天下の奇祭「尾鷲ヤーヤ祭り」 2月1日月曜から始まるでぇ~!!
尾鷲神社の祭礼「ヤーヤ祭り」は2月1日から5日まで開催されます!!
尾鷲市民の思い入れの強い独特の祭りです。
ヤーヤの由来は、祭礼期間中毎夜各町の若者衆が、町を練る行事「ヤーヤ」が、
通称となったもので、この「ヤーヤ」の名称は戦国時代武士の立合いの名乗り
(ヤーヤ吾こそは、-----)に由来するといわれています。
尾鷲神社の氏子である20町(昔の町割りによる旧町)から、祷務町3つが
その年の一連の神事を執り行い、そほかの町は手伝い町として男達が荒らしく
押し合う「練り」に参加します。
これはいわば「合戦」。2日~4日の夜、道の両端に家来(やらい)を組んだ
祷務町内それぞれで行われます。
そして練りが済んだあとは神社にお参り。その前に祷務町の役をもつ人が身を
清める意味で、裸で真冬の海に飛び込む「垢離かき(こうりかき)」もまたヤーヤー
の醍醐味です。
そして最終日5日は子供や町の人が参加する宮上がりの大名行列や、
古式にのっとった「弓射の儀」、お獅子がお出ましになり豊凶を占う神事など、
ヤーヤの行事は多岐にわたり町が盛り上がります。
まさに世代を越えて尾鷲パワーが集結する祭り、是非尾鷲に来てください。!!
ヤーヤ祭りの「練り」
尾鷲ヤーヤ祭りがはじまると、酒と云えば、やっぱり「清酒ヤーヤ」飲もらい
地元「堀畑商店」にて好評販売中!!☎0597-22-0514までどうぞ
自然美まとう逸品 「尾鷲わっぱ」
「尾鷲わっぱ」とは?江戸時代から尾鷲地方の良質な檜を用いて作られ、
主に山林で伐採をする人たちの弁当箱として使われてきました。
夏でも食品が傷みにくく、冬は、冷めにくいという尾鷲わっぱは、山から転がり
落としても、壊れないほど丈夫にできていて、また使い込むほど尾鷲檜の木目や
色彩がさえ独特の趣を醸し出します。
現在 三重県伝統工芸品に指定され、技術と伝統を世古効史さんが守りぬいております。
創業は、明治20年(1887)で、ひいおじいさんの頃から。現在で四代目です。
店の名前は「ぬし熊」初代の名前の一文字に「熊」がついたのと「ぬし」とは塗り師の事で「ぬし熊」と言います。
尾鷲わっぱの製造は、材料の桧をわっぱの寸法に合わせて切り取り、薄く削り、湯につけてから、
熱いうちに丸く曲げ、乾燥させて、桜の皮で閉じます。漆を何度もすり込み、塗るといった作業が45工程あります。わっぱの側面に使う桧は 板面の上質な部分だけで 木の根元だった方を合わせ目の外側にするなど
木の性質をいかしたつくりになっています。漆も にかわなど混ぜ物は使いません。このように「尾鷲わっぱ」は
天然の素材と職人の技が生み出したものなのです。
ぬし熊さんは、古くからお櫃やおぼんなども製作しておりますが、やはりお櫃に炊きたてのご飯をいれて、さましてから、いただくとお米本来の味じが、味わうことができます。
昔からわっぱご飯は、おいしと言われていますが、科学的に調べたわけではないですが、桧の殺菌効果と漆の
成分がうまくかみ合っているのと、わっぱの形がうまく蒸気を外にゆっくりと出してくれのだと思います。
その証拠に昔からお櫃に入れたご飯は腐りにくく、べたつきません。「尾鷲わっぱ」は、すべてが天然素材でできている為、100年以上もつといわれています。
「尾鷲わっぱ」は一生使えるものですが、長く使用していると漆もはげて、薄くなってくるので、塗りなおすと新品になり,より丈夫になります。
地元のお客様が、おじいさんが使っていたものを、漆の塗り替えを依頼していただく事が、たいへん多い様です。
「尾鷲わっぱ」は、お櫃、おぼんだけではなく、ワインクーラー・花器・マグカップ・コーヒー茶碗・夫婦湯呑・酒器セット・箸等製作販売をしています。特に今、年の初めに、「箸に始まり箸に終わると」云われがあり、神戸のお客様が、出世箸(尾鷲わっぱ)と云う事で、毎年、買われるお客様があるそうです。
漆を使った箸は滑りやすいという方は、現在、ぬし熊さんで製作中の滑りにくい箸の製作中、
この箸を使って、受験に滑らない箸になればと思いますが、いかがでしょうか?余談ですが、
良い漆を使った製品は、火であぶった時に燃えにくそうです。
実際、ぬし熊さんで箸で、実演してもらいましたが、本当に燃えにくかった。 驚き!
「尾鷲わっぱ」の材質/ 尾鷲ヒノキ 本漆を使用しています。
尾鷲わっぱ漆器製造販売 ぬし熊 ☎0597-22-9960 http://www.nushikuma.jp
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「私にとって尾鷲は、少年時代の夢の藎きない、パラダイスでした。」 別当薫
昨日、尾鷲市営野球場に子供とキャチボールをしに行きました。
別当薫記念碑の見て、別当薫さんのゆかりの地だと驚きました。
私も、中学校時代に軟式野球をしていました。
ポジションは、キャチャーで、プロ野球の選手にあこがれを抱き、将来プロになりたい野球少年の一人でした。
その当時から、父から、往年の選手の話をよく聞かされていた選手の一人が、別当薫さんでした。
若い人には、「別当薫って誰ですか?」と言われそうですが、戦後のプロ」野球ファンなら、
誰でも知っている有名な選手です。
赤バットの「川上」、物干し竿の「藤村」、貴公子の「別当」と騒がれ、当時のプロ野球のスターでした。
現在のイチロウ選手、松井選手と言ったところでしょうか。
別当薫さんの父は、尾鷲の出身で材木商を営んでいました。別当薫さんは、現役時代には忙しくて、
めったに尾鷲に来られなかったのですが、監督を辞められてから一年ごとに尾鷲に訪れ、
酒は飲まなかったのですが旧友と親交を重ねられました。父の故郷の尾鷲が大好きで、この碑の言葉
「私にとって尾鷲は、少年時代の夢の藎きない、パラダイスでした。」がそれをよく物語っています。
別当さんは、兵庫県西宮市に生まれ、向陽中、慶応義塾大学と進み、六大学野球・ノンプロの全(オール)大阪からプロ野球の道に入り、数々の記録を打ち立てました。主な成績は最多安打・本塁打王・打点王・最優秀選手賞・各1回。ベストナイン6回、昭和25年(1950)プロ野球初の打率3割、30本塁打、30盗塁を達成、阪神タイガース、毎日オリオンズ、近鉄バファローズ、大洋ホエールズ、広島カープの監督として腕をふるいました。
昭和63年(1988)野球殿堂入り。 引退後は中国にも野球の指導に行かれ、国際親善にも尽力されました。
平成11年(1999)4月、心不全のため亡くなりました。享年79歳
記念碑は、別当さんが亡くなった年、平成11年12月、尾鷲の有志の方々が中心となり、
記念碑建立の呼びかけに多くの方々が賛同して、その寄付金により完成したものです。(寄付金736万円 1047名)
「別当薫記念碑」は花崗斑岩で囲んだ土塚の芝生の上に設置されている。別当薫選手が、バッターボックスに立った全身像を中心にして、向かって、左側の石製(研磨)「記念碑」には、別当 薫 記念碑 長島茂雄 書
板碑には、「私にとって尾鷲は、少年時代の夢の藎きない、パラダイスでした。」別当薫 資料提供 浜口禎也氏
尾鷲に立ち寄ってみてはいかがでしょうか?また、尾鷲は温暖な気候の町で、冬にスポーツ合宿に持ってこいの場所です。機会があれば、是非来てみませんか?
![N氏のブログ](https://stat.ameba.jp/user_images/20100122/17/owase-enushi/b6/32/j/t02200293_0300039910384886036.jpg?caw=800)
![N氏のブログ](https://stat.ameba.jp/user_images/20100112/18/owase-enushi/a1/cf/j/t02200165_0492036910373598381.jpg?caw=800)