2026.1/1 19:52~

 図書館には『手紙』コーナーがある。

 いや、そんな名称の棚はない。海外も含めた過去の有名作家・文豪たちの書簡が収められた本が並んでいる場所だ。実際には『文学評論』のようなラベルがついている。覚えていない。そこを私は『手紙』コーナーと呼んでいる。

 冷静に考えれば、なかなか失礼な、というより率直に酷いとさえいえる。故人の、あくまで私信として書かれたものをこうつまびらかに公開してしまってよいものだろうか。だろうか、ではない。よくない。これは明らかだ。

 しかしながら、面白いのだな。困ったことに。

 フランツ・カフカのそれなど、小説本編よりも―――やめよう。

 カフカの元婚約者(何度かフランツが破棄と婚約を繰り返した)フリーツェ・バウワーが大切に保管していたらしい。逆にフランツ宛に書かれたフリーツェの手紙はほとんど残っていないそうだ。

 頑固な割に優柔不断、というより竹を割ったような判断を下さないことにかけては徹底した頑固者であったカフカに振り回されるような日々であったと推察されるが、どうやらどうあれ、フリーツェはフランツを一貫して愛していたようである。だからといって、マックス・ブロート(カフカ没後に未完だった小説を世に出した友人)や研究者にすべて渡してしまうのは、本当にどうかと思う。

 

 ……。

 

 ここまで書いて、一週間近く放置してしまった。

 少し中断して『親愛なる自殺志願者へ』に取り掛かり、ブログの方は後で書こうと思っていたのだが、なんとなく飽きてしまったようである。

 

 一応、結論としては、インターネットの発達で面白い私信が読まれる機会はなくなってきてしまったといったところなのだろうか。

 

 ブログは、私信ではない。誰も読んでいないが、世界中の人々が読めてしまう。そこには、手紙がもつある種の情緒が消え失せてしまっている。

 

 LINEやメッセージアプリのようなSNSでもそうだ。手紙に近いが、なにかが違ってしまっている。たとえば先日亡くなった東野圭吾氏のLINE(やっていたのかどうは置いておいて)がなにかの弾みで公開されてしまったとて、あまり面白そうではない。

 

 だからもう、小説を手紙のように書くしかないのだろうと、私は思う。

 

 フィクションこそがドキュメンタリーであり、ノンフィクションこそ虚構的であらねばならない。

 

 さきほど、ネットフリックスで『ファーゴ』を観た。

 

 冒頭、コーエン兄弟監督は「これは実話である」と大嘘をこく。カットのそこかしこに、アメリカのほら話のひとつポール・バニヤンを配置したり虚言症の男をやや唐突に登場させたりして「このお話もそうだよ」と示しているのだろうが、あまり良い趣味とはいえない。

 

 しかしやはりこれも、完璧なフィクションを描くためには必要なことだったのだろうなと、理解はできる。映画のドキュメンタリー性を高めるという意味で、だ。繰り返すが、趣味は良くない。

 

 冒頭の大嘘はいただけないにしても、全体としてとても面白い作品ではあった。きゅっとまとまっている。編集もキレがいい。無駄話が多く3ラリーで終わる会話に10はかける田舎特有の会話劇も、無駄といえば確かにそうだが不思議と飽きはしない。

 

 主人公が「マイペースなタフさ」を象徴するようなキャラクターで、登場からラストシーンまで揺るがず、やや皮肉な表現になってしまうが「およそ想像されうる限り理想的で幸福な人の玉座」から降りることがないのも良い。社会的な地位もあり、有能で、二ヶ月後には初産を迎える彼女の足元で、間抜けな犯罪者たちが虫のように右往左往し、破滅していく。観客はそれを、どこか居心地悪く笑うのだ。

 

 この映画でもっとも辛苦に満ちたラストを迎えるのはやはりランディガード夫妻の息子だろう。祖父と母は殺され、父は逮捕、さらに彼らの死の元凶はその父親だ。いたたまれない。

 

 『ノーカントリー』と同じく、特に理由のない暴力の化身のようなキャラが登場する。こいつの存在こそが、この映画をもっともコメディたらしめていると思う。

 読んでもいないくせに、適当にツールを使って押されたいいねが、小汚く今日も光っている。

 

 設定で拒絶すればいいだけなのだが、実のところ、私はこの手の“汚し”がかなり気に入ってしまっているのかもしれない。

 

 昨日の夜、ふと、SNSを復活させてみようかという考えが意識にのぼった。

 

 つまり、ここで書いているこの閉鎖的で自閉的で自己充足的な内容を、各種SNSにも書いていこうと思ったということだ。

 

 きっと、心地いいだろう。と、思った。

 

 それと同時に、それをなんであれ読まされる人にとっては苦しいだろうな。とも、思った。

 

 北野武が『あの夏、いちばん静かな海』で「お前は気持ちよく撮ってるんだろうが、観てる方には厳しい」と勝新太郎に言われたという話がウィキペディアにあったが、そういうことだ。

 

 自分の殻に閉じこもるのはいい。その殻をどんどん固くしていくのもいい。しかし、誰も何も外から関われない・介入できないほど固くした殻の中で行われることを、多くの人の目に触れる場所へ出してはいけない。と、私の中の公共心が言っている。

 

 別に北野映画のように全国ロードショーするわけではないのだから、いいではないか、とも思う。実際、このブログで行われていることは、そういうことだ。誰も読みになどこないし、読まれたいとも思っていないが、全世界の人々が読もうと思えば読めてしまう。

 

 SNSをそういう風に使っている人も、少なからず存在するだろう。

 

 しかし、しかし。

 

 できるからといって、また、自分が他者のそういうものを読まされても何の痛痒も感じない人間だからといって、「俺がいいんだからいいだろう」という論理でなんでもやってしまうのは、いかがなものか。思考はそのように循環している。

 

 そこには、抑制的でいたい。遠慮の気持ちを持っていたい。

 

 これはある種の、慈悲的な見下しを含んでいる。

 

 だからこそ逆に「やってしまえ」と思う自分も発見できる。

 

 どうしたものか。

 

 タガを、もう一段外すか、どうか。

 今日は夕方にライブがある。ほぼ月一定例のようになっているライブハウスでのステージだ。

 

 ギターの弦がかなり錆び付いていて、いい加減換えなければいけないと思ったまま、その弦でそのステージをすでに三回こなしてしまっている。

 

 というわけで、替えた。

 

 かかった時間、巻き数、チューニングの具合、今までで一番の出来と言えるゲージ交換だった。

 

 ただ、いつ買ったのか分からないギターケースの奥から発掘された弦でやってしまったのだった。

 

 

 どうやら、普段使っているダダリオフォスファーブロンズからフォスファーを抜いたものであるらしかった。フォスファー(Phosphor)は名詞では明けの明星のことだが、ここでは青銅に含有されたリンのことをいう。これがあるのとないとでは、音も値段も文字通り段違いなのである。遠い昔にアマゾンで間違って買ってしまったのだろうな。

 

 なので、美しい巻きに対して、なんとも音が安っぽい。

 

 哀しいことに、錆び付いたフォスファーブロンズの方がよほど良い音である。

 

 ままならんな。

 

 少し話は変わるが、私は今日まで、ライブ中に弦を切ったことがない。

 

 かれこれ弾き始めて20年近くになろうとしているが。

 

 ここに至ると、逆に切ることに奇妙なあこがれが芽生えてもくる。

 

 一回のステージで三本切れた共演者と現場に居合わせたこともあるが、いったい私の演奏と何が違うのだろうな。

 

 そんなことだから、ダラダラと弦を換えずに弾き続けられてしまうというのもある。

 

 物持ちの良さとは、ある種の怠惰だ。

 

 なるほど、私はたしかに、怠惰を深く愛している。尊敬している。崇め奉ってさえいるかもしれない。

 

 そんな者は、ステージで弦を切る資格がないのかもしれない。

 

 そんなことを言っていて、今日切ったりするのだがな。