マヒトゥ・ザ・ピーポーと「言行一致」の強迫観念|Mechasailuck
「面白い、面白い」と声に出しながら読んだ。
昨日の今日でまた同じ話題だ。
マヒトゥ・ザ・ピーポーの政治的発言についてはまったく知らなかったし、そもそもGEZANが私の音楽的趣味からするとだいぶ遠い、どれくらい遠いかというと、楽曲を聞いてもっとも私の守備範囲に近いバンドがRADWIMPSになってしまうくらい遠いので、こんなアホらしい事件が起こらなければわざわざ言及さえしなかった。
つまりリンク先の筆者が書かれているように、事態の馬鹿馬鹿しさ・くだらなさがある臨界を超えたところにある興味深さ、というのが、この一件にはあるということなのだろう。
言行一致、整合性、連続性、一貫性、そういうものに人はついつい執着しがちで、それゆえこのように破滅するのだという話は、やや小説的すぎるきらいこそあるものの、納得できるものであった。
もうひとつ、時代の尾根という独特なワードも琴線に触れた。
尾根には、私自身、嫌な思い出がある。小学生の時、学校行事の登山で尾根に置いてけぼりにされたのだ。あれは今考えてもあってはならない事態だったと思う。私がデブでどんくさくて集団からどんどん遅れて行ってしまったことを含めても、だ。
私が時代の尾根にまつり上げられることは、今後の人生で一切ないだろうが、ひとつ気を付けておきたい。
なぜか。
今、小説を遅々と書いている。
6月にいったん書き終えられたもののように、スラスラとは書けない。
内容が、かなり暴力的なためだ。
それが小説の要請する要素であるので書かねば始まらないのだが、あの手の刺激的でアテンションな描写に、やや二の足を踏んでしまう自分がいる。
なんとなれば、マヒトゥが滑落していった時代の尾根にも、その手の刺激的でアテンションな言葉の嵐が吹いているからだ。『みいちゃんと山田さん』も、そうかもしれない。
そういう場所に、たとえ端っこであろうと立ちたくないと思うチキンな自分がいるということだ。
しかし、そうはいっても手は動いてしまった。
どうせほとんど誰にも読まれないのだから、大丈夫だろうが。
私が今書いているのは、明らかな怒りの物語だ。
思えば、怒りを表現しようと思ったことさえなかった。
初めてそれを書かねばならないと、手をむずむずとさせているのである。
書いてから考えよう。この時代の尾根にたどり着いてから、引き返すのもいいだろう。