内の様子を見に戻ったところ列車が発車してしまい、妹がホームに取り残されてしまった…こう云う状況に陥ってしまったものである。そして妹は何と列車を追いかける形で線路脇を歩いてしまい…と云う経緯でこの惨事が起きてしまったわけである。

問題はこの動画のコメント欄にある。母親の兄が「新幹線のドアがもっと長く開いていれば母親も降りられたのに」と云うことを述べているわけだが、それに対する批判で渦巻いているような状況になっている。要するに自業自得だろう、他人のせいにするなと云うことである。【A】

母親がもっと早くに荷物を下ろすことをしていれば良かっただけであって、それを責任転嫁して新幹線の停車時間の短さを槍玉に挙げるなと、マァこう云うことになるわけである。こんな予想外の悲劇に見舞われて、泣き言恨み言の一つ二つ言いたくもなるよねと私は大いに同情を寄せるものであるが。

この、相手に完璧を求める姿勢こそ、日本社会を大いに疲弊させている要因となっているのは周知の通りである。少しの失敗も許されず、泣き言・恨み言の一つも言えば叩かれることになるわけで、そりゃあ出生率も下がるよね、親になることが負担にしか感じられないよねと云うことになるわけでもある。バスの運転手が水を飲んでいれば通報、消防署員がコンビニに立ち寄っていたら通報…母親や母親兄の行動言動を批判する人は如何にもそう云うことをしそうな趣である。「いや、私はそんなことはしない。どんどん水分補給してください」と反論・反発してきたところで別の場面、例えば車椅子ユーザーから上がる不平不満に対しては全力で叩き潰すであろうこと請け合いである。こうして何としてでも不平不満を抑えつけて保身、現状維持を図ろうとする…その結果が「失われた30年」であるわけだ。まさに彼らが大好きな「自業自得」「因果応報」そのものである。


【B】閑話休題。なぜこうも簡単に、単純に、母親の「失態」を責めることが出来るのだろう。まことに想像力の欠如と云うものを痛感するところである。例えばこう云った状況が考えられ得る。親子が乗車していたのは指定席車だったようだが、帰省シーズンと云うことであるから通路に立ち客が居たとしても不思議ではない。そうなると荷物を下ろすのは中々難しくもなろう。或いは通路の反対側にいた客が大きな荷物を先だって下ろし始めがために到着直前まで荷物が下ろせなかったのかもしれない。或いは子供に構っている内に存外早く古川駅に到着してしまったのかもしれない。また或いは疲労によりついつい到着直前までウトウト寝てしまっていたのかもしれない。状況も分からない中、決して単純に、母親がもっと早くに荷物への対処をしていれば良かったのだなどと切り捨てることなど出来ないのである。

「もっと停車時間が長かったなら」との言もまた的外れとは云えないものがある。【C】例えば中国の高速鉄道は大きな駅ではなくとも3分程度の停車時間を設けている。また、日本の特急に相当する在来線の直達特快列車は7-8分程度停車する。日本の在来線は基本的に最高時速130kmだが、中国の場合は160kmに達する。それでも7-8分停車する。軒並み30-45秒停車の日本の事情とは大きく異なるわけだが、【D】日本とて嘗てはもっと長時間にわたって停車していた。本件は大宮発盛岡行き列車にて発生した。東京駅はおろか上野にすら東北新幹線が達していない開業直後の出来事だったわけだ。したがって母親の中には、より緩やかに走行していた在来線特急・急行列車の感覚が濃厚に残っていた可能性もある…結果、本人の中ではあっという間に目的地に着いてしまった、あっという間に発車してしまったと云うことになったのかもしれない。

ところで本件は未解決事件ではない。未解決事件ではないのだが、ここまで述べてきた説明は、未解決事件の真相に達し得る推理をする上で重要な事柄を含んでおり、その点をうまいこと、説明しているのである。未解決事件を巡る推理には「〇〇なら△△に違いない、××であることなど有り得ない」と云った、理屈立てる場面がよく見られる。本件では【A】に相当する部分だ。しかし事件の当事者(犯人や被害者)はしばしば私たち外野の人間から見て不可解な行動に走る。けれども何らかの事情を抱えていた当事者からすれば、それは不可解でも何でもない合理的な行動なのである。本件では【B】に相当する部分となる。この部分は真相に達する上で非常に重要なところなのだが、【B】にて披露したような具体的な場面を想起する必要性がある。【A】は「マクロ的」であり、「理屈」であるのに対し、【B】は「ミクロ的」であり、より「感情」的なのだと云うことになる。当事者の立場になって「理屈」と「感情」を融合させることが真相に迫る中では重要である。

例えば私たちは泣く・涙を流すと云う現象に遭遇することがある。悲しい時に泣く。悔しい時に泣く。泣くと云うのはネガティヴな要素に彩られた行為・現象である。したがって例えば「被害者はその時泣いていたのだから悔しかったのだ。喜んでいたのなら涙は流さないはずだ」などと推理するわけである。だが…お気づきのように涙には別の要素が含まれることがある。即ち、「嬉し涙」と云う代物である。私たちはポジティヴな場面でも泣くことがあるわけである。しかし【A】にばかり捉われていると【B】は中々見えてこない。母親が荷物の処置に手間取った背景を推理したように、ここで想像力を如何に働かせられるかが重要となる。


あの「室蘭女子高生失踪事件」で被害者は、14時過ぎにパン屋の本店を訪れることになっていた。被害者はその時間に間に合うようにバスに乗り込んだ。ところがパン屋最寄りのバス停を素通りし、もはや待ち合わせ時間を過ぎていると思われるのに、パン屋から些か距離のある商業施設の中に於いて時間潰しをしているが如き行動に出た。そしてあたかも15時に間に合わせるかのような恰好で商業施設を出た。そこで【A】的に理屈立てて考えてみるならば、本当は待ち合わせ時間が14時なのではなく15時だったのではなかろうかと云うことになってくるわけである。実は最初から14時ではなく15時だったのか、或いは途中で14時から15時に変更されたと云った具合に。

しかし大事なのは【B】的な発想・想像力だ。そこで私は普段、通学の際に被害者がこのバスを始発から終点まで乗り通していることに着目した。終点まで乗っていると云うことは寝過ごす心配がないと云うことだ。したがって被害者は普段、バスの中で居眠りしているであろうことを考えた。しかしこの日は普段と勝手が違った。途中のバス停で降車しなければならない。だがいつものクセがついつい出てしまい、終点近くまで居眠りしてしまったのだろうと想像したわけである。この被害者は几帳面な性格だったと云うことだから、寝過ごしが発覚した際には「やっちまったー!」との強い念に襲われたことだろう。折角、間に合うように家を出てきたと云うのに。テンションが下がった被害者にはもう一度気持ちを作り直してテンションを上げる時間が必要だった…そこで商業施設内を特に目的もなくうろうろしていたのではあるまいか。眠気覚ましをしたい意図もあったろう。つまり、時刻変更の類はなく最初から最後まで待ち合わせ時間は14時過ぎだったと云うことである。

因みに【C】は他の事例との比較検討、【D】は当時の時代状況・時代背景から見た分析、と云うことになる。真相に迫る上で私たちは、現在の日本の事情・現在の日本人の感覚に捉われないようにしなければならない。如何に当時の当事者に寄り添って骨(=【A】)を肉付けする(【B】+【CD】)ことが出来るかが事件像を明らかにする、即ち真相を究明するために不可欠となるわけである。

川島芳子生存説、日本での盛り上がりは2008-09年だったが中国では2010年代に入っても、少なくとも10年代半ば辺りまで盛り上がりを見せていた様子である。

盛り上がりの元となる「当事者」の証言には二つあって。一つは↓の映像にも出演している愛新覚羅徳崇から発信されたもの…

そしてもう一つが「方おばあさん」説と云うことになる。徳崇説は単に一度、それらしき人と会ったことがある・見たことがあると云うだけの話なのだが方おばあさん説は実際に一緒に住んだことがあると云う密度の高い話なのである。

印象としては思ったよりも信憑性は高そうな趣(一応、「科学的」分析も成されている様子)。方おばあさんは、夏は長春郊外で過ごしているのだが(証言者との交流もこの時季)、寒さの厳しくなる冬になると浙江省にある天台宗の総本山へと移動していたとの由。ところが社会主義国あるあるで、国民は自由に旅行することが出来ない。海外は勿論のこと、国内旅行も。方おばあさんは誰かに成りすまして堂々と生活していたのではなく、隠遁生活を送っていた。そう云う無戸籍状態の人にどうやって許可が下り、許可証の類がゲット出来たのか、ここが問題点だと思われるのだが、さて。。。高台で秘書の名を叫んだとのエピソードに対しては「おいおい、そいつは盛りすぎだろ」と失笑してしまったが、この人が川島芳子ではないとして何者だったのかと云う部分にも興味が湧くところではある。
色々な人間が色々な政党を立ち上げ、色々なことを主張してきた。泡沫政党・泡沫候補がごまんと出ては消えていった。しかしその中で燦然と輝く存在がある。明らかに異色の存在なのである。口では何とでも云える。が、しかし口だけではなく、実が伴っていると云う点に於いて、だ。

先般の都知事選挙では立花孝志率いるNHK党が候補者を大量に擁立したこともあって選挙ポスター用掲示板が巨大なものとなった。その掲示板を、NHK党のポスターがぐるっと三方を塞ぐ形で占拠した。それだけでも大胆だが、候補者本人のポスターではなく党に寄付した人間が好きなポスターを貼れると云う斬新な発想によるものでもあった。同じようなデザインのポスターが一斉に貼られているさまは壮観であったが、選挙をおもちゃにした立花のやり方へ批判が相次いだものでもある。良く云えば、立花は閉ざされた公を民へと開放している。悪く云えば、それは公私混同とか私物化と云うことになる。立花の「暴挙」に対して、民主主義社会の堕落・危機のように云う人間も多く居たが、殊に清和会系政権が民の目に直接触れぬ形でやってきたことが立花の手によって遂に可視化されたに過ぎないのである。清和会系政権が政治を私物化し、政治を個人的ビジネスの対象として如何に儲けることが出来るか追求しても人々はそのさまを具体的にイメージすることが出来なかった。ゆえに批判も限定的なものに止まった。しかし今回初めて立花の手によって、私物化・ビジネス化のさまが可視化されたわけである。別に立花が神聖なる民主主義を汚したわけではない。既に汚されていたのを可視化させ気付かせたに過ぎない。

立花孝志は稀代のアーティストだなと感心させられる。NHK党を通して政治を最大限の自己表現の場にさせている。占拠された掲示板を目にし、ナムジュンパイクのようだなと思った。あの先進的・未来的なヴィデオアートに対し、こちらは古典的薫り漂う選挙ポスター掲示板。しかしそれでいてQRコードを埋めこみそこへアクセスすると妖しいサイトへと誘導される…一方的・平面的に訴え掛けるだけでない双方向性をも兼ね備える極めて現代的スペックの世界をも共存させている。超アナログにして超デジタル。ナムジュンパイクより古く、しかしナムジュンパイクより先を進んでもいる。

明らかに立花孝志は異色である。傑出した存在である。常に物議を醸し、最も検挙に近い存在であると同時に、社会を現に前進させているからである。それは他の泡沫・諸派系の政治活動をしている人間の追随を許さない。NHKが評判の悪い集金業務の外部委託を止めて縮小の方向へ舵を切ったのは立花NHK党による数々の嫌がらせによって社会的コストが上昇した賜物である。ジャニーズ問題の公然化はガーシーがカウアンを招いて配信したからだ。ここで重要なのは国会議員であるガーシーがカウアンを招いて配信したからBBCが取り上げやすい状況になったと云うことだ。それではガーシーを国会議員にしたのは誰か。立花であり、投票した「リテラシーの低いふざけた有権者」である。ガーシーは国会議員としての業務は何もしなかったが仕事は十二分にした。人権王国を標榜しながら立民や共産がまるで出来なかった大規模性被害からの救済を、立花NHK党がやってのけてしまったのだった。

このように立花NHK党は立ち位置の近い参政党や保守党とは異なり、社会を前進させる実績を少数精鋭、泡沫政党ながら残してしまったのである。そのインパクトは橋下徹や維新の会以上のものですらあるように思う。なぜなら彼らは巨大な勢力を擁しているにもかかわらず、では社会をどのように前進させ、人々をどのように救済したのだろうか。彼らの行ったことは所詮、大阪府市等の統治機構のスリム化に過ぎず、それらは人々へ痛みを強いるものでもあり、統治機構は強化されても社会を弱体化させてしまった。コロナ蔓延時の大阪の状況は酷いものであった。そのことを考えると、あれだけの少数勢力ながら舌鋒の鋭さだけに終わらずに、明確に社会を前進させる実績を伴った立花のアーティストぶりには目を見張るだけの素晴らしいものがある。

1933年と云うから川島芳子にとっては絶頂期、しかしその終わりの足音が近づきつつもある頃。絶頂期ならでは、勢いで出したレコード。流石に歌声が素人っぽいとでも申しましょか、ビミョウな塩梅で歌唱パートの分量が全体からすると少ない印象を抱く。これも苦肉の策を講じた結果、と云うところか。

川島芳子については、大日本敗戦後の1945年10月に漢奸として逮捕され(満州族の出なのだから「漢」奸もクソもないだろう…お前ら滅満興漢だったんじゃないのか、何で漢民族繁栄に協力しなければならんのだと云うツッコミを入れたくはなるがマァ「中華民族」の一員のクセに、と云うところなのだろう)、48年3月に処刑されたことになっているが生存説と云うものがあるわけである。2008年から09年にかけて結構盛り上がったものだった。

処刑されたのが替え玉だったのか本人だったのか、ポイントとなるのは「髪の長さ」。処刑された人間は肩までの髪の長さだったが川島芳子は本来、耳出しショートの断髪姿。だから替え玉だろ!と云う話になるのだが、秘書が最後に芳子を見たのが恐らく47年2月。処刑まで13か月あるから最低でも13cmは伸びる。月に1.5cm伸びるとすれば19cm。いやァ、ビミョウだ。全て耳出しショートで耳が隠れている写真は無い。但し中にはオールバック的に比較的長めのショート姿の写真もある。刈り上げ的な耳出しではなく、少し長くなった髪を耳に掛けての耳出しであったなら十分に肩まで伸びる形にはなるだろう。