2026.1/1 19:52~

マヒトゥ・ザ・ピーポーと「言行一致」の強迫観念|Mechasailuck

 

「面白い、面白い」と声に出しながら読んだ。


 昨日の今日でまた同じ話題だ。

 

 マヒトゥ・ザ・ピーポーの政治的発言についてはまったく知らなかったし、そもそもGEZANが私の音楽的趣味からするとだいぶ遠い、どれくらい遠いかというと、楽曲を聞いてもっとも私の守備範囲に近いバンドがRADWIMPSになってしまうくらい遠いので、こんなアホらしい事件が起こらなければわざわざ言及さえしなかった。

 

 つまりリンク先の筆者が書かれているように、事態の馬鹿馬鹿しさ・くだらなさがある臨界を超えたところにある興味深さ、というのが、この一件にはあるということなのだろう。

 

 言行一致、整合性、連続性、一貫性、そういうものに人はついつい執着しがちで、それゆえこのように破滅するのだという話は、やや小説的すぎるきらいこそあるものの、納得できるものであった。

 

 もうひとつ、時代の尾根という独特なワードも琴線に触れた。

 

 尾根には、私自身、嫌な思い出がある。小学生の時、学校行事の登山で尾根に置いてけぼりにされたのだ。あれは今考えてもあってはならない事態だったと思う。私がデブでどんくさくて集団からどんどん遅れて行ってしまったことを含めても、だ。

 

 私が時代の尾根にまつり上げられることは、今後の人生で一切ないだろうが、ひとつ気を付けておきたい。

 

 なぜか。

 

 今、小説を遅々と書いている。

 

 6月にいったん書き終えられたもののように、スラスラとは書けない。

 

 内容が、かなり暴力的なためだ。

 

 それが小説の要請する要素であるので書かねば始まらないのだが、あの手の刺激的でアテンションな描写に、やや二の足を踏んでしまう自分がいる。

 

 なんとなれば、マヒトゥが滑落していった時代の尾根にも、その手の刺激的でアテンションな言葉の嵐が吹いているからだ。『みいちゃんと山田さん』も、そうかもしれない。

 

 そういう場所に、たとえ端っこであろうと立ちたくないと思うチキンな自分がいるということだ。

 

 しかし、そうはいっても手は動いてしまった。

 

 どうせほとんど誰にも読まれないのだから、大丈夫だろうが。

 

 私が今書いているのは、明らかな怒りの物語だ。

 

 思えば、怒りを表現しようと思ったことさえなかった。

 

 初めてそれを書かねばならないと、手をむずむずとさせているのである。

 

 書いてから考えよう。この時代の尾根にたどり着いてから、引き返すのもいいだろう。

Xユーザーのマヒトゥ・ザ・ピーポーさん: 「【お読みになる前に】 この声明には性暴力に関する内容や謝罪、被害についての記述が含まれています。過去の経験などにより心身へ負担やフラッシュバックが生じる可能性がありますので、ご自身の状態に合わせて閲覧をご判断ください。」 / X

 

 

 やったことといえば、巨人の坂本勇人と同じジャンルの話である。

 

 坂本が人間としてはそうでなくとも、野球選手としてはファンと選手から絶大な尊敬を集めているように、マヒトゥ・ザ・ピーポーおよびGEZANもその道を取ればいいのではないかと思う。良い曲を作り、良いライブをやるのだ。

 

 全人間的・全人格的に“良い人”でいようとすれば、それは大なり小なり失敗する。それができるのは人ではなく神と呼ばれる。

 

 別に、ド変態男であることにはこれといって罪はない。避妊具を着けず、泥酔状態で嫌がる女とセックスしたのが問題というだけであって。こうして明るみに出たのもひとつの僥倖として、今後は己の変態性を自覚して、節度ある範囲で倒錯行為に励めばいいのだ(語義矛盾)。

 

 それだけの話に、よくぞこんなごちゃごちゃと書けるものだと思う。

 

 不特定多数に読ませるための謝罪文で長文をしたためると、書き手のプライドの高さのみが強烈に印象付けられることを、この文章で知った。

 

 まずもって【お読みになる前に】がすごくいらない。なんだこの【】は。読み手への配慮のつもりなのだろうが、どうにも衒学(げんがく)な、オーディエンスを教育するという立場を手放せずにいる態度に見えてしまう。謝罪文で授業を始めてはいけない。

 

 それ以降の文章も、やはりところどころ衒学趣味だ。そう、趣味だ。頭は良いのかもしれないし、よく勉強もできるのかもしれないが、それを披露するターンでは今はない。そういう他己目線がない。趣味は別の機会にやってほしい。

 

 まぁ、こういうのも含めてミュージシャンのプロモーションなのだろうな。こういう場面でもセルフブランディングの考えを除去できない、職業人としての業というものか。

 

 この件での一般論的な教訓は、つまりそういうことなのだろうと思う。

 

 悪いことが明るみになったときに、ミュージシャンならばそれをエモーションにしない。お笑い芸人なら笑いにはしない。ジャパネットの社員ならTVショッピングを始めない。

 

 それをやると、見ている方は大変に白ける。

 

 反面教師とさせていただく。

 

 

 CIVILIANというバンドがいる。

 今年の九月に無期限活動休止、事実上の解散となる。なので、近々にはCIVILIANというバンドがいた、と表現することとなる。

 Lyu:Lyuという名義で活動していたインディーズ時代から、行けるライブはすべて行き、CD音源はすべて買い、メジャーデビューし、独立しさらに自由に活動するようになった現在までかなり熱心に聴き続けてきた。私がそういう風にひとつのバンドを追いかけることは、そう多くない。そうしたいと思えるバンドであった。

 スリーピースバンドだ。楽曲を構成する最小単位の編成。私は、これがもっとも美しいバンドの形態だと思っている。そしてCIVILIANはその美しさを体現するバンドであった。

 その、美しきスリーピースバンドにおいて、心身ともに負担の大きいギターボーカルでありコンポーザー(作詞作曲者)でもあるコヤマヒデカズ氏が「辞めたい」とおっしゃって解散ということになった。

 これは、仕方がない。いちファンである私に、なにか申し上げることはない。

 メンバーを交代してうまく回っていくバンドもあるが、CIVILIANはそういうバンドではない。ベースもドラムも、誰か一人でも欠けたらおしまいになることは分かっていた。そういうところもまた、美しかった。

 なので、解散にネガティブな思いは、あまり、ない。もう新譜が聴けない、もうライブが観られないという残念な気持ちこそ多少あれど、本当に少ない。

 このままだと二万字ほどCIVILIAN評伝を続けてしまいそうだ。それも悪くないが、別の機会としよう。

 現在、ラストツアーと銘打ったライブツアーを行っているのだが、その様子が、ちょっと心配だ。

 2026.7/3に、札幌公演の定点撮影アーカイブがYOUTUBEに公開されているのでそれもよければ参照してほしいのだが、ボーカルのコヤマ氏の声が、明らかにおかしい。

 しょっちゅう喉がひっくり返る。ロングトーンがもたない。ギターの演奏もやや集中を欠く場面がある。

 これは、私が昨年名古屋公演を観たときも感じたことで、そのときは解散を公表する直前ということもあり体調も悪いのかなと思っていたが、それがずっと続いてしまっているらしいのだ。

 私は、少しだけ音楽を仕事にしている。おそれ多くも人様から「プロ」と呼んでいただける機会がある。専門は、歌だ。

 だから分かる。コヤマさんは、精神的にかなり“きて”しまっている。

 私もそうなのだが(この書きざまも大変におそれ多いのだが)、精神的にメタメタな状態でも、とりあえずギターを弾いたり歌ったりはできてしまうのだな。それまでの貯金があるとでもいうのか、ギターを持てば指は半自動で動くし、声帯が健康であれば声は出るのだ。

 だが、当然、精密さはない。筋肉を緊張させ続けられないのだ。そういう“弛緩”するシーンというのが、現在のCIVILIANのライブでは多々見受けられる。

 最後のツアーだからといって、最後の気力を振り絞って歌っているのだろう。

 ついでに書くと、演奏や歌唱という行為には、それだけである程度、精神を整える効果がある。音を出すと、スッキリする。ステージに立つというのは、ちょっとした治癒効果がある。

 とはいえ、だ。

 この状態は、良くは、ない。

 状態の悪いライブを続けてしまっているのもそうだが、なにより良くないのは、ケツが決まっていることだ。

 九月には、もう“これ”をやらなくてよくなるのだ、と思ってしまっているかもしれない。これが、一番よくない。

 解放されたような心地になるのであればいいが、巨大な“燃え尽き”がおとずれる可能性も、ある。

 しかもそれは、ボーカルとして、大変に不本意なステージを繰り返したあとだ。

 私だったら、ここは解散ライブを一年ばかり延期することを選ぶ。

 歌える状態ではないからだ。

 などと、好き勝手に思ってしまった。