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熊野古道沿いの昔の人々の生活

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ガスや電気のない昔の人々の生活は大変でした。
スギの葉やヒノキ、雑木の枝などでたきぎを、ウバメガシで炭を作って燃料にしていました。
また、灯りにはクジラの油や菜種などから採る植物油などが使われました。
このように生活に必要な物は全て海や山の恵みを利用していたのです。
旅人や熊野三山へお参りする人達はの休憩場所である「峠の茶屋」でも、その土地の恵みが店先に並びました。
お茶やお餅、旅人に必要なわらじ、わら草履なども売られていたようです。
熊野古道沿いには大きな宿場は少なかったゆですが、貧しい巡礼者たちが無料で宿泊できる「善根宿」と言われる宿場があちこちにあったようです。
資料 なるほど!東紀州シリーズ③より

熊野古道

熊野古道 元来、「くま」とは神の古語、「くまの」とは神聖な地を意味します。
緑深い山々、あたたかな海に迫る辺境の地の聖地。
そこは古くからの人々の憧れの地でした。
熊野古道は、平安後期、熊野三山を目指す「巡礼みち」として発達しました。
熊野三山とは熊野本宮大社、熊野那智大社、熊野速玉大社をあわせた呼び名です。
速玉大社は「過去の業」を、那智大社は、「現在の業」を、本宮大社は「未来の御利益」を願うものとされています。
熊野三山は、身分や性別、病気等にこだわらず、何人も受け入れる解放的な神社でした。
次第に伊勢神宮参拝後の熊野詣りが定着していき、文政年間には一年間に、二万余人の往来者で賑わうほどで、「蟻の熊野詣」とよばれるほどブームを巻き起こしています。
しかし、熊野古道は東紀州でも有数の難所と呼ばれる峠道が多く、その中でも最大難所といわれたのが「八鬼山」です。
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当時、山賊や狼まで出没したといわれています。
そんな危険に身をさらしてまでも、こんな道を往った人々の思いが偲ばれます。
尾鷲倶楽部より

尾鷲 中川流域

尾鷲市内で流れる川が3本あり、北側の北川と南側の矢ノ川の中間にあるので中川(なかご)の名前がつけられたものと思われます。
漢字が「中と川」なので、今の人たちはナカガワともいいますが、昔からの尾鷲人はナカゴと呼んでいるそうです。
コやゴは水や川を意味する古い言葉だとされていますので、ナカゴやヤノコと言って不思議ではないと思います。
一番奥の源流は小原野の奥ですが、川岸には水路トロッコ道がありました。
参考資料 おわせふるさとガイドの会


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尾鷲のモザイク壁画

尾鷲節おどり・ヤーヤ祭り・大敷(定置網)・一本釣りの様子が、海岸道路の西側にある高潮対策の防潮堤に描かれています。
これは、平成3(1986)年に、前年の八幡大橋から希望通りまでの240メートルにわたる歩道整備完成に一環として、防潮堤の化粧直しも行われ、その時に描かれたものです。

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参考資料 おわせふるさとガイドの会


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歩きやすく安全安心な熊野古道

紀州藩は、旅人の安全に随分気を配ってきたようです。
そのことは勿論、自分たちの圏内見回りにも役立ったわけですが・・・。
たてば、道幅ですが、駕籠を担いで斜めの体制で登り下りしても支障のないだけ十分な巾として、1間以上の確保を浦村に指示していたようで、尾鷲組で順検使が来るとなると、事前に「間竿(ケンザオ)」といって1間以上の長さがある竿を使って、道幅をチェックしています。
お蔭で、世界遺産に登録されている熊野古道は、広幅で安全です。
敷き詰めた石畳にも段差が少なく、傾斜道になっているのでバランスのとれた歩行ができ、自然に前かがみの姿勢がとれている。
一里塚も物の値段や駕籠の運賃などに不安定をきたさないように、地域差の生じないようにと規制したようですし、旅の疲れを防ぐために石畳の両側には並木の保全をしてきたようです。
しかし、明治になって体制がかわると、並木の多くは経済優先・利益追求で伐られてしまったとのことです。
参考資料 おわせふるさとガイドの会
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熊野古道伊勢路馬越峠