続・目には見えないけれど「ある」もの。 | 「自分のままで“養護教諭”になる」YOUKYOUカフェ・柏木むつき

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【保存版】養護教諭シリーズ

 

 

以前、こんな記事を書きました↓

 

「養護教諭の専門性」。

「「養護」とは何か」。

業界にいれば何度も聞くこの言葉。

きっと大学時代から耳にタコができるくらい聞いてきたと思います。

私もその一人。

そして、答えが出ずにもがいていた一人です。

 

 

私は、上記の問いについて追求すればするほど、

その本当の答えというものは手の中からするりとこぼれてしまう。

そんな風に思っている部分があります。

 

専門性を定義しようとすればするほど、

本当は求めているものがどんどん見えなくなってしまう。

定義することで、そこからこぼれてしまうものの中に大切なものがあるかもしれない。

そう考えているからです。

 

 

もちろん、

定義しようと一生懸命研究されていらっしゃる素晴らしい研究者の方は大勢いらっしゃいます。

その方たちがいらっしゃるおかげで、発展していった歴史的事実もあります。

だから決してその事実自体を否定はしません。

 

これ、4年前に書いた記事。

確かに「答え」が出ることは大事で

(同じく「定義」があることも大事で)

その前提において「答え」を出そうと必死になっていた時もあるけれど。

 

絶対的な答えがあることで、

そこに到達することだけに躍起になったり、

そこに到達さえすればいいと思ってしまったり

(それは逆に「到達できない」という状況を悲嘆してしまうことにもなる)、

もしもそういう側面があるのだとすれば、

私は、「答え」を出すことにこだわらなくてもいいのだとも思うのです。

 

そしてそれは決して、

「答え」を求めることから逃げたり、

「答え」と向き合うことを避けたり、

そういうことではなく、

真摯に対峙するからこそ、そこに「ある」のだとも思うのです。

目に見えるものだけを「ある」ものとしてしまうのではなく、

目には見えないけれど「ある」ものに目を向けたとき、

きっとそこに自分を解放するヒントがあるのだと思います。

以前の記事では上記のようなことを書いたけれど、

たとえば「何か」と「何か」のあいだに、線を引く。

線を引くことで「答え」が見つかるかもしれない。

それはきっとある時には大事なことなんだろうけれど、

他方で、線を引くことで文字通り「何か」と「何か」は分断されることもあるから。

「線を引くこと」が「答え」だと思ってしまう時が時にはあるから。

 

「線を引くこと」によって、

お互いの「理解」ではなく「無理解」につながってしまうのであれば、

その「線」は引かない方が良い場合も時にはあると思うのです。

その「線」を引くことに躍起になって、

その「線」の向こうを排除してしまうのであれば、

その「線」があることで見えなくなってしまうものもある。

「線を引くこと」で見たいものがあったはずなのに。

「線を引くこと」で見えるものがあったはずなのに。

それでは本末転倒なのだろうと思うのです。

 

 

4年後の今も私は、「答え」が出ずにいます。

でも、だからといって、

「停滞」しているわけではない。

そんな風にも今は思えています。

 


(すっかり黄色〜)

 

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