こだわりのつっこみ -4ページ目

こだわりのつっこみ

素人が音楽、小説、映画などを自己中心的に語ります。

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 わたしはまだ、何かを心から悲しんだり憎んだりすることがない。だから、悲しみや憎しみがどんな思い出になるのかも、よくわかっていない。漠然とだが、どういうことに立ち向かっていくのはもっと先のことだろうと思っていた。
 できればこのまま若く、世間の荒波にもまれず、静かに生活していきたいが、そういう訳にもいかないだろう。それなりの苦労は覚悟しているつもりだ。わたしは、いっぱしの人間として、いっぱしの人生を生きてみたい。できるだけ皮膚を厚くして、何があっても耐えていける人間になりたい。
 将来の夢、というのや、人生をかける恋、など、何も思い描けなくても、そういう望みのようなものだけはうっすらとあるのだった。
(p49より)

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あとから芥川賞受賞作品だったことを知りました。
青山七恵さんのひとり日和です。

まずはあらすじ

主人公の三田知寿は、離婚したと埼玉で2人暮らし。
高校を卒業していた知寿はアルバイトを転々としながら暮らしていましたが、国語教師である母が先生同士の交換留学というもので中国に行くことになりました。
当然知寿も中国へ行かないかと誘われますが、東京に行きたいということで、断ります。

大学への進学は考えず、かといって物価も家賃も高い東京での生活も送れるのかは定かではありません。
そういう知寿に母は、東京にいる親戚のおばさんがいるのでその人の家に厄介になりなさいと言い、知寿もしぶしぶながら従うことに。

さて、母と別れて東京の親戚のおばさんの家へとやってきた知寿。
親戚のおばさんといっても、もう70歳くらいのおばあさん。
その親戚のおばあさん荻野吟子との生活を通じて、知寿は少しずつ成長していくという物語です。


では以下はネタバレを含む個人的な感想なので、いやな方は見ないで下さい。










ひとり日和/青山 七恵
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~1回目 2011.5.10~

さて、あらすじの続きです。

惰性で付き合っていた陽平との関係も終わり、春から知寿はコンパニオンのバイトと駅のキオスクでのバイトを始めます。
かたやおばあさんである吟子は、社交ダンスを習い、ホースケさんという仲良しのおじいさんとも良い関係。
知寿はかなり性格がひねくれていて、それでいてその自分のことを客観的に分かっている女の子。
ホースケさんと仲良しで、おしゃれもする吟子に毒づいたり、軽い対抗感を示したりします。

さて、そんな知寿も新たな恋をします。
駅でバイトとして働いている藤田君
徐々に親密になり恋人に。さらにはホースケさんも交え吟子の家で4人で食事したりすることもしばしば。

恋にバイトに順調だった知寿ですが、秋になると藤田君の様子がおかしくなります。
前の彼氏である陽平と同じように、「惰性」という言葉がちらつきますが、知寿は藤田君のことが好きで、関係を終わらせたくないと思っています。
しかし、終わりの決定打になる出来事が。
それは、藤田君のバイトに、糸井というかわいらしい女の子が来るのです。
イトちゃんと呼ばれている彼女は、知寿と藤田君の関係を知っていながらも気さくに3人で遊びに行ったり、ご飯を誘ったりします。

自分に対する接し方、そしてイトちゃんに対する接し方を目の当たりにし、次第に知寿は恋の終わりを感じることになり、事実藤田君は知寿に別れを告げることになるのです。
藤田君が実際にイトちゃんと新たな関係になるかどうかは分からないにしろ、未練が残る知寿はすぐにキオスクのバイトを辞め、池袋にある会社の事務員としてアルバイトすることにしました。

そして年末になり、母親が日本に帰ってきます。
すると母親は求婚されていることを告白し、さらに年が明けると知寿自身も正社員にならないかと言われ、段々と知寿を取り巻く環境が変わってきます。
正社員になるということは、吟子の家から出るということ。

吟子との生活、ホースケさんも含めた3人での食事も慣れてきてある種の安心感をもっていた知寿ですが、「ひとりになってみたい」というわずかにある気持ち、そしてここで居座ることで何も知らないままに一生を終えてしまうということを思い、吟子の家を出ることにするのでした。

感想です。

まず面白かった点は、すごく描写や表現が上手いなぁと思ったところです。
具体的な名場面や名台詞が満載だったということではなく、全体を取り巻く描写が非常に新鮮でした。

もちろん、名台詞もいくつか吟子の口から出てきます。

「吟子さん、外の世界って、厳しいんだろうね。あたしなんか、すぐ落ちこぼれちゃうんだろうね」
「世界に外も中もないのよ。この世は一つしかないでしょ」
(p162)

みたいな。

あとは藤田君との最初の会話の場面、売り物のガムを押し付けて藤田君にあげちゃう感じが幼女のようでほほえましかったです。

ただ、主人公や周りの人々の感情がたくさん描写されているにもかかわらず、どうしても好きになれません
知寿がひねくれていて、先述の藤田君との最初の会話の場面以外は全然かわいくないし、藤田君も結局すぐに知寿に飽きちゃう感じだし。
吟子さんも、名台詞を吐く場面で無言ってことが多いし、ホースケさんもいまいち素性が分からないし。

これが私小説なのか、まったくの創作かは分かりませんが、いずれにしても人物描写があまりにも薄っぺらいといいましょうか。。。

例えば、冒頭で母親と駅で別れる場面があります。

「迷惑じゃないところに移動しようとして母の腕に触れたら、彼女ははっと身を固くした」(p6)


なんていう意味深な文言が出てきます。
これで知寿と母親の関係が微妙なんだということが分かり、さらに母親の方が知寿に対して遠慮というか距離を持ちたいのかなはてなマークということを感じます。
が、読み進めるうちに、知寿の方がなんだか母親に距離をつくろうとしている感じが随所に見られ、むしろ母親は母親らしい心配をしてくれていることを感じました。
となると、この冒頭の文章は何なんでしょうはてなマークはてなマーク
こういう場面が随所に出てきて、最後まで感情移入というか、理解がしづらかったです。

そして、結局この作品は前向きになっていくようでいて、実はすごく後ろ向きなんじゃないかなという風に感じてしまいました。
確かに、知寿は吟子の家を出るときに、今までためておいた思い出箱を壊します。
思い出箱というのは、知寿の癖で何かちょいとしたものを盗んで、自分のものにしてしまい、それをためておく箱の事です(まあその行為自体もちょっといただけないんだけど)。
これによって、過去との決別を示唆していると思うんですがしかし、春から正社員として働き始めた最後の章では、不倫をしていることになっています。

それ自体に文句はないんですが、この文章

「見込みがなくても、終わりが見えていても、なんだって始めるのは自由だ。もうすぐ春なのだから、少しくらい無責任になっても、許してあげよう」(p166)

には解せない。
春だから自分を許すという、軽い遊び心。全然1年前と変わっていないじゃん!!
この主人公は吟子と暮らしたことで何が変わったわけでもなく、相変わらず自分本位で無責任な人なのですね、ということになりゃしませんか。

吟子さんの家が駅のプラットホームが見える位置に立っており、それが小説の中では効果的に使われるのですが、最後の文章では、

「電車は少しもスピードをゆるめずに、誰かが待つ駅へとわたしを運んでいく。」(p169)

とあります。
これを一見すると、なんか初々しい新たな出会いなり人間的な成長を感じさせますが、しかし電車って決められたレールを、周期的に定時に回っているだけとも言えます。
結局、この知寿は大きく羽ばたくことがない、決められたコースをたどっていく、という比喩なのでしょうか?というくらいにまで妄想してしまいました汗


総合評価:★☆
読みやすさ:★★★★
キャラ:★★
読み返したい度:
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 父はまた添付して、世に出て身を立てる穢多の子の秘訣――ただ一つの希望、ただ一つの方法、それは身の素性を隠すより外にない、「たとえいかなる目を見ようと、いかなる人に邂逅おうと決してそれは自白けるな、一旦の憤怒悲哀にこの戒めを忘れたら、その時こそ社会から捨てられたものと思え。」こう父は教えたのである。
 一生の秘訣とはこの通り簡単なものであった。「隠せ。」
(p16-17より)

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今回は、古典的作品、島崎藤村の破戒です。
様々な論議を読んだ作品なので、詳しい評論は専門家に譲るとして、独善的なつっこみは続けます。
刊行されたのは今から100年以上前の1906年(明治39)。
一言でいうと、この明治時代にこのテーマでの刊行はなかなか勇気がいるな、とは思うが内容が…という感じでした。
当時の現状から何も打破できるものではなく、むしろその現実を肯定してしまっているのではないかと、読んだ直後の感想です。

あらすじを急ぎたいところですが、まずはこの作品の重要なキーワードである「穢多」について整理してみます。

穢多
江戸時代に武士・百姓・町人の下に置かれた身分。
結婚や居住などに差別・不当な扱いを受けた。
農業従事の他、皮革処理などを主な生業とする。
1871年の廃止時に28万人がいたという。

ではあらすじを。

時は明治時代、穢多は「新平民」と呼ばれるようになり、制度上は一応一般の人々と変わらない身分へとなっていたものの、差別は依然として色濃く残っていました。
主人公の瀬川丑松も、そんな新平民の一人。
しかし、父親や親戚の尽力などで新平民ということは明らかになっておらず、小学校の教諭として過ごし、また
父親の「決して出自を明らかにしてはならない」という戒めを守り、生きてきました。

学校では同僚かつ友人である土屋銀之助とともに良い先生として慕われており、それが校長郡視学、さらに郡視学の甥である教員勝野文平と対立している火種ともなっていました。

そんな彼の心の拠り所となっていたのが、猪子連太郎と、その著作。
猪子は瀬川とは違い、新平民であることを明らかにしながら社会の不合理を訴える社会思想運動家。
そんな彼と知り合いであり、尊敬しまた信奉している丑松は、父親が亡くなったことから故郷へ帰らねばならなくなり、その道すがら猪子と遭遇します。
猪子は、議員に立候補している友人の弁護士の応援をするために、この地にいたのでした。
猪子と時間をともにしているうち、彼だけには自分の素性を話してもいいのではないか、話した方がより彼に近づけるのではないか、と丑松は考え、父の戒めを破ろうと試みようとするものの失敗。
猪子は選挙の応援で、丑松は父親の葬式に行かなければならなかったため、各自旅路を急ぎ、別れることに。

父の葬儀に参加することで、丑松には一抹の不安がよぎります。
自分の出自がどこからか漏れてしまうのではないかという不安。
その不安は的中してしまい、葬儀から帰ってきた後に、丑松は新平民だという噂が徐々に広がっていきます。
加えて猪子が丑松の生活する町にやってきて、丑松の居場所を訪ね歩いているということが、さらに人々の疑惑を深くするものになりました。
猪子は弁士として先の弁護士の応援演説するためにやってきたのですが、なんとその最中に敵対する高柳利三郎の一味に襲われて殺されてしまうのです。
ここへきて丑松は、出自を明らかにしない自分を顧み、自ら新平民であることを告白しようと決意します。

その告白は、自分が可愛がっている生徒たちの前で行われました。
「今まで隠していて済まなかった。私は穢多であり、不浄な人間なのだ」と言い、土下座。
丑松は、もはや小学校に居続けることは不可能だと感じ、同じ穢多の人のツテを辿って、アメリカのテキサスへと旅立つのでした。



では以下は個人的な感想なので、いやな方は見ないで下さい。










破戒 (岩波文庫)/島崎 藤村
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~1回目 2011.5.2~

小説は虚構の話、フィクションだということが前提にあったとしても、書かれた作品は「なんでもあり」ではありません。
思うことは自由でも、それを文字で、言葉で表現した時点でなんらかの社会的影響があり、それを受ける責任を持つべきだと思います。

のっけから何の話をしているのか、という感じでしょうが、この破戒については、納得できない部分が多すぎます。
差別の実態を啓発するどころか、逆に差別を助長してしまうのではないか、と思わざるを得ない部分が多い

まず、その結末。
多くの評論家から指摘されているとおり、アメリカに行くというラストはどうなんでしょう
これって、簡単に言ってしまうと「逃げ」ですよね。
カミングアウトをして第二の猪子として生きるわけでもなく、隠し通すわけでもない。
結局丑松は逃げているわけで、自ら社会を変革しようと努力するわけでもなく逃げた後に日本の社会が変わってくれることを希望しているようなご都合主義。
これでは、(少なくとも当時は)穢多という身分出身では日本で生きられないということを暗に示しているだけではないでしょうか?
結局猪子の「我は穢多を恥とせず」という考えには至っていなかったということで、それならば何のためにカミングアウトしたのか。
自分のモヤモヤを晴らしたいだけだったのだろうか、と思えてしまうところに寂しさを感じます。

出自を告白したことで丑松の身の回り(親戚など)にも影響が及ぶことは必至です。
そんななか、作者はこんな救いのない文章で解決します。
「その時はまたその時さ。」
「なあに、君、どうにか方法は着くよ。」(ともにp413)
そんな適当で済むような差別ならば、穢多と告白してもどうにか日本で生きる方法は着くんじゃないかな。

さらに、告白の仕方にも問題があるように思えます。
「後々までの笑草などにはならないように」(p364)打ち明ける方法が、謝って土下座とはどうしてでしょう
自ら穢多(新平民)は穢れた身分であるという後ろめたさが、全く自己の中で解決されていないではないですか。
様々な文献を見たところ、日本における穢多という身分は、政治によって作り出された身分であり、同じ日本人には変わりありませんし、その差別の根拠は人種や民族的なものとは一線を画す曖昧なものです(もちろん、だからといって人種差別や民族差別をしていいといことでは決してありませんが)。
ゆえに、その差別の根拠の脆弱さは、猪子の著作を愛読している丑松には分かっているはずなのですが・・・

ということを総合すると、島崎藤村自身に差別の認識があったのだろうと解釈してしまうのです。
解説の野間宏さんは、猪子の口から出る発言から、それを分析していますが、私も別の部分からそう判断しました。

それはこの部分。
丑松の父は、種牛によって殺されてしまったのですが、その種牛を処分するために屠殺場に丑松が行く場面です。
少し長いが引用してみます。

屠手として是処に使役われている壮丁は十人ばかり、いずれ紛いのない新平民――殊に卑賤しい手合いと見えて、特色のある皮膚の色が明白と目につく。一人一人の赤ら顔には、烙印が押当ててあると言ってもよい。中には下層の新平民に克くある愚鈍な目付をしながらこちらを振返るもあり、中には畏縮た、兢々とした様子して盗むように客を眺めるものもある。(p180より)

あたかも新平民は平民などとは別人種だと言わんばかりの差を丑松に思わせています。
いくら小説であろうと、文豪が生み出したこの長編作品によるその社会的影響の大きさを考えると、何も被差別部落や穢多とよばれた人々についての知識がないままにこの作品を読んだら、
「やっぱり穢多って私(もしくは私たち)と違うんだろうな」という誤解を招く危険性があると思います。

面白かった点は、新平民としての丑松のことだけでなく、没落した旧士族の老教師、風間敬之進の悲惨な生活が、政治家や華族の華々しき生活と比してこの時代における一般大衆の様子を垣間見えることができた、ということでしょうか。
お志保さんとの恋もなかなかイライラしますが、お志保さんが可愛げがあるお淑やかな女性なので、すがすがしかったです。

ただ、自分の読みが甘かったのかもしれませんが、私の中ではモヤモヤが溜まる作品でした。

総合評価:★☆
読みやすさ:★★
キャラ:★★
読み返したい度:★☆
レベル:中学2~3年生レベルで、数時間で読めると思います。


ジャンル:ヒューマン


あらすじ(背表紙から):

唐の都に暮らす若者、杜子春は一文無し。
ある日の夕方、不思議な老人と出会い、仙人の道をめざして旅に出た杜子春は、人間にとって財宝や仙力よりも大切なものを身をもって学ぶこととなる。

面白さ:★★★☆


※以下、結末まで話します。嫌な方は見ないでください。













杜子春 (洋販ラダーシリーズ)/芥川 龍之介
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内容:

ある春の午後、かつては金持ちだった杜子春は、洛陽の西門近くで空を見上げていました。すると、不思議な老人が現れ穴を掘ったら金持ちになる、と杜子春に告げ忽然と姿を消します。
杜子春は半信半疑ながらも掘ってみると、大金が埋まっていたのでした。

さて、金持ちになった杜子春のもとには、かつて貧乏だった杜子春には目を向けなかった「友人」たちが毎日集い、宴が催され、結局3年後には金を使いはたして元の木阿弥。
すると、あの時と同じように杜子春の前に老人が現れ、同じようなことを告げ、同じ事をし、同じように金が埋まっていました。

3年後、同じように金を使い果たした杜子春が再び洛陽の西門近くでたたずんでいると、またあの老人が。
でも、杜子春は、金があると群がり、なくなると去っていく「人間」に疲れた、もう金は要らないと老人に言います。そして、老人に対し「あなたは仙人ですよね?私も仙人になりたい。」とお願いをします。

老人は、杜子春とともに竹の棒で峨眉山へ飛び、杜子春に向かって「仙人になりたくば、私が留守をしている間何があっても口をきくな」と注文。
仙人が出かけた後、虎などが登場するも杜子春は仙人の言いつけをまもります。
しかし、言い寄ってきた悪魔にも口をきかなかったばかりに、槍で刺されて死んでしまいます。

さて、地獄の閻魔大王のもとに連れて行かれ、そこでも口をきくように言われる杜子春ですが、仙人の言いつけを守り通します。
業を煮やした閻魔大王は、姿は馬のようだが人間の顔を持つ魂を2つ連れてきます。
なんとその人間の顔こそ、父親と母親だったのです。
その2人に対し閻魔大王は部下に命じて鞭打たせる。
杜子春は、いつでも自分のことを守ってくれていた母を思い出し、つい「お母さん!」と声を出してしまうのでした。

さて、杜子春が気づくと、そこは洛陽の西門。
仙人が杜子春に話しかけます。
「母親が鞭を打たれているあの場面で、おまえが何も言わなかったら、私がおまえを殺していたよ」と。
「何かほしいものはないか?」と聞く仙人に対し、杜子春は「何もいらない。簡素な生活でも、良いと思える生活ができれば」と返答。

すると仙人、別れ際に、
「その心持ちを忘れるな。そういえば、泰山に小さな家がある。周りの庭と合わせておまえにあげよう。今年は桃の花が咲き乱れているぞ。」と言うのでした。


感想:
 
芥川龍之介の作品は恥ずかしながらほぼ読んだことがないです。
なんかあの格調が高く、まったく隙のない完成された短編に、馴染めないというか敷居が高いというか。
例えるなら顔が整いすぎて、スリムなモデルに色気を感じないのと似ているとでもいいましょうか。。。

ただ、英語の勉強を兼ねて、ということで今回初の洋販ラダーシリーズビックリマーク

面白かったです、仙人いい味出してますね~。さすが仙人。
杜子春も経験を通して、財力も、人並みはずれた超能力もいらない、自然とともに簡素であっても普通な生活がしたいという境地に達しました。
私なぞはまだ財力欲しい段階でとどまっていますがあせる
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 いくらやってもしゃっくりばかりくりかえしていた船が、いまやうまれかわったように、生き生きと走っている。
 いったん帆をおろして、潮にのって沖にむかい、あらためて空き地の岸にむけて帆走し、六人はぶじ、母港へかえりついた。
 岸にあがると、さすがにくたびれていた。せいぜい三十分の航海だったけれど、なんだか地球を一周したような気がする。
(p201より)

 
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ズッコケ3人組シリーズで有名な那須正幹さん。
私も小学校時代は面白く読ませていただきましたが、今回はそのシリーズではなく、文庫化されている長編、ぼくらは海へを紹介します。


あらすじです。

小学校5年生の2学期の終わりに埋立地にある小屋を見つけ、秘密基地としてきた小林誠史たち。
彼らは6年生となり、多感な思春期の入口を、受験や複雑な家庭環境にもまれていきます。
そんな中で彼らが思いついたのが、埋立地に散在してある廃材を利用して、船を造ること。
各々の家庭、学校の悩みを蹴散らすかのように、彼らは船造りに励んで行くのでした。

さて、船造りの過程で各人はどのように心境を変化させていくのでしょうか?
そして、船は完成するのか?


では以下はネタバレ含むので、いやな方は見ないで下さい。









ぼくらは海へ (文春文庫)/那須 正幹
¥620
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~2回目 2011.3.30~

さて、登場する小学生が数名いて、さらに家庭環境に特徴があることから、まずは彼らについての説明を加えておきましょう。

小林誠史・・・父親がおらず、祖母と母と暮らす。6年生に入り、成績がどんどん下がる。
 菅雅彰 ・・・誠史の親友。妹が喘息持ちで、そのせいか父親が不機嫌。
多田嗣郎・・・シロの愛称。メンバーの中で唯一塾には通わず、貧乏で両親も不和。
大道邦俊・・・無口だが優秀。スケベ。冷めた裕福な家庭に育つ。
 立川勇 ・・・めがねをかけ、船造りを提案するなど、陽気。家が転勤がち。

この5人が失敗を重ねながらも船造りに励みます。
しかし、そうはいっても小学生。
技術の大きな進歩はさほど望めず、誠史なんかは途中で投げ出してしまうことも。
しかし、船造りをイカダ造りに変更したことから、次第に航海が現実味を帯びてきます。

それは、上記5名のほか、新たな人物が加わることでさらにその速度を加速していきます。

工藤康彦・・・クラスの児童委員をしている学校の中心。
 森茂男 ・・・康彦の取り巻き。力で物事を解決しようとするガキ大将。

康彦は、学校を愛していて、学校のことを、ひいては生徒のことをすべて把握していると思っていました。しかし、5名が自分の知らないところで船造りなんていう壮大なことをしているということに驚きと興味を持ち、茂男とともに船造りに参加させてもらうことに。
聡明な康彦は遅れをとるまいと船の構造を調べ上げ、それまでの子供だましだったイカダを、実用的なイカダへと進化させていきます。
茂男は茂男で、そのイカダを5人のものではなく、自分達のものにしようと画策していきます。
折りしも船造りを提案した勇が父親の仕事の関係で引っ越すことになったことから、次第に彼らを取り巻く環境が変化していくのです。

そして、大きな事件が。
台風がその町に近づき、あることをきっかけに嗣郎がイカダの元に向かうことになりました。
台風の影響で波が高く、その波に揉まれて護岸壁にぶつかり、いまにも分解してしまいそうなイカダを救うべく、危険な中で作業を行う嗣郎に、波が襲い掛かり、嗣郎は死んでしまうのです。

当然、小学生の船造りは大人の知ることとなり、計画もろとも破棄されることとなります。

が、家庭環境がよくなかった誠史と邦俊の2人は、ほとぼりが冷めるやいなや、嗣郎の意思を継ぐという大義名分のもと、イカダ造りを再開します。

そして、できあがったイカダに食料を積み、2人は大海原に向け出航したのでした。


感想です。

本来、児童文学は大人の目から見ると、それこそ水戸黄門的な予定調和、もしくは何か教訓めいたものを作中に秘めているものだと思います。
それに加え、読者層を考えると限度以上に道をはずすことも考えにくい。

しかし、この作品に関しては、その2つがあてはまらないのです。

読み進めていくうちに私は、
「おそらくイカダを完成させて、それを海に放つ」
くらいに思っていました。
邦俊が、食料品を買い込んで航海に出かけようと誠史に提案したときも、
「最終的には何らかのことがあってイカダにのることはないだろう」
と思っていました。

しかし、この作品はさせてしまった。
結末は、2人は行方不明
ともにイカダを造っていた誠史の親友、雅彰に言わせるところ、
「ふたりは、いまも太平洋のあらなみをのりきって、元気に航海をつづけているにちがいない」(p307)
などという、そこには希望も絶望も混在しているラスト汗
こんな児童文学作品、初めてな気がします。

その衝撃がまず大きかったことはありますが、しかし長らく子どもたちとふれあい、それを文学作品に昇華してきた那須さんの細やかな設定や、子どもの心情とその変化を表現していることも忘れられません。
細やかなんです、ほんと。
主要人物5人はそれぞれの家庭環境があり、どの子にもいつくしむ心が湧いてきます。
・・・まあ、特に嗣郎は第2の主人公と思わせるくらいの好人物ですが。

文春文庫に文庫化されている辺り、子どもが読むというよりも、大人が読んで子ども時代を懐かしむという意味の作品になっているのかなはてなマーク、と感じました。


総合評価:★★★
読みやすさ:★★★☆
キャラ:★★★
読み返したい度:★☆
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 「私、今日のことは一生忘れないと思う。・・・・・・初めての相手がたっくんで、本当に良かったと思う」
 「初めての相手・・・・・・だけ?」と聞くと、彼女は微笑んで顔を左右に振った。
 「ううん。二度目の相手もたっくん、三度目の相手もたっくん。これからずっと、死ぬまで相手はたっくん一人」
(p114より)

 
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今回は乾くるみさんの作品、イニシエーション・ラブです。

裏表紙に「必ず二度読みたくなる」と絶賛されたミステリーと書かれている通り、かなり読後感はぞぞっ汗とするものでした。

あらすじです。

奥手な大学生の
木夕樹は、人数合わせのために参加した合コンで、成岡繭子という歯科衛生士と知り合い、恋に落ちます。
繭子の方も、夕樹が気になったのか、何度か合コンのメンバーでの遊びを通じて徐々に仲が良くなっていきます。
繭子は夕樹の「夕」の字がカタカナの「タ」に似ているからということで、彼をたっくんと呼び、たっくんは繭子のことをマユと呼ぶ。
さらに共通の趣味が読書だったので本を貸し借りしたりと2人の仲は接近。

一人暮らしをしているマユの寂しさを埋めていくように、たっくんはマユの中で大きな存在となり、やがて2人は付き合うことになるのでした。

ここまでが前半です。

では以下はネタバレ含むので、いやな方は見ないで下さい。







イニシエーション・ラブ (文春文庫)/乾 くるみ
¥600
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~2回目 2011.3.30~

さて、後半です。

社会人となったたっくんは、会社の異動命令により、マユとは遠距離恋愛になってしまいます。
もちろん最初はたっくんは無理をしてでもマユと会う時間をつくり、お互いの関係は良好でしたが、徐々に雲行きが怪しくなっていきます。

もちろん、距離の関係もありますが、他の原因として、石丸美弥子の存在が。
新入社員として入社していることもあり、同じく異動で不慣れなたっくんと意気投合。
さらにかなりの美貌の持ち主。
そんな美弥子はたっくんに告白。さらに、マユという彼女がいても構わないという態度。
マユのことが気になりつつも、徐々に美弥子の存在が大きくなり、とうとうたっくんは美弥子と一夜をともにしてしまいます。

それ以降、ずぶずぶとその関係は続き、互いを名前で呼ぶような仲にまで発展。
が、マユとの仲もなかなか切れずにいるたっくん。
しかし、その結末はあまりにもあっけないものでした。
マユの家にいたたっくんが、思わず「美弥子」と間違えて呼んでしまったのです。

マユとの関係は終わり、たっくんは美弥子と正式に付き合うことになったのでした。


さて、あらすじはここまでです。

ここまでだと、あまりにも普通の恋愛小説、マユがあまりにも可哀想だと思われるでしょう。
しかし、この結末はあまりにも恐ろしい。

実は、
前半のたっくんと、後半のたっくんは、別人物だということです。

前半のたっくんは、鈴木夕樹。先に触れたように「夕」が「タ」に見えるのでたっくん。
後半のたっくんは、鈴木辰也。「たつや」なのでたっくん。
この後半のたっくんが辰也という名前であるということは、最後の2行目で明らかになります。
「あれ、今までの何だったの!?」という感じで脳が揺れました。
確かに前半のたっくんと後半のたっくんは性格が違うし、よく考えてみれば就職先などが違うのですがね。。。

細かい時系列は、まとめられているサイトが他にもあるので省略しますが、簡単にいうと、

①後半のたっくんとラブラブ。
②後半のたっくんが異動、遠距離に。
③しばらくしてマユと前半のたっくんが知り合う。
④2人のたっくんと同時進行。
⑤後半のたっくんとの別れ、前半のたっくんとお付き合い開始。

となります。

そう。
何よりもマユが恐いガーンビックリマーク

冒頭で紹介した、引用はその恐ろしさをより引き出しています。
これは、前半のたっくんとの初体験後のピロートークですが、
二度目も三度目もたっくんというところが、確かにうそはついてはいないかもしれないけれど、一人のたっくんを指していないことが暗に示されているように感じます。
もしかしたら鈴木辰也の前にも別のたっくんがおり、さらに鈴木夕樹の後(もしくは同時?)にも別のたっくんがいるかもしれないということまで広げられそうな恐ろしい言葉。

それは、後半のたっくんとの付き合っている最中に、マユが妊娠をする場面でも感じさせます。
たっくんは避妊をかかさなかったために、その妊娠に疑問を持っています。
前半のたっくんともその時は関係を結んでいなかったので、「相手はだれ?」という謎が読者にも残ったままになっているのです。

また、この小説には国鉄→JRの移り変わりの時期や、「男女7人~」などを通じて時間的なトリックを用いており、なかなか整理して読むと面白いかもしれません。
そして、各章のタイトルが、内容に合わせて昭和に流行したヒットソングを使用しているところも面白いです。

ただ、注文をつけるとすれば、背表紙のあらすじ
「最後から二行目(絶対に先に読まないで!)」とは書かない方が良かったのではないか、と思います。
ダチョウ倶楽部の「押すなよ、絶対に押すなよ」のごとく、見てしまいたいという気持ちに駆られてしまうからです。
というか、そもそも最後から二行目を読んだ所で、本文を読んでいなければトリックは分かりませんしねむっ



総合評価:★★★
読みやすさ:★★★★
キャラ:★★★
読み返したい度: