図書館には『手紙』コーナーがある。
いや、そんな名称の棚はない。海外も含めた過去の有名作家・文豪たちの書簡が収められた本が並んでいる場所だ。実際には『文学評論』のようなラベルがついている。覚えていない。そこを私は『手紙』コーナーと呼んでいる。
冷静に考えれば、なかなか失礼な、というより率直に酷いとさえいえる。故人の、あくまで私信として書かれたものをこうつまびらかに公開してしまってよいものだろうか。だろうか、ではない。よくない。これは明らかだ。
しかしながら、面白いのだな。困ったことに。
フランツ・カフカのそれなど、小説本編よりも―――やめよう。
カフカの元婚約者(何度かフランツが破棄と婚約を繰り返した)フリーツェ・バウワーが大切に保管していたらしい。逆にフランツ宛に書かれたフリーツェの手紙はほとんど残っていないそうだ。
頑固な割に優柔不断、というより竹を割ったような判断を下さないことにかけては徹底した頑固者であったカフカに振り回されるような日々であったと推察されるが、どうやらどうあれ、フリーツェはフランツを一貫して愛していたようである。だからといって、マックス・ブロート(カフカ没後に未完だった小説を世に出した友人)や研究者にすべて渡してしまうのは、本当にどうかと思う。
……。
ここまで書いて、一週間近く放置してしまった。
少し中断して『親愛なる自殺志願者へ』に取り掛かり、ブログの方は後で書こうと思っていたのだが、なんとなく飽きてしまったようである。
一応、結論としては、インターネットの発達で面白い私信が読まれる機会はなくなってきてしまったといったところなのだろうか。
ブログは、私信ではない。誰も読んでいないが、世界中の人々が読めてしまう。そこには、手紙がもつある種の情緒が消え失せてしまっている。
LINEやメッセージアプリのようなSNSでもそうだ。手紙に近いが、なにかが違ってしまっている。たとえば先日亡くなった東野圭吾氏のLINE(やっていたのかどうは置いておいて)がなにかの弾みで公開されてしまったとて、あまり面白そうではない。
だからもう、小説を手紙のように書くしかないのだろうと、私は思う。
フィクションこそがドキュメンタリーであり、ノンフィクションこそ虚構的であらねばならない。
さきほど、ネットフリックスで『ファーゴ』を観た。
冒頭、コーエン兄弟監督は「これは実話である」と大嘘をこく。カットのそこかしこに、アメリカのほら話のひとつポール・バニヤンを配置したり虚言症の男をやや唐突に登場させたりして「このお話もそうだよ」と示しているのだろうが、あまり良い趣味とはいえない。
しかしやはりこれも、完璧なフィクションを描くためには必要なことだったのだろうなと、理解はできる。映画のドキュメンタリー性を高めるという意味で、だ。繰り返すが、趣味は良くない。
冒頭の大嘘はいただけないにしても、全体としてとても面白い作品ではあった。きゅっとまとまっている。編集もキレがいい。無駄話が多く3ラリーで終わる会話に10はかける田舎特有の会話劇も、無駄といえば確かにそうだが不思議と飽きはしない。
主人公が「マイペースなタフさ」を象徴するようなキャラクターで、登場からラストシーンまで揺るがず、やや皮肉な表現になってしまうが「およそ想像されうる限り理想的で幸福な人の玉座」から降りることがないのも良い。社会的な地位もあり、有能で、二ヶ月後には初産を迎える彼女の足元で、間抜けな犯罪者たちが虫のように右往左往し、破滅していく。観客はそれを、どこか居心地悪く笑うのだ。
この映画でもっとも辛苦に満ちたラストを迎えるのはやはりランディガード夫妻の息子だろう。祖父と母は殺され、父は逮捕、さらに彼らの死の元凶はその父親だ。いたたまれない。
『ノーカントリー』と同じく、特に理由のない暴力の化身のようなキャラが登場する。こいつの存在こそが、この映画をもっともコメディたらしめていると思う。