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ライブハウスの最後尾より

邦楽ロックをライブハウスの最後尾から見つめていきます。個人的な創作物の発表も行っていきます。

どうも( ^_^)/

 

ふと“内心”というものについて疑問に思った者です。

 

特にこれといってクリティカルなエピソードがあって湧いた疑問ではないのでさっさと話を進めます。

 

 

辞書の意味は、

(表面には現れない)心の中。胸の奥。副詞的にも用いる。

だそうです。

 

 

なるほど、ちょっとわかってきました。

 

 

そして例文に、

内心の動揺を隠せない

と出てきました。

 

これで何か合点がいった気がします。

 

 

要するに、内心は外面の観察によって推察されるもののようです。

 

無論邪推です。でも人の内心は外に出てくるものという予断が我々にはあるようです。

 

つまり内心の自由とは「内心を邪推されるような行動を取らない」ことによって達成できるのかもしれません。

 

俺自身にも心当たりがあります。

 

下衆の勘繰りはすまいと思っても、むしろそう思う時点でやっている。「ピンクの象以外を想像してください」と言われてピンクの象を連想しない人はいないです。俺たちの脳はまったくアホです。

 

 

結局のところ、肉体の仕草からジャッジしてしまう脳を我々が持ってしまっている以上、内心の自由なんて存在しないんじゃないかと思います。

 

 

うむ、なんだか窮屈な結論になりました。

 

 

もう少し考えを進めましょう。

 

 

自分の中でいくら「そんなこと思ってない」と強弁しても“内心”は外に出た態度から推し図られてしまう。無表情すら表情であり、万物への無関心が貫けない以上そこに冷酷な視線を見出されることはどうしようもなくあります。

 

 

ただ、この想定は同時にとても非現実的です。

 

そんな周りが刺客だらけみたいな日常、僅かなワンミスでゲームオーバーになるハードコアな状況はそうそうないはずです。

 

もしそんなハードボイルドでタイトロープな状況になっているのであれば、それは相当に態度が悪いと思われている可能性が高いです。

 

 

これはこれで厳しいものの見方ではあります。

 

「態度が悪い」なんて、それこそ気分で他者を裁く「悪い態度」で、ここまで考えるともう本当にどうしようもない。しかし人の世はそうなっている。俺たちはどうしようもなくアホなのです。同じアホなら踊らにゃ損の世界です。

 

 

人の中に入って軋轢を起こさない態度を学んでいくしかないようです。「多分この場はこういう態度でいた方がいい」というのを学習して間違えてさらに学習して、その先に内心の自由の達成があるのでしょう。

 

 

さらに窮屈な結論になりました。ふと思いついただけの疑問でここまで袋小路に入り込んでいくことってあるんですね。

 

 

外に出す文章なんて狭苦しくなって当然ということなんでしょうか。それこそ内心くらいは広く深く持っておきたいものです。

 

 

 

 

 

 

どうも( ^_^)/

 

たまに指が五本じゃ足りないと思う者です。

 

いやいや、外因の沈殿物たる我々は生まれ与えられた手札で生きるしかないわけですが。

 

 

平等の問いには解が存在しない。四辺を持つ三角形を描こうと頭を悩ますように、平等は論理的な袋小路だ。それなのになぜいつまでも論争が続くのか。平等という地平線はなぜ消えないのか。格差を理解するためには近代の本質に切り込まねばならない。自由と平等は近代の宗教である。その化けの皮を剥ぐのが本書の目的の一つだ。

 

 

まさか二連続で同じ作者の同じようなタイトルの本を紹介するとは思いませんでした。

 

本書も“前作”と同じく神という幻想を殺したが秩序のため新たな幻想を生み出さざるを得なかった“近代”への激烈なラブレターです。

 

格差は無くならない。程度問題でもない。そもそも問題として設定したことが近代的思考がもたらす虚構であると、徹底的に喝破していきます。

 

が、読んでいる間はそんな印象がありません。

 

むしろ、「これ格差と関係あるのか」と思う話が続きます。

 

著者曰く「長い補助線」が引かれ続けます。

 

日本とフランスの学校制度の違い、それぞれの問題点。

 

一卵性と二卵性の双子を比較した研究に基づく遺伝率への批判。

 

数年前に大規模なデモが起きたフランスのイエローベスト運動の解説。

 

近代思想が行った主権の外部化についてルソー・ホッブスなどを引いて説明。

 

ユダヤ人についてや、主体の虚構性などは『責任という虚構』の繰り返しです。

 

 

本題の輪郭のさらに外縁を撫でるような話が延々と続いて最終的に「私は偶然に希望を見出す」などと言って本が終わっていく。

 

補助線だけ引いて本題に戻っていないのではと、「格差は近代が近代的思想で続く限りなくなりはしない」などとあまりに救いのない話だから最後に希望のあるっぽいことを書いて本を締めようとしているのではないかと、思ってのは一瞬でした。

 

 

本をすべて読み終えると、なにかとても自分の中で格差をどう捉えるのかとか、どう考えていくのかとかが、スッと腹落ちしていました。

 

本の最終盤に、幼い子供を亡くした母親に釈迦が「今まで一度も死人を出さなかった家に芥子(ケシ)の種を2,3粒貰ってくれば生き返らせてあげよう」と言った話が出てきます。

 

一心不乱に「人が死なない家から芥子の種を貰おうとする」母親は、自分の身体感覚と体験で「死なない人間などいない」と悟ることができたという話です。

 

 

自分で考えさせないと、本当には納得できない。「格差など無い」となかなか飲み下しにくい結論を“導かせる”ために長い迂回路を通ったのではないかと、そんな風に思いました。

 

 

既存の思考枠が、ここでは「問題は解決されねばならない」というような『べき論』から抜け出すことを邪魔する。

 

「解決しようとしている限り決して解決しない」これは近代といわずそれなりに長い一万年くらいの文明社会全般にいえそうです。

 

人類は飢えをしのぐため食糧を増やしたら人口増加が問題になり、生活を便利にさせようと産業革命で公害を出し、車を作って交通事故を増やし、法を作って冤罪を出し、自由闊達な言論ができるSNSで病んでいる。

 

目の前の不安に対処するばかりで、根源的な部分の問いがおろそかになっているのではないかと思います。

 

当たり前のように続いていることにこそ疑問と問題意識を持つべきなのではないか。なんで人間は生まれてきているのだろう。いや「生まれちゃったから」以上の意味なんてないんですが、そこをしっかり見つめられている人が何人いるのか。誰もがお仕着せの疑わしい価値観で自身を納得させている振りをしているばかりではないのか。

 

そもそも「問題を解決している」仕草こそが根源的な問題の外側の空白を撫でるような行為であって、人間が本来は無意味で無価値な存在だという“答え”に触れないようにしているだけではないのか。

 

人類総出で欺瞞とごまかしのナァナァ祭りを演じている、そう思えてならなくなりました。

 

そこまで考えたところで、この本の「偶然のよる希望」が真に迫ってきます。

 

格差、不平等、能力主義、なんと呼んでもいいですが、それらの外側、今の我々には予想だにしていない角度から思わぬ福音が舞い込むかもしれない。

 

とにかくはまずもって『べき論』から離れる。問題から離れる。遠くに離れて、問題自体の存在を忘れたとき、天啓としか思えないひらめきが降ってくる、かもしれません。ないかもしれない。でも「解決しよう」と思っている限り、そのわずかな可能性すらないのです。

 

これはある種、禅の心ですね。

 

求めているうちは絶対に手に入らない。

 

ここまで書いた自分の“気付き”はぜんぶ勘違いかもしれません。

 

まったく見当はずれのことを書いているとしたら、それが多分きっと大きな希望です。

 

俺の阿呆な駄文は、駄文であるからこそ思わぬ偶然を呼び込む、かもしれません。

 

 

こうしてブログを書いていることにも何か新しい楽しみを見出せました。

 

偶然を楽しみにしています。

 

 

 

 

 

 

 

 

どうも( ^_^)/

 

アニメーションが動き過ぎると逆に怖くなる者です。

 

虚構がダイナミック過ぎると警戒します。

 

 

 以上の問題意識に導かれて、責任は主観的に生み出される虚構だという主張を展開する。道徳や真理に根拠はない。しかしそれにもかかわらず、揺るぎない根拠が存在するように感知されなければ人間生活は営めない。虚構として根拠が成立すると同時に、その恣意性・虚構性が隠蔽される必要がある。人間が作り出す規則にすぎないのに、法や道徳が普遍的価値を体現するのはなぜなのか。

 虚構というと、嘘・偽り・空言のように事実と相違しているという消極的な意味で理解される。しかし虚構とは事実の否定ではない。個人心理から複雑な社会現象にいたるまで虚構と現実は密接な関わりを持つ。我々を取り巻く現実が虚構の助けなしにはそもそも成立しないことが、本書の議論が進むにつれて納得されるだろう。

(P.4 『はじめに』より)

 

ひとつ、『もうひとつの裸の王様』という二次創作物語を想像します。

 

こちらの王様が着るのは悪戯な仕立て屋のいう“バカには見えない服”ではなく、“見た目には服と区別がつかない精巧なボディペイント”です。

 

王様は根っからのヌーディストなのか、はたまた単なる変態なのか、その“服”を着て大通りを管楽隊や曲芸隊と共に行進します。

 

盛況に終わろうとしたパレードの最終盤、沿道にいた小坂井敏晶という人が「王様は裸だ!」と叫ぶ。

 

確かに、よくよく見れば王様は服を着ていない。

 

だがしかし、指摘しなければ気付かないほどのボディペインティングぶりです。

 

沿道の市民たちはどこか苦々しげな雰囲気で言います。

 

「気付いたからってわざわざ言うなよそんなこと」と。

 

めでたしめでたし。

 

 

『責任という虚構』はそういう本です。

 

責任という王様が着ている服―――自由意思とか司法制度の根拠とかロールズの『正義論』とかを一枚一枚点検して「これは服じゃない。責任さんアンタ裸だよ」と言い続ける。

 

我々人間に自由な意志などないし、人を裁く権利もないし、その根拠は虚構であると喝破する。

 

とはいえ人が人を裁けない世の中ではどうしようもないし、そこには人間が自由で主体性を持った存在である“ということにしておく”という理屈、中世が近代化とともに葬り去った“神”の代替物が必要だと、それが“自由意思”なのだという、そういう話です。

 

別に人間よ野に帰れなどというわけじゃない。

 

わけじゃないからこそ始末に負えないわけです。

 

「お前そこは人類みんなでなぁなぁにして済ませておいた部分だろうが」というところを遠慮なく引っぺがしてしまう。

 

そんなことをして何になるのか、俺の解釈ですが、これは作者の“近代”に向けた檄文だろうと思いました。

 

ナチス・ドイツが降伏した際、対独協力者として一万人以上のフランス人が裁判を経ずに処刑された。無実の罪に問われた人がいる可能性を知りつつもレジスタンスの指導者は処刑を許した。そうしなければ復讐や内戦が各地で起き、もっと多くの犠牲者が出る恐れがあったからだ。(P.165より)

 

専制的で封建的な社会を打倒しても我々はままならない。まさにそれをなし得たことを歴史の誇りとするフランスですらデュープロセスを経ない方法で罪人を一方的に裁かなければならなかったようです。

 

小坂井敏晶さんはフランス在住の社会学者です。まさに“近代”の嚆矢となったフランス革命が勃発した国で、つまり近代思想発祥の地で近代の欺瞞を喝破するロッキンな言論をやられている。

 

責任の正体に迫るためには、自由に関する我々の常識をまず改めなければならない。近代的道徳観や刑法理念においては、自由意志のもとになされた行為だから、それに対して責任を負うと考えられているが、この出発点にすでに大きな誤りがある。実は自由と責任の関係に関して論理が逆立ちしている。自由だから責任が発生するのではない。逆に我々は責任者を見つけなければならないから、つまり事件のけじめをつける必要があるから行為者を自由だと社会が宣言するのである。言い換えるならば自由は責任のための必要条件ではなく逆に、因果論的な発想で責任概念を定立する結果、論理的に要請される社会的虚構に他ならない。(P.156より)

 

特に納得できたのはこの部分です。

 

筆者は人間を『外因の沈殿物』と説きます。

 

その人の能力や人格の由来が環境であれ遺伝子であれ、そこに『内因』はない。環境はまさに周囲のさまざまな人やモノから、遺伝子は親から貰い受けます。自分の内より生じたものなど何一つない。

 

また、人格を形成した責任を遺伝に求めると、その遺伝子を“提供”した親の責任も問われ、そのまた親、さらにその親……というように無限背進に陥る。

 

だから人間個人に責任を問えるような“主体”などない。としてしまうと不都合なのでさまざまな理屈を捻り出すのですが、結局「責任を問えないと不都合だから」以上のモノは出てこない。なので最終的に“自由”を持ち出します。

 

自由な行為者が責任を負うのではなく、責任を負うべき個人に“自由行為者”の烙印を押すわけです。

 

この時点で論理は転倒してしまっています。苦笑するしかありません。

 

この本を読んだきっかけ、というほどのことはありませんが、常々、犯罪ニュースなどを見ていて、市井の人々の反応が“素朴過ぎる”ことに違和感を覚えていたというのもあるかもしれません。

 

あまりに素朴な「許せない」「罰して欲しい」という感想には首を傾げざるを得ません。確かに人間は論理と理屈ではなく感情と気分で動く生き物です。だからといって気分や感情で人を裁く、世間ではそれを“いじめ”と呼ぶのではないでしょうか。

 

またアングルが一方的過ぎるともいえます。

 

あまりに視点が“自明な常識”を前提にし過ぎている。そこにこそ問うべきことがあるのではないかと、明確に言語化されていたわけではありませんが、この本はその点でオルタナティブな観点を与えてくれました。

 

刺激的な本です。是非読んでみてください。