人はパンのみにて生くる者に非ず 人生はジャム。バターで決まり、レヴァーのようにペイストだ。
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マァこれを眺めると日本のジャーナリストが取材対象者と距離を取らずに接近し、御用聞き的存在に堕する原因と云うものが垣間見える。対象者が凡そ合理的ではないようなことをやる。合理的説明がつかない。馬鹿なのか?それとも意図があるのか?これは対象者の懐に入らないと見えてこない。近しい関係になって対象者の言行を観察してその意図を汲むことに注力する。だから対象者と会食を何度したかと云ったようなことが誇るべき物事となる。そうやって意味のないものに意味を付与する作業を連綿と行うこととなる。対象者はしばしば後付けでジャーナリストの解釈に自己都合に応じて乗っかっていく。ここに同床異夢、もとい、どうしようもない意味の「絆」が誕生する。それは、傷の名を隠すためのものである。

これは中々凄い映像。
この手の映像は結構あるけれど
落ちた瞬間
の表情がくっきり出ているものと云うのは中々無いのではなかろうか。
人間の生死の程度は枝に依存する。猿の時代から。
原始、木造住宅は枝であった。

平成元年初場所の千代の富士ー朝潮。この翌場所に朝潮が引退するわけでこれが最後の両者の対戦となったものだが、朝潮があわや・・・と云うシーンを作りかけ、大いに善戦している。最後の、燃え尽きる前の情念の発露とでも云うか・・・。貴乃花ー小錦の最後の対戦などまさにそれで貴乃花はある時まで全く小錦には歯が立たなかったが一旦攻略してからはほぼ負けなかった。ところが両者最後の対戦となった一番では俵のところまでいっぱいいっぱいに小錦に追い詰められて辛うじて勝ちを拾ったものだった。マァそこまでの必死さはないけれども朝潮最後の勇姿を見た思いがするものである。
長野の駒ヶ根駅前のスーパーが閉店されて地元当局が焦っていることを伝える記事についてヤフーのコメント欄に寄せられた専門家のコメントにこのようなものがあった。

<駒ヶ根駅前のスーパー閉店の話だが、そもそも、乗降客数が千人を切っている駅前は駅前一等地ではなく、既に利用者の大半が通学の駅でしかなく、商業敵地ではなくなっている。かつて、綜合スーパーがあって、閉店しているというのも既に、90年代に住民の移動手段がクルマに変わってしまい、住民動線のハブではなくなっているからであって、周辺住民のためにギリギリで続けてきたという面が大きいのだろう。地域の衰退に危機感、というタイトル自体が危機感の無さ、問題の本質から目をそらした記事のように思われる。こうした中心市街地を旧に復することは不可能なのであり、従来の延長線上の支援策ではなく、周辺住民への買物難民対策として、何が出来るか、という方向に転換していくしかない。>


非常に浅い認識である。買物難民の問題ではない。地域コミュニティの問題であり、中心市街地は中心であるがゆえに地域全体の問題ともなる。これが周縁部であれば買物難民の問題で済むのだが。周縁部は廃れても自然に還るだけだが中心部はスラム化することも問題だ。

このスーパーの閉店それ自体も問題なのだがこのスーパーから回ってくる客によって辛うじて保たれてきた商店街が潰れてしまうことの方が大きな問題なのだろうなと感じる。町おこしの場面などで郊外型商業施設が戦力になることはほぼない。その主体は中心市街地の商業施設であり、とりわけ商店街・個人商店が果たす役割が大きい。要するにその地域をその地域たるものとする、その特色と云うものを生み出しているものの多くが中心部から発せられてきたのだ。この専門家のコメントと云うのはおにぎりとパンがあれば餓死することはないでしょ的な発想で食事を生命維持装置としてしか認識していないようなものだ。しかし食事の役割はそのこと以外に大きく広がり、人生を豊かにする力となっている。中心市街地のコミュニティと云うものもそれと同様の働きを持っている。有名な祭りやイヴェント、その殆どが中心市街地で展開されている。

栃木の佐野は面白い町だなと思う。中心市街地と佐野新都市、日本の、それも地方都市でここまで旧市街と新市街が分かれて、と云うよりも別れて成り立っているところも珍しい。この辺りの住人にとってみれば新都市があればそれで万事よい。文明的には不足ない。だが例えば新都市の核の一つ、プレミアムアウトレットモールを訪れる人間は佐野にやってきたのではなくたまたまそこにあるプレミアムアウトレットモールにやってきたと云う感覚。これに対して厄除け大師に代表される中心市街地を訪れた人間はより佐野にやってきたと云う感覚になる。これが中心市街地が町の顔たる所以だ。佐野には既に新都市と云う「文明」が不足なく備わっているのだからあとは中心市街地を活性化させて「文化」と云う付加価値を充足させればこの町は非常に魅力的になるだろう。かつては郊外型文明が付加価値となっていたが今やそれは車社会化=郊外化の進展によって当たり前のものとなり、翻って中心市街地の活性化が町の魅力向上にとってとても重要なものとなったのだ。まさに人はパンのみにて生くる者に非ず、だ。町もまた、パンのみにて生くる者ではない。

公開カツアゲと云うコメントには腹抱えて笑った。ははは。いや、皆さんいい笑顔しているではないか。

総理大臣の態度についてあれこれ評判が聞こえてくるが、確かにはしゃぎすぎとも媚びているとも受け取れるものだ。が、しかし、私はあの滲み出る奮闘ぶりと云う方を大いに買いたい。あの人はあんなキャラではないだろうに。靖国参拝さえしなければ日本は優位な立場になれるのだから現実路線でお願いしたい、そう云う観点からすれば対米従属と云う現実に沿って最大限の現実的対応をしたのだからこれは評価しなくてはならない。表面上だけカッコつけて対等感を過剰に演出してそれで自己満足得られてもどうにもならない。殊にこの大統領は個人的感情をダイレクトに政策に反映させるわけで国民生活の安寧を鑑みると如何に感情を拗らせないように応対するかポイントとなる。左派からの批判は理想論でありその先の展望がない。しかしこれは同様に総理大臣が仮に靖国参拝を見送ったとして、右派も同様に振舞わなければならない。そうでなければこの奮闘が無に帰すこととなるからである。