2026.1/1 19:52~

 

 

 

 

 

 

15年叫んでる 同じようなメロディ

 

 a flood of circleはこの曲で初めて知った、というわけではないのだが、それまでは認知しつつもあまり響いてこないバンドであった。だが引用した歌詞が耳に入った瞬間、いきなりプレイリストの上位に躍り出たのだった。

 

 私はこういうところがある。ACIDMANもストレイテナーも、なんならL'Arc~en~cielでさえ、キャリアをある程度重ねてから出した“ある一曲”で急に好きになった。

 

 で、フラッドオブサークルの話である。

 

 ちょうど上述した“虫けらの詩”をリリースしたタームで、ボーカルの佐々木亮介が、名古屋のFMに出演していたのを偶然聞いた。

 

 本人が自分自身を「別にストリート出身というわけでもなし、割と裕福な一般家庭に育ってハングリーなパンクをやってるちょっと恥ずかしいやつ」と、非常に批評的に見ていたのが印象的だった。聞き手の女性DJからも「ひとつひとつ逆を張って、世界に対してこれがパンクだって主張してるんですね」という評に、苦笑いで恥ずかしがっていた。

 

 苦笑いのパンク。これなのだ。私の感性に響いたのは。

 

 衝動的にやっているようで、やりきれない。ある種の含羞(がんしゅうと読む。私は今日初めて知った)が根底にある。「衝動的にやってるようで実は狂い切れてないんだよね、ごめんね」とでもいうような立ち居振る舞い。

 

 衝動性を批評的にやっちゃってる自分を鳥瞰できちゃう含羞と苦笑のパンクロッカー。これが、佐々木のたどりついたセルフブランディングなのであろうし、それでいて「だせぇことやってるな、おれ」と、己を冷徹に裁き続けている。ように、私には見える。

 

 武道館の客電を点けたまま、簡素なステージでモニターもなしに(これはさすがにイヤモニを使っていないというだけの話だとは思うが)二時間強のステージを終え、あとは酒を飲みながら普通にステージを降りて、終演。というのも、まぁ要するに「やってる」わけではある。無頼気取りを演出している。それを、お客さんもきっと察している。15年以上続けてこられたのは、そうしたリスナーとの丁寧な関係の醸成もあるはずだ。

 

 音楽性に反するかのように、頭が良すぎるバンド。

 

 しかし、おそらくどのバンドやアーティストも、基本的には頭のいい人たちばかりだとは思う。そうでなければ生き残れる業界ではない。その業界の端の端の先端にかろうじて片足でぶら下がっているような私でもそれは分かる、それは間違いない。 

 

 それにもっと早く気付いていれば、より中央に近いところに行けただろうか。無理だろうな。私はそもそも、歌が下手すぎた。

 

 こういうのが気になっているときは、あまり進捗はいいとはいえない。

 

 書いている小説でひとつ、予定していた山を越えたという感触があり、すこしへたばってしまったような今である。まぁ、こうして毎日2,155文字ずつ書けているのなら、問題はないのかもしれないが。

 

 できれば4,000文字、つまり400字詰め原稿用紙10枚ずつくらいのペースは維持したいところではある。

 

 私は、ついつい会話文を長くしてしまう癖があるので、4,000字だと12枚くらいになるかもしれない。ほら、こういうことが気になってしまう。

 

 キャラが話し出すと止まらないのは、もう小説を書き始めて以来ずっとである。

 

 おおよそ話の筋に関係ない雑談さえ始まる。お前たち、そんなことを喋っている場合か。だが、個人的にはこういうダラダラとした無駄話、無駄足な描写こそ好きだったりもするのだ。

 

 レイモンド・チャンドラーの『ロング・グッドバイ』などは、本筋のみで構成すればページ数は半分で済むのでは? と思うが、フィリップ・マーロウが真実の手がかりに繋がるかもしれない依頼の人探し(この時点ですでにして愛おしくくどくどしい)をするエピソードで、しっかりと空振りに終わる捜査まで描写され、それがちゃんと面白いのだから始末に負えない。

 

 村上春樹もそういうところが好きだと解説に書いていた気がする。

 

 私が子供の頃の通年アニメも、そんな“空振り”や“寄り道”で尺を稼いでいた。夕方5時から7時までの、うるわしき無駄、すばらしい無為な時間の記憶。たまに無料公開などされてみると、ほとんどがあまりの出来の悪さに観ていられないが、そんな中で宝石のように光る回が、そういう無駄話だというのもよくあるのである。

 

 時間が足りない、と誰もが思っている。これは、おそらく、ただしい。

 

 全人類史的に見ても、我ら個々人の一生など一瞬にも満たない。全地球史的に見れば。宇宙史では。沸騰した鍋で泡が生まれ弾けるよりも早いはずだ。だから、我々には時間が無い。その認識で合っていると思う。

 

 私は、おおよそメジャーなものの良さは分かる方だと思う。つまり感性がベタにできているということだ。ハマるかどうかは別として、触れておもしろいとは思える。

 

 そういう中で、唯一おもしろいと思ったことが無いのが『サザエさん』なのだな。

 

 あのアニメーション作品の何がおもしろいのか、まったく分からない。ちびまる子ちゃんには強烈に思い出せるエピソードが二つ三つあるが、サザエさんには、ただのひとつも思い浮かばない。

 

 おもしろさが理解できないまま、ずっと観ていた。それもおかしな話だが、そういう家庭は少なくないと思う。わざわざチャンネルの変更権を行使するほどでもないから。

 

 そして、ああいう時間も豊かであったと、そう思えるわけだ。

 

 まるでおもしろさの分からない、記憶にも残らないエピソードを、飯を食いながらただ漫然と見続けていた。そういう体験が、今現在の創作に繋がっているのは、これも確かなのである。

 

 時間はない。それは分かる。

 

 だが私たちは、それでも、おもしろくもつまらなくもない時間を過ごした方がいいのではないか、と思う。

 

 これは日曜の三十分間をつまらんアニメで浪費した日々の代償行為、ある種の合理化・自己正当化かもしれない。さっきから長寿アニメをこき下ろし過ぎでもある。愛好家の方々には申し訳ないとは思う。

 

 さて。

 

 あと2,000文字、なにか書いておくか。つまらぬ文章を。このブログですでに1,500文字くらいはあるが。

 

 

 

 

 

 眠りたくないのは起きねばならないからだと気付いた。

 

 起きるために寝るくらいならば、と、そんなヤケな気持ちなどではなく、起きるために今ここで眠るという行為を選択せねばならないと感じることにうんざりとしてしまうのだ。

 

 五月病を前借したような気分だ。

 

 くだらない通知とくだらないメールとくだらない電話が同時に着て、とても不愉快だ。

 

 そういうものがかかってくる社会的な関係性をすべて捨て去ってしまえない自分にこそ苛立っているのだろう。

 

 これでも、昨年から今年までで、ずいぶん捨てられた方なのである。

 

 まぁひとつ、それっぽい人間の振りができて少し楽しかったというのは、たしかにある。

 

 つまり、社会人であるかのような人間のことだ。

 

 うれしさは、多少はあった。これは認めよう。

 

 認めるからこそ、もうたくさんだ。

 

 あまりにも虚しい。

 

 このままでは、ひどい方法で自殺しそうである。

 

 ひどい方法では、自殺はできるだけ、したくない。

 

 嘘の自分を守るための、遁走としての死は、まさにそれだ。

 

 ならばどこかに真(まこと)の己がいるのかと問われれば、いない。

 

 外向きの自分も、内向きの自分も、どちらも同様に他人のごとく思える。

 

 そこまで自分をバラバラに、めちゃくちゃにしなければ生きていけなかった自分に対しては、他人事ながら、いや他人事ではないのかもしれないが、とりあえず率直に、憐憫の情を覚える。

 

 私は頭がおかしいのだろう。

 

 問題は、おかしいことではない。

 

 ひょっとしたら、別におかしくない可能性がある。そのことが、なによりも問題なのだ。私が正しい側である場合、人類は、あまりにもかわいそうな存在となってしまう。

 

 あまり、そうであってほしくはないと思う。

 

 私が信じていないもの、信じられないもの、信じようと努力してみたが無理だったものが、人類にとっての正しさであってほしいと、これは本当に思っている。その結果として、私の人生がどれほど損なわれるとしても、だ。

 

 ふたつにひとつだ。

 

 まぁ、大丈夫だろう。

 

 書いて書いて、落ち着く。

 

 自己療養だ。まさに正しく。

 

 では、寝よう。いやであっても。