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ライブハウスの最後尾より

邦楽ロックをライブハウスの最後尾から見つめていきます。個人的な創作物の発表も行っていきます。

どうも( ^_^)/

 

虚無にはよく落ちる者です。

 

 

 

高木幸一/俺はまだ恋に落ちていない

 

 

もし俺が何も悪いことをしていないのに独房的なものに入るとして、そこにたった一つだけ持ち込めるものがあったらギターと一緒に持って行きたい程度には好きな物語です。

 

「ひとつだって言ってんだろが」「全四巻もあるじゃねぇか」「仮定の条件をたやすく蹴っ飛ばしてんじゃねぇぞ」などの助言を受けてもこれは読みたい。

 

とはいえ実は十年くらい前に読んだきりで、このたび再読しせっかくなのでブログに書き残しておこうと思った次第です。

 

 

・あらすじ

 

高校二年生の赤井公(コウ)は友達の田所から引っ越しを手伝ったお礼として、美人の妹ふたりとお近づきになれる『アタックけん』なるけったいなものを貰う。

 

「俺はまだ……恋に落ちていない」などと面白クソ真面目なことをのたまい親友の爆笑を買いつつ、公は巨大企業の社長令嬢でもある田所恵衣美(エイミ)と詠羅(エイラ)と出会い、親交を深める。

 

そんな公に“試練”が訪れる。亡くなった田所家の祖母が遺した『お宝さがし』それは、二人の将来を左右する大事な遺言だった―――

 

 

・2011年当時にあってもレトロなラブコメ

 

公は見た目さえない平凡な少年ですが、妙に面白系なワードセンスを持ちピンチになるほど頭と口が回り出し他者のためなら自己犠牲もいとわない、作者のあとがきを借りると“ヒーロー”属性を持っているようです。

 

タイプの正反対なお嬢様姉妹をメインに据えつつ、同級生や中学時代のクラスメイト、ちょっと年上のお姉さん、かなり年上のお姉さんなどを丁寧に巡り巡っていく、ラブコメラノベの作法を押さえた内容にもなっています。

 

でしたが、世界観がぐっと広がる前に惜しくも四巻で完結です。小説としては四巻は続いた方ですが、ライトノベルとしては打ち切りの部類です。

 

敗因、というと失礼ですが、ちょっと内容がレトロだったかもしれません。

 

一応『社会階層の違う人間同士の恋』という壁はありつつ、派手な展開でそれを打ち破っていくわけでもなく、おもしれー男であるところの公がそのヒーロー性と誠実さと口八丁出八丁で切り抜けていく。

 

面白くも仕方なく地味です。

 

 

・ヒトとヒーローの狭間で

 

 

また、公のキャラクターを描写する上でもう一つ足りていない部分もあります。

 

特に二巻は公の行動に読者から批判が多かったようで作者本人も「今だったらプロットが通ってない」と認める程度にはフラストレーションのたまる展開でした。

 

しかし、この二巻に書かれた以下の部分、恵衣美のセリフです。

 

「(前略)あれが軟派じゃなかったら、なにが軟派なんだっつーの。きっと一生、あっちふらふら、こっちふらふら、困った子がいたら、日本全国駆け回るんじゃない? あ~ますます頭が痛い」(二巻P.195)

 

「(前略)第一、あんた(注・詠羅)お好みの揺るぎない大樹はきょうもウサギや鳥や森の仲間たちに構ってばっかで、ヒトの想いになんか、ぜんぜん気付いてないかもよ~? そんな態度のどこがいいんだか」(同P.195-196)

 

ちなみにこれは公の目の前で言っています。俺だったらその日の夜は寝られず昼寝するレベルです。

 

しかし『森の仲間~』とは言い得て妙だし、ヒーローたる公は硬派に見えて超軟派です。

 

なるほど、これがつまり、作者の描きたかったことのようです。

 

本来ラブコメの主人公にしておくにはちょっともったいないくらいの、いっそ世界でも救いに行く方が性に合ってるような少年が、ある種分不相応な立場に立たされて“ヒーロー”ではなく“人間”として苦悩し誰かを救う様を描きたかった、と解釈しました。

 

 

人間と英雄の狭間を描くために何よりも作者自身が苦悩している、そういうエネルギーが、この作品を好きな理由なのかもしれません。

 

 

文体はレトロ、を通り越して独特の境地にあり、数年前には新刊も出ましたがまたも二巻打ち切り、なかなかガツンとこないもどかしさもありますが、未だ作家活動は続け、今は小説家になろうでも小説を連載しています。

 

 

また、独房に持って行く一冊を書いてほしいと願うばかりです。

 

 

 

どうも( ^_^)/

 

 

ビルの五階で妙な動きをしていた者です。

 

自分でライブをやるばかりで人のをライブハウスまで観に行ったのはすっかり二年ぶりです。

 

二年前もCIVILIANで、今日も彼らです。

 

二年前が数千年前に感じるほど、いろいろと溜まっていたものを解き放ってきたような気がします。

 

CIVILIAN『灯命』リリースツアー

“三千年前の僕等へ”

名古屋公演

 

アルバム『灯命』と同じく“遥か先の君へ”から始まりました。

 

 

昨年に作品をリリースしたアーティストは、誰もが今ここにある切迫した危機感であるとか不安であるとか、はたまた無力感であるとかを描かずにはいられませんでした。

 

パンデミックが起こった世相の中であまり浮ついたことを歌えない縛りのようなものがあったし、そういう空気にミュージシャンは敏感だったように思えます。

 

不要不急の娯楽を商売にしているからこそ、なんらか世界に、社会に対して重みをもって受け止めてもらえるものをという意識が強かった。

 

そうなると自然、作品はドキュメンタリーなものになるわけですが、CIVILIANは少し違うことをやりました。

 

 

アルバムの一曲目から未来を描いてみせた。

 

しかもその3000年後の地球は、人知の及ばないイレギュラーな事態が原因で今にも滅びようとしている。

 

それはどういうことか。

 

自分の解釈は「世界はいつか必ず終わるけど、でもきっと今じゃない」というところです。

 

そこには希望と諦念が矛盾なく両立しています。

 

人間、死ぬより生きる方がずっと難しい。

 

絶望するより希望を持つことの方が何倍もしんどい。

 

 

こんな世界とっとと終わってくれという、人として健全でさえある呪詛は決して届かず、眠れないまま朝は来るし、八方塞がりのままどういうわけだが身体は前に向かって進んでいくし、そんなどうでもいいのにぜんぜんやめられない人生はある日ぷっつりとあっけなく終わりを迎えます。

 

 

『灯命』で描かれた「世界と未来はまだまだなかなかどうして続いていくようだぞ」という、微熱の希望と平熱の絶望は、一年の延期を余儀なくされた今ツアーでようやく皆と共有され、昇華されていったように感じます。

 

 

そこに、生まれてきた悲劇を呪う雰囲気はない。

 

ただただ、祝祭としての音楽が静謐な爆音で鳴り響いていました。

 

美しい時間でした。

 

二年前の自分へ、CIVILIANはまた良いライブをしたことを報告できそうです。

 

 

どうも( ^_^)/

 

『イージー・ライダー』を観た者です。

 

 

 

 

 

アメリカンニューシネマは20代前半のときに何故かレンタルビデオのコーナーになってたのを観まくったんですがこれはまだでした。

 

『スケアクロウ』『ディア・ハンター』『フルメタルジャケット』『タクシードライバー』どれも好きです。ただどれもほぼ中盤で眠くなってもう一回観る羽目になります。

 

どうにもだるい時間が訪れるのがアメリカンニューシネマの唯一の弱点です。

 

エンタメに振らない硬派さに重きを置いていると言っても限度があろうと思うのです。

 

そういう、気取らないところが隆盛の理由だったのでしょうが。

 



といった時代が時代なので、ジャケットにあるような陽気でゴキゲンなロードムービーではないことは分かっていましたが90数分の映画の終わりはあまりにも唐突で理不尽です。

 

 

これが全米で大ヒットしというのはアメリカ全体がうつ病にかかっていたとしか思えないんですが、いろいろ調べると当時のヒッピー文化や北部南部の経済・思想的な格差が背景にあって相当緻密な内容であったようです。

髪の長い人間は自動的にならず者(もしくは“ホモ野郎”)にカウントされ、暴力にさらされる。警察も「何かやる前に逮捕しちまおう」と予防拘禁を容認する始末です。

進歩的な西海岸から保守的な東南部へとバイクを走らせる二人の旅は、どんどん陰鬱なものになっていきます。

 

映画も二人を冷たく突き放す、と同時に土地に根を張って農家を営むカトリック系の大家族を手放しで称賛したり、解放を求めて僻地に定住したヒッピーたちを結局農業に従事させたりする。

 

差別と格差と苦役はびこる保守的な風土と、どこか空虚なラブ&ピース、西も東も北も南もそれぞれの閉塞感があります。

 

『ロッキー』がアカデミー賞を取るまでずっとこんな感じだったのかと思うと、90年代に生まれて良かったとさえ思ってしまいます。

 

 

 

デニス・ホッパー監督は享楽的ながらギラついた目力が印象的、主演のピーター・フォンダのどこかくたびれた表情は「探し求めていたものは多分どこにもない」ことを分かっているような諦観を感じさせる演技でした。

 

若かりしジャック・ニコルソン演じる酒浸りな弁護士の「ここの連中は自由を語りたがるが、本当に自由な人間が来ると怖がって排除しようとする」というセリフが映画の閉塞感を見事に言い表しています。

 

自由の国が壊れかけていた時代の映画は、バッドエンドですがさまざまな気付きをくれます。