2026.1/1 19:52~

 

 岐南町は何度も言ったことのある街だが、こんな秘密の地下室で何人も人体実験を行っていそうな医院は見たことがない。周りが雑木林に囲まれているのがダメだし、屋根が赤いのが言い訳不能だと思う。

 

 一時的な精神と身体の不調から、少しずつ抜けてきたように思われる。

 

 なお、今は午前三時近くだ。眠れなくなってしまっているのでは? 目覚ましは十時にセットしてある。今から寝ても7時間、午前四時くらいまで眠りがずれ込んでも6時間だ。問題はない。

 

 寝て起きた。

 

 結局、四時半くらいまで眠れず、十時半くらいに起床した。昼寝もせねばならない。

 

 以下の文章は、そうして朝方に眠る直前に書いたものだ。特に文の整合性を保つのも面倒なので、何の前置きもなく行く。

 

 結局私は、冷めきっているのだろう。

 

 南極の山脈ほどではないが、さながらグリーンランドの永久凍土じみた―――そのふたつの違いもよく分からないが、とにかく一生涯かけても溶けることのない凍り付いた部分というのが、私の中心部にあるのだ。

 

 ほかの人々がワーッと盛り上がっているのを「この人たちは何をしているんだろう」と思いながら、眺めている時間が延々と続いている。

 

 私は私の命を「産まれてくる甲斐の無かった存在」と批評しているが、まさにそういうところだろう。

 

 逆説的に、そういう部分があるからこそ今日まで生きているのだと思う。

 

 ここで、寝た。再び、以下、昼寝の直前に書いた文章↓

 

 根は良い人、という言い回しを借りるなら、私は、根は良い人の振りができる人、だ。

 

 だから、こうして体調が落ち込み、そういう振る舞いができなくなっても「今は良い人の振りができませんが、もう少し経てばまたできるようになるので、しばらく放っておいてください」と言えばいいのだろう。いいのだろうか。

 

 冗談のつもりで書いてみたが、悪くはないのかもしれない。

 

 自分が自分であることなどどうでもいいという私の心性を、一番明快に表しているといえる。

 

 統合失調症じみた感情的な人間どものありさまも、これで少しは許せるというものである。

 

 この書き方は「良い人の振りができる者」の文なのだろうか。

 日曜のライブ中に一本書いたのだが、特に公開することもなく、メモ帳に放っておかれている。

 

 前回も書いたように、人に読まれたいという欲求が無くなってきている。

 

 うんざりしてしまっているのかもしれない。

 

 読まれるため、誰かにアピールするために何かをする。それが嫌で嫌で仕方なくなってきている。

 

 日曜はライブだったが、ギターを弾き、歌うこと以外は何もできない状態だった。それだけできれば上等なのではないか。朝は洗濯もしたし、当然ライブハウスへは自分で車を運転して向かった。ただ、風呂には入れなかった。

 

 私の体調がいかに悪かったか、これではまったく、それこそ伝わらない。

 

 そういうことなのかもしれない。

 

 実際、芯から力が抜けて、何もできなかったのだ。ただ、ヘロヘロでグニャグニャの軟体動物のような心地に陥りながらも、魂の抜けた糸人形か、はたまたむしろ生き霊のように、身体にプログラミングされた家事だの運転だの演奏だのを実行したに過ぎない。動いているのではなく、動かしている。

 

 ここまで書いても、きっと伝わらないだろう。なにしろ、私自身が今一つ芯を食った感がないのだからして。

 

 一言でいえば、うんざり、で済んでしまうだけなのだが。

 

 こんなことを、いつまでやらねばならないのか。こんな馬鹿げたことを。

 

 今すぐ死ねば終わる。

 

 そうすべきでしかないことが分かっているから、余計に力が抜けてしまうのだな。

 

 本質的に無意味なことをさせられ続けることに、耐えられない。

 

 どうあっても生きている限り癒されることのない苦しみが、終わらない。当たり前だが。

 

 こんなものは、ちょっとした周期だ。とも、思う。こういう抑うつ感とでもいうのか、そんなものは昨年にもあった。

 

 ただ、気分的な失調は時間と共に過ぎゆくとて、やはり、私が死ななければならないことには変わりない。人生が無意味なことも変わりなく、私の命に価値がないことも変わりない。

 

 これは、論理的帰結である。なので、頭で考える限り、これ以上の物は出てこない。

 

 適応的な人々は、ここで論理飛躍が行える。

 

 論理では不可能な、観念的で形而上学的な人生の答えを掴めてしまう。

 

 私には、無理なのだな。

 

 それがつまり、私の生まれ持っての絶対的な孤独と呼べるのかもしれない。

 

 幸福も不幸も存在しない。だから、本当の意味で絶望もしない。なので、己をロマンチシズムに沈みこませることもできず、自殺もしない。

 

 私にとって、死というのはどこまでも実際的な作業なのである。痛いとか苦しいとかいう以前に、なにか違う気がしてしまう。

 

 私は別に無意味を嫌っているわけではない。無意味に生き、無価値に死にたい。それを許してくれない世界に、うんざりしているだけであって。

 

 どうして私に求めるのだ。

 

 求められるから死ななければならなくなるのだ。

 

 まぁ、私も悪い。

 

 なんとなく、適応的であるかのように振る舞えてしまうのだ。それが、人を勘違いさせてきたのだろう。このような書き方は傲慢に過ぎるだろうか。いや、そうだろう。

 

 もっと、人間を辞めるべきだ。

 

 幸福も不幸も、希望も絶望も感じない者は、人間ではないのだ。

 

 そもそも、私は人間ではなかったのだ。

 

 振りをやめねばならない。

 

 そうして、極端に不愛想に、完全に閉じこもったような人になったこともあったが、あれは失敗だった。それはそれで、演技的だ。

 

 もっと自然と非人間であれるはずだ。

 

 今なら。

 

 と、己をせめて励ましてみる。

 

 これでもう少し安心してうんざりできるだろうか。

 久しぶりにスマホで書いている。当然だが、意味はない。


 もうすぐ歯医者に行く時間だ。


 なんとなく、行きたくない気分が数%ある。


 ただの定期検診だ。どこも悪くなければただいつもより丁寧に口内を掃除してもらって終わり、虫歯があれば早期発見で治す、ただそれだけの話であるのに。


 それでもなにか、嫌だと思ってしまうのだな。


 そもそもが、どこかへ行かねばならないというのが、それがどんなに望んだ場所であっても、つねに、どんな僅かばかりな気の迷いであれ「行きたくない」という気持ちを惹起せしめるのだろう。


 それは煎じ詰めれば、我々はみな「産まれたくなかった」ということなのだろう。


 話を広げ過ぎだろうか。私としては、この程度のことを広げ過ぎと断ずることがむしろ「考えなさすぎ」と思える。


 私の中にはとてつもなく傲慢で鼻持ちならない部分がある。


 それは周囲の人間を見下し、蔑み「どうしてこんな馬鹿げたことを正気のように行えるのだろう」という態度を隠そうともしない。


 それでいて、どうして定められた最期を前に、その遥か前から周知されていたことについて、思い悩んでしまうのだろう。


 なにも考えずに生きてきたのだろうな、と。


 そういう冷酷な己が、自動的に現れるのである。


 そろそろ時間だ。


 行きなくない気持ちが減じてきた。


 歯の健康を保とう。