先日、関ケ原町ふれあいセンターで、私の講演「直虎以後の物語~井伊直政と関ケ原」の終了後、地元の方との懇談の場が設けられました。街角案内ボランティア協会(3人)、歴史を語る会(3人)、史跡ボランティアガイド(5人)、関ケ原古戦場保存会(4人)、のろしの会(3人)と観光協会(3人)、関ケ原町歴史民俗資料館(1人)の計22名でした。

日ごろ、ボランティアガイドがお客さんから尋ねられることがらについての質問が多かったのですが、私自身、勉強になる話もありました。たとえば、宇喜多秀家の陣所である南天満山に喰い違い虎口や土塁・空堀があるという指摘です。これまで、「松尾山が城だった」といわれてきましたが、南天満山も、9月14日以前から普請が進められていた可能性があります。

現在、岐阜県と関ケ原町が一体となり、ビジターセンター(仮称)の具体化が進んでいますが、地元の方々の地元ならではの研究成果も生かせるような施設にできればとの思いを強くしました。

松本城は案内役としていくことが多いので、どうしても天守中心になってしまいますが、先日、松本市で講演があり、翌日、一人で周辺を歩いてきました。雪景色の松本城が見られるかと思いましたが、雪は道路脇に寄せられ、雪景色ではありませんでした。

城下町の随所に総堀の遺構が残っていることは本にも書かれていますので、古い絵図のコピーを持って、その痕跡を探しました。これまで気がつかなかった食い違い路などを見つけ、写真に撮りました。

松本だと、私の定番は岩波酒造合資会社(松本市里山辺)の「岩波」でしたが、今回、地元の人に勧められ、大雪渓酒造株式会社(北安曇郡池田町)の「大雪渓」と、大信州酒造株式会社(松本市島立)の「大信州」を呑んできました。

今川義元所持で、永禄3年(1560)5月19日の桶狭間の戦いのときも佩いていたことで知られ、「義元左文字」の名があります。以前の所有者が三好宗三(政長)だったところから、「宗三左文字」ともいわれています。

三好宗三→武田信虎→今川義元と伝わり、桶狭間の戦いで義元を討った織田信長の手に渡り、信長はその記念に、茎(なかご)に「織田尾張守信長 永禄三年五月十九日 義元討捕刻彼所持刀」と金象嵌を入れています。その後、信長→豊臣秀吉→(秀頼)→徳川家康と天下人の所持した名刀として、現在は京都の建勲神社の所持で国の重要文化財になっています。

実は、この「義元左文字」、現在のものは、義元の佩刀だったときのものより少し短くなっているのです。本来、2尺6寸(78.8㎝)だったものを、信長が磨り上げて2尺2寸1分(67㎝)にしているのです。また、江戸時代、明暦3年(1657)の明暦の大火で焼けたあと、再刀したため、刃文も消えています。

「義元が佩いていたときの元の姿を再現したい」ということで復元プロジェクトがたちあがり、春風亭昇太師匠を名誉会長に、私が名誉顧問となって、富士市在住の刀匠内田義基さんの富士宮市の工房で、その作業がはじまり、昇太師匠、それに私が槌入れ式に参列してきました。刀鍛冶の工房に入るのは初めてで、しかも、槌を持たせてもらい、玉鋼を最初に打つという滅多にない体験をさせてもらいました。来年5月の完成をめざしています(静岡新聞2月9日付朝刊に掲載されています)。