N氏のブログ

尾鷲弁
○オートッチョー どいらい魚やなぁ・・・(びっくりして)すごく大きな魚だね

○そいで、たんらい ・・・・・・・ それでたりるよ

○これ どーどな ・・・・・・・・ これどうですか

○おきー いたで ・・・・・・・・ 漁にいったよ

○まあ はけてしもたよ ・・・・・・・ 売れてしまつたよ

○どこどなー ・・・・・・・・・ どこですか

○なんどれー 雨じゃげー ・・・・・・・・ なんだ、雨だね

○はよしょーらい ・・・・・・・・ はやくしましょう

○カスばっかじゃな ・・・・・・・・ からばっかりだね

○ハマ ・・・・・・・・ 魚市場・魚河岸

尾鷲弁はいっけん荒いように思いますが、ニュアンスや内容を合わせる

と、とても温かみのある素敵な言葉です。

ナマの尾鷲弁を体験するには地元の人達とお話するのが一番。

暖かい人情にも触れられ、貴方もきっと尾鷲が好きになるはずです音譜

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妙見様の百度石

尾鷲市北浦町の妙見寺の裏に、小さな百度石が建っている。
明治5年(1872年)6月、尾陽(尾州・愛知県)勢田宿の平野貴盛の奉納したものである。
明治5年というと壬申(じんしん)戸籍のできた年で、日本が近代国家へと歩みはじめたばかりである。
百度参りというのは、種々の願いをかけ、それを神仏に聞き届けてもらうため、百回のお参りをするということだが、社寺の本堂や拝殿にお参りすり基点に建てられるのが百度石である。
この百度石から二百二段に石段を登ると、妙見尊が安置されている。
妙見様は星の信仰で、特に北極星の化神ということから、集落の北に祭られた。
また、里人が精神異常になったような場合、昔は、物の怪(け)がついたと信じられ、その怪を追い払うため妙見様が祈願された。
ここの妙見堂内には八大龍王や七面天女も祭られ、寛延2年(1749年)の寄進された灯ろうの灯身が残っている。
妙見様への百度参りは、中世から江戸時代が最盛で、百度石が建立された明治5年は、むしろ百度参りの終末期に近い。
真夜中に五寸釘を打って相手を呪い殺すという丑の刻参りのような残忍さは、この百度参りにはない。
夫や娘というような身近な人のの病気全快を祈願して、ひたすら百度参りを続けるのである。
みな素足で、二百二の石段を一歩一歩と踏みしめ、上がっては下り百回往復する。
この労苦は大変なもので、神仏でなくとも、この願いを聞き届けてあげたいと思うのは人情だろう。
また時に百度石の前に、たくさんの里人が集まることもあった。
長い日照りに田畑が乾いたとき、雨ごいの祈願を八大龍王にささげるためであった。
種々の願いを、この百度石は見守ったことであろう。
参考資料 ふるさとの石造物より

せんこ(線香)車

せんこ(線香)車

江戸時代の尾鷲林業は、杉と桧の割合が8対2と杉が圧倒的で、桧の割合の多くなるのは幕末期からです。
杉の葉は線香の材料となりましたので、葉を臼で搗いて粉にしたのを杉葉粉(すきばこ)と云い、尾鷲産のものは良質で江戸表(えどおもて)でも評判が良かったようです。
現在は矢浜岡崎町ですが、国道42号線沿いでは矢浜の最も南にあたる小字が樋ノ口です。
江戸時代、ここに土井本家の「せんこ車」があって、盛んに線香の原料にする杉葉粉を作っていました。
せんこ車とは水車を利用した線香工場でしたが、大正15(1926)年に火災が生じて全焼したので廃業となりました。
真砂地区にも「せんこ車」がありましたが、水車をまわすための水の使用に対して、藩に納める租税ではなく、水役金(すいえききん)という使用料を矢浜村に納めました。
この水役金は村固有の収入で、現在で云う「自主財源」として活用されました。
天保4(1833)年の矢浜村の勘定帳では、水車の所有は樋ノ口のものが玉置元右衛門氏、真砂のものが浜中屋見世土井忠兵衛氏となっていますが、幕末になって土井本家の経営に移りました。
この他、林浦座ノ上(中川の電源放水口辺り)にも、土井宗蔵氏の経営するものがありました。
雨が多くて水量の豊富な尾鷲、傾斜のある多くの谷筋のある尾鷲地方ならではの産業でもあったものと思われます。

参考資料 おわせふるさとガイドの会

在 蔵

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江戸時代に災害や食べ物の飢餓などがあった場合に備えて、平時から救合米として籾のついた米を貯蔵していた大切な蔵だったところです。
籾米のまま保存したのは、変質を防ぎ味も保つためです。
現在風にいえば防災備蓄倉庫です。
高く堅牢な石垣の上に立てられているのは、ここは瀬木山の西の裾近くにあたり、熊野街道が自動車道に改修されたときに、西側を削り取り低くしたためです。
参考資料:おわせふるさとガイドの会

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第26回全国尾鷲節コンクール

第26回全国尾鷲節コンクール
昭和六十年から続いております全国尾鷲節コンクールが26回目を迎えます。

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開催日    平成23年11月12日(土)・13日(

開催場所   尾鷲市民文化会館

受付時間  12日(土)午前10:45~11:45  13日(日)午前8:00~8:45 


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元共同井戸(地下の井戸)

野地町3街区の南東角に、今日では個人の所有になって保存されていますが、昔の庶民生活の一端をしのばせる貴重な共同井戸が残っています。
余談となりますが、このあたりは、昔は野地村に属し小字を野地立町と呼んでいました。
野地村には、大阪夏の陣「元和元【1615】年5月」で破れて落ち延び、住み着いた真田一族の落ち武者がいたようです。
彼らは、石積みのなどの技術に優れていたようで、堅牢な「真田堤」の構築や「真田井戸」と呼ばれている井戸の堀削などの実績を残されましたが、上水道の普及に伴い、残されて外から見ることのできるものは今はなくなり誠に残念です。
戦いに破れたこの一族の悔しさ、残念さは計り知れませんが、彼らのその後の生活を安定させることができたのものとすれば、誠に幸いなとである。
真田堤は、北川の大曲りの元小字「野地新町」(現 栄町)側にあって、上流からの激しい流れを支えてきた石垣績の堤ですが、今はコンクリートの中に眠っているものと思います。
参考資料:おわせふるさとガイドの会
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