柏木むつきです。
(YOUKYOUカフェに込めた想いはこちらです)
5年前に書いた記事↓
先日来た卒業生からのメール。
「保健室で、特段何かをしてほしい訳じゃなかった」
「やり場のない気持ちとか、悔しさをただ聞いてくれるだけで良かった」
「ただそこに、先生がいるだけで良かった」
「だからみんな、保健室では“素”でいられたんだね」
そんなことを言われました。
こういわれると、私たち(養護教諭)は嬉しい。
自分たちの存在意義を実感できる言葉だから。
「先生と話すと安心する」
「保健室ってやっぱり落ち着く」
そういう言葉は、
時に不安で、
時に葛藤して、
時にもがいている私たち(養護教諭)には、
本当に嬉しい言葉。
安心する。
やってて良かった、
間違ってなかった、って安心する。
正直なことを書くと、
働き始めの私もそうでした。
でも。
あえて書くのであれば、
その「安心」は果たして本物だろうか…?
本来、学校という場所が安心感を伴うものであってほしいのですが、
昨今の状況では正直必ずしも安心感を抱ける状態ではありません。
でも、だからといって、
保健室「だけ」がそんな場所で良いとも限らない。
養護教諭「だけ」がそんな存在で良いわけではありません。
「安心」は保健室の専売特許ではないのです。
そこを養護教諭自身が間違えてしまうと…
途端に養護教諭自身が「不安」になってしまいます。
5年前も書いていましたが、今でも同じように考えます。
「安心」は保健室の専売特許では本来はないのが理想。
私たち(養護教諭)が子どもたちの言葉で「安心」しているのであれば、
それはもしかしたら「条件付き」の安心かもしれません。
その言葉や実感がないと安心できない(不安になる)のであれば、
それは、養護教諭自身が不安な状態がベースにあるのかもしれません。
(この話はまた別の機会に)
保健室の「安心」を解放する。
それは「安心」が減るのではなく、
むしろ「安心」が増えることなのではないか。
私はそんな風に考えています。
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