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 アマプラで『マイノリティ・リポート』を観た。

 

 そこにあることを今日まで知らなかった。どうにもネットフリックスと比べて、そういう点での検索能力が低く感じられる。そのサイトだけで完結しないタイプのサブスクなのでしょうがないとは理解しているが。

 

 なにはともあれ、観た。

 

 素晴らしい。

 

 その一言だ。

 

 粗はあるのだろう。私自身、久しぶりに観ると「ちょっとアクションシーンが長いな」と思わないでもないが、そんな些末な部分はどうでもよろしい。

 

 圧倒的な未来世界のイメージと、そこに同居したスラムのすえた匂い、100%予知可能な計画殺人をどう実行したのかというSFミステリの爽快感、どれほど辛く苦しくとも父であり警官であり続けようとする主人公のドラマ、語り出せばきりがない。

 

 これを小学生のときに映画館で観られたということが、広く創作に向き合う上での強烈な原体験となっている。だからこそ、評価もかなり甘くなっているであろうが、誰にでもそういう作品はあるはずだ。

 

 これと『ブレードランナー2049』は何度でも観れてしまう。

 

 小説やアニメ・漫画・ゲームにも、そういう作品がひとつふたつある。なんなら食事のメニューにさえ毎日毎食でも食い続けられるというものがある。

 

 そういうことが苦にならない性格、というのも、もちろんあるのだろうが、なんでもいいというわけでもないので、やはりある種のマッチングというか、相乗効果があるのだと思う。

 

 ただそれだけを摂取し続けられる、三畳一間の座敷牢などがあればと妄想してしまう。

 

 というか、おそらく文明人の行きつく最上の空間がそれなのだろう。

 

 徹底的に孤立しながら、精神的にもっとも満たされた状態。

 

 我々はそういうものを目指すべきなのだろう。

 

 それは、四半世紀前のスピルバーグさえ描けなかった真なるユートピアの姿なのだ。

 

 

 これを読み

 

 

 

 これを思い出した。上手くリンクが貼れていない可能性があるので解説しようかと思ったが、そういうことはもう面倒くさくなってしまったのだった。

 

 どうしてザコに憧れているのか、という点で考えると、件の卒業式はりょうすけ氏の勝ちであろう。

 

 なんとなれば、事情はどうあれ人間同士のケンカは、最終的に“筋取り合戦”に落ち着くからだ。

 

 教師はりょうすけ氏の名を呼ばず、氏は教師のその振る舞いを受け入れた。

 

 筋を通したのはどちらか、考えるまでもない。

 

 逆に、どうして教師氏の方は「わたしはダサい人間です」「わたしは頭のおかしな教師です」と、全校生徒と職員たちへ高らかに宣言するような振る舞いを、せざるを得なかったのだろう。

 

 そこまでのことをしてもやらずにはいられなかったのだろう、と考えるのが普通だろう。実質的にはどうあれ、当該生徒を「いないもの」として扱うことで形式的には勝ちたかったのだ。どうしても。

 

 難儀なことである。

 

 教師氏にとっては、りょうすけ氏の名を呼ぶのは己の信義にもとることだったのだ。自分以外のすべてから否定されても、それによって教師氏の内面は崩壊を免れるのである。

 

 確かに、人間、最終的には、自分の外側がどれほどメチャクチャになろうとも、内側の自尊心さえ保てればいいのかもしれない。それはある種の孤高なのであり、ひとつのライフスタイルではある。

 

 自己を保つために、他者を損なう。無論これは社会適応的には悪と呼ばれるもののする行為であるが、生物として動物として人間として「生き残る」方を選ぶことを、そう簡単に断じてしまうのは躊躇を覚える。

 

 メンツが潰れたら死んでしまうというなら「まぁ、しょうがなかろう」と言うしかないという面も、確かにある。たとえ、客観的にはそのどう考えてもどうでもいいプライド以外のすべてが潰れているとしても、だ。

 

 私がりょうすけ氏の同級生で、その式典の場面に出くわしたら、笑い過ぎて椅子から転げ落ちてしまうかもしれない。

 

 私も、己の内側にこもるタイプではあるが、特に守りたいものはないのだな。

 

 壁は作れど、空っぽ。

 

 私も、多少は難儀な類なのかもしれない。

 昨夜は賑やかだった。

 

 パトカー、救急車、消防車、すべてのサイレンが一斉に響き去っていった。

 

 午前に図書館へ向かう途中も、苦しそうな咳をしている人がアパートから搬送されていた。

 

 ここ数日、急に暖かくなったからだろうか。寒暖差はただ寒いというより危険だ。

 

 そして、明日からまた寒くなるらしい。

 

 やめておこう。

 

 天気や気候の話をしだすと、そちらに文章が引っ張られてしまう。

 

 私は、このブログを読めば分かるように、文章を書くのに苦労するタイプでは、あまり、ない。

 

 それだからこそというのか、筆が摩擦を失いやすい。脇道へ脇道へ、路地裏へ路地裏へ、ひどくどうでもいいことを延々とだらだらとグダグダと書き続けてしまえる。本題というメインストリートは、かくして遠くなりにけり、となる。

 

 まぁこのブログに関しては、本題などないのだが。

 

 閃光のハサウェイを観に行った。やはり私は、ハサウェイの姿に悲しみの涙を禁じえない。

 

 あそこまで完全な社会性を保ちながら、修復不可能なほどに精神が分裂してしまっている。必ずしも非適応的ではないからこそ、彼の認知はその自我の飼い主を反社会的な行動へと向かわせてしまうのだ。

 

 私などは、簡単だ。どこまでも非適応的だから、反社会的にもなりようがない。仮になったとしても、まったく大したことはできない。道端で人を殴ったとか、小売店でお菓子を盗んだとか、そういうチンケなことでさえ、できる気がしない。

 

 やる気が湧かない。これである。

 

 真に非社会的な人間は、他者を害したり、損なったりする能力すら喪失している。

 

 すべては己の内側の世界で起こっている出来事なのであって、外側で実際に痛み・苦しむ世界というのは、実際的ではあってもリアルではないのである。

 

 非現実こそが現実と化した人間、ある種の行き切った俗物であり、だらしない仙人でもある。

 

 そういうものになるには、ハサウェイはちゃんとし過ぎであった。理路整然と破滅していく青年の物語だ。これを涙なしで観られようか。

 

 ほとんど一年ぶりに映画館へ行ったことで、家でも映画を観られるようになった。そういう時期というのが、あるのだ。

 

 小津安二郎の『東京物語』を、アマプラで観たのだが、これはすごかった。

 

 いくら名作とはいえ、古い映画であるし、いかにも動きの少ない、物語らしい物語もなさそうでありながら二時間強の上映であったので、まぁ三日くらいに分けて観ようと、そう思っていたのであるが。

 

 これがしっかり一晩で観倒してしまったのだな。

 

 そろそろ退屈してきたなというところで、こちらのその心を読んだかのように展開を動かしてくるのだ。原節子の笑顔の向こうに、小津安二郎がそびえたっていた。

 

 さて、今晩は何を観ようか。