片方が壊れただけなのに、取り換えるしかない。
ふたつになるためにひとつであったものだから、ひとつとひとつになってからも、たどる運命は一緒だった。
などとロマンチックに書いてみたところで、割り箸である時点ですべてが台無しである。
歌の詞にはできないタイプの哀しみというのがあるのだ。
だから、この事象が起こった昨日の夜、私はどうしてもこのことをブログに書こうと思った。しょうもないからこそ。
私の街にある、四方に四棟を構える市営団地の古いマンションは、歌詞にはならずとも、詩にはできそうである。電車で帰る窓の先に、廊下が弱い蛍光灯で煌々と光る様を見るなどすると、何か語りたくなる。
だが、割り箸は本当にどうしようもない。なんのメタファー性もない。ピンボール台で物語をひとつ書き切って芥川賞候補になった村上春樹でも、割り箸は無理なはずだ。
そういえば、村上春樹の新作がでるそうだ。
読みだしたのが昨年からだが、長編と中編に関してはすでにすべて読んでいる。あとは短編といったところで、毀誉褒貶はげしい作家だが、私としては、かなり好きだといえる。現時点での最新作『街とその不確かな壁』が、一番読んでいて心地よかった。最新作を面白いと思える作家は、そう多くない。
ただし、一本だけどうしても合わなかったのが『色彩を持たない田崎つくる~』だ。
全長編の中で、唯一、読者を説教する雰囲気をもった小説であると思う。執筆当時の作者の意識として、どうしてもそれを書いておかねばならなかったのだろうが、そういう部分の希薄なところに好ましさを感じている読者であったので、これは仕方のないミスマッチだろう。
突然の絶交は震災やテロなどのメタファーであり、理不尽に断ぜられた者の心の救済を描きたかったのであろうが、そうであるなら、つくるは名古屋でアカ・アオを順番にぶん殴り、フィンランドでクロもひっぱたき、ラストシーンはシロの墓に「君を辛かったのだろうが、それはそれとして僕も君に冤罪をかけられたのだから」といって工事用の安全靴で蹴りをいれる。彼は暴力を振るうべきだった。そうした激情の発露こそが救済の入り口に立つことなのだと、私は思ってしまう。
アカの新社会人へのコンサルも、ひどく不愉快であった。私がああいうことを言うコンサルタントに出会ったら、その場でケンカを始めていると思う。俺の指を詰めていいからお前のも詰めさせろ、などと言ってしまうだろう。こういう、内面のただならぬこらえ性の無さというのも、私が村上作品のキャラクターにシンパシーを感じる部分ではあるのだが。
まぁ、とはいえ、最新作、楽しみである。
もし主人公が、割れた片っぽだけの割り箸を大事そうに持っているキャラだったらどうしよう。私の振る舞いは置くとして、もしそうだったとしたらすぐにでもノーベル文学賞を授与すべきだとは思う。

