2026.1/1 19:52~ -2ページ目

image 割り箸が割れすぎた。

 

 片方が壊れただけなのに、取り換えるしかない。

 

 ふたつになるためにひとつであったものだから、ひとつとひとつになってからも、たどる運命は一緒だった。

 

 などとロマンチックに書いてみたところで、割り箸である時点ですべてが台無しである。

 

 歌の詞にはできないタイプの哀しみというのがあるのだ。

 

 だから、この事象が起こった昨日の夜、私はどうしてもこのことをブログに書こうと思った。しょうもないからこそ。

 

 私の街にある、四方に四棟を構える市営団地の古いマンションは、歌詞にはならずとも、詩にはできそうである。電車で帰る窓の先に、廊下が弱い蛍光灯で煌々と光る様を見るなどすると、何か語りたくなる。

 

 だが、割り箸は本当にどうしようもない。なんのメタファー性もない。ピンボール台で物語をひとつ書き切って芥川賞候補になった村上春樹でも、割り箸は無理なはずだ。

 

 そういえば、村上春樹の新作がでるそうだ。

 

 読みだしたのが昨年からだが、長編と中編に関してはすでにすべて読んでいる。あとは短編といったところで、毀誉褒貶はげしい作家だが、私としては、かなり好きだといえる。現時点での最新作『街とその不確かな壁』が、一番読んでいて心地よかった。最新作を面白いと思える作家は、そう多くない。

 

 ただし、一本だけどうしても合わなかったのが『色彩を持たない田崎つくる~』だ。

 

 全長編の中で、唯一、読者を説教する雰囲気をもった小説であると思う。執筆当時の作者の意識として、どうしてもそれを書いておかねばならなかったのだろうが、そういう部分の希薄なところに好ましさを感じている読者であったので、これは仕方のないミスマッチだろう。

 

 突然の絶交は震災やテロなどのメタファーであり、理不尽に断ぜられた者の心の救済を描きたかったのであろうが、そうであるなら、つくるは名古屋でアカ・アオを順番にぶん殴り、フィンランドでクロもひっぱたき、ラストシーンはシロの墓に「君を辛かったのだろうが、それはそれとして僕も君に冤罪をかけられたのだから」といって工事用の安全靴で蹴りをいれる。彼は暴力を振るうべきだった。そうした激情の発露こそが救済の入り口に立つことなのだと、私は思ってしまう。

 

 アカの新社会人へのコンサルも、ひどく不愉快であった。私がああいうことを言うコンサルタントに出会ったら、その場でケンカを始めていると思う。俺の指を詰めていいからお前のも詰めさせろ、などと言ってしまうだろう。こういう、内面のただならぬこらえ性の無さというのも、私が村上作品のキャラクターにシンパシーを感じる部分ではあるのだが。

 

 まぁ、とはいえ、最新作、楽しみである。

 

 もし主人公が、割れた片っぽだけの割り箸を大事そうに持っているキャラだったらどうしよう。私の振る舞いは置くとして、もしそうだったとしたらすぐにでもノーベル文学賞を授与すべきだとは思う。

 小説を書いている。

 

 三年以上、物語らしきものは何も書けていなかった。なにか思うところがあったということもなく、いや、なにかしら思うことはあったが、結局のところ、書かなかった時期と再び書き始めたこのときを線で結べば「何んとなく書いていなかった」となってしまう。

 

 このまま書いていてもしょうがないな、という気分はあった。かもしれない。

 

 この道の先にはなにもないことが分かり切っていて、それでもいいと思っていたはずが、ちょっとだけそう思えなくなった。もうちょっと、文章というものに真正面から向き合ってみたいと思った。

 

 “ちゃんとしたもの”が書きたくなったということだ。

 

 だから書けなかったのだ、という面も、なきにしもあらず。当たらずとも遠からず。かっこつけても怠惰は隠せず。

 

 書かなかった数年の間に、歌でひとつ、結果が出せたというのもある。かりそめにも音楽でプロを名乗れる立場になれたという経験をして、ならば次は書くことだと。本にして売りたいということではない。客観的に見て「良し」と思われるものを一発書いておきたいと、ささやかな野心が生まれたのである。

 

 そして昨年のこれくらいの時期に、今書いているのとは違うタイトルで、ほんの数千文字をしたためた。

 

 手ごたえがあった。

 

 これまでとはまったく違う、小説らしきものが書けているという手ごたえがあって、またぞろそのまま一年近く止まってしまったのだが「いつでも行ける」感覚だけは持ったまま、ようやく先月から再始動となった。

 

 今のところ、その「行ける感」は続いており、ここ二日ほど暗渠のトンネルに差し掛かってはいたのだが、無事、抜けられた。

 

 面白くない物語を書いている。

 

 これまで書いてきた小説が、なんとも読むに堪えないのは、読み手を意識しすぎるあまり、文体がぐちゃぐちゃになってしまうところにあると分析した。

 

 なので逆に、今回は徹底的につまらないものをつまらないまま書いてやろうとしている。それが、上手くハマってくれている。

 

 いかんともしがたい誘惑はある。ついつい「いくらなんでもダイナミズムが無さ過ぎやしないか」などと考え、話に無理なオチをつけようとしたり、展開に文字通り爆発を起こしたくなったりする。

 

 まさにここ二日ほどの暗渠というのが、そういう惑いであった。自ら信念を持って書いたつまらない文章のつまらなさ加減に、自らうんざりし始めてしまっていた。

 

 救ってくれたのは、二人の作家だ。スティーブン・キングと村上春樹。

 

 まずキングの『ビリー・サマーズ』という2021年に出版された長編小説を完読した。これでひとつ、物語を物語ることの恐怖を払しょくできた。

 

 そして今、村上春樹の『風の歌を聴け』を読んでいる。初めて読んだが、いよいよもって「これでいいのだ」というバカボンのパパ気分になれている。

 

 これでいい。進む道が間違っていなかったと、ある程度の確信を持てた。

 

 偉大で巨大な作家たちの助けを借りて、小説を書いている。

 

 書けていることが喜びだ。苦しみでもある。寿げる苦しみだ。

 

 

 記事の内容とは関係ない部分で、強烈に思い出すことがあった。

 

 あるクリニックで一度だけカウンセリングのごときを受けたときに、カウンセラーがノートPCでこちらの発言をメモしていたのだが、それが気になって仕方が無かった。

 

 音ではなく、指だ。

 

 私はワープロ検定を持っていて、いわゆるブラインドタッチを習得しているのだが、そのカウンセラー氏の指使いが明らかに変だった。しかもそれでいて妙にタイピングが早い。どこでどうその変なブラインドタッチを習得したのかが気になり、面談に集中できなかった。

 

 もちろん、何事にも習熟というのがあり、守・破・離があり、実際にカウンセラー氏もワープロ検定一級保持者だったかもしれないが、それにしても、という感じであった。

 

 もうひとり、こちらは長年付き合いのあるカウンセリングルームの方は、昔ながらの手書きのメモでセッションに応じてくださり、これはよかった。話すことに集中できた。

 

 なんとなれば、適度に目線が外れるからだ。

 

 話をするときに、延々とこちらにまっすぐ正対されると言葉が詰まる。こちらとしても、基本的に近しい人にさえ話せない内容を話すのであるからして、相手と目を合わせるような気の遣い方はできない。適度にメモ帳に視線を落としてくれると、いい息継ぎになる。

 

 と、これはこちらが完全なる客の立場となれるカウンセリングの話だ。

 

 本当に、記事とは何の関係もないな。

 

 私はといえば、PCでも手書きでもなく、もっぱらスマホのフリック入力がメモの主力となってしまった。

 

 しかし、こちらは音もなく、視線もかなり自由ゆえ、悪くないのではないか。

 

 フリック入力は、左手の親指派だ。

 

 これにも、さまざまに流儀があるかもしれない。「どうして両手ではないのか」「人差し指の方が早い」などと思われているのだろうか。思われているのかもしれんな。