2026.1/1 19:52~ -3ページ目

 休みの日にブログを書くくらいしかやることがないのかと思うが、Twitterよりはましかもしれない。目くそ鼻くそである。

 

 ふと、今日はこれとこれがもうあるから明日の算段はつくので買い物には行かなくていいな、と考えた。

 

 瞬間、なるほど、私は買い物に行くのがめんどくさいのだなと理解した。

 

 買い物がめんどくさいと思ったことが今までなかった。否、己の中にそういう気持ちがあることに気が付いていなかった。

 

 やりたい、やりたくない、という二極的な感覚ばかりがあって、別にやってもいいが、なんとなく気が乗らん、というグラデーションな気分が表現できなかった。

 

 面白いものだ。

 

 何が面白いのだろうか。

 

 豹変。

 

 ふと我に返って文章を読み返すと、さきほどまであった天啓的な心持ちが霧消してしまって、なにやらよく分からんことを書いとるなこいつは、という冷めた気分になりつつある。

 

 言語化が下手くそということなのだろう。しかし、言語化してみたけどなんかダメだったというところまで書いてみると、これはこれで悪くないとも思えてくる。

 

 言葉にできない、ロマン的な意味合いはなく本当にただ自分の言語能力の拙さの仕業によるものであっても、非言語的な発見があった記録を残せたというところには、微かな満足を覚えるのである。

 

 ここまでで530文字程度か。

 

 もう少し何か書くか。800文字くらいまで。

 

 原油などの輸入が滞って時が経つが、えらいもので、本当に破局的な危機を前にすると、市民はいよいよトイレットペーパーを買占めにも行かなくなるのだなという、興味深い発見があった。

 

 まだ感染症のパンデミックなどはそういう意味で生易しい現象だったのだろうなと思う。本当に必要な、エッセンシャルな部分だけは動かしつつ社会の動きを止めてしまうのというも、当然それもさまざまな部分で苦しい状況を生んではいたが、原油や天然ガスなどはそれどころではないのであるからして。

 

 慌てたって騒いだって、我々に為す術はない。ないものはない。どうしようもない。そこまでくると、逆にみな冷静である。

 

 とはいえ、今回は一時的な停滞に終わるのだろうが、結局のところ、いつか来ることではある。

 

 資源はいつか必ずなくなるのである。一部の人々は、せっせと宇宙船を作って火星まで飛ぼうとしているが、それが成功しようと失敗しようと、将来は変わらない。我々はその滅亡の手前で、まず野に帰るのだ。この宇宙が永遠でないのなら、文明の終焉など、些末なことでさえない。

 

 1000文字になってくれた。満足だ。

 親愛なる自殺志願者への方に書こうかとも思ったが、二週連続で自動車の運転についての話もどうだと思い、それもなかなか連続性があって面白いとも考えたが、やはりこちらに書くこととした。

 

 煎じ詰めれば、右折を促されるクラクションを後ろから鳴らされたのが納得いかないという話だ。

 

 車の流れはいったん途切れたが、対向の右折車がブラインドになっており、完璧に安全確認ができたとは言えない状況だった。

 

 私ならクラクションは鳴らさない。なるほどと理解して、待つ。

 

 そこへ「行け」とでもいわんばかりにというか、まさにその通りのメッセージとして警笛を鳴らされたわけである。

 

 その結果として、私が対向車と事故を起こしたらどういうつもりだ? とか。

 

 そもそも、クラクションとはそういう用途で鳴らすものではないはずだが? とか。

 

 そんな一般論とは関係ない部分で、私の中に、ちょっと大きすぎる怒りが沸き上がってきた。

 

 今この場で車のサイドブレーキを引いて、降車し、後ろの車に乗っているドライバーを何とかして引きずりおろし、無茶苦茶にしてやろう、と。

 

 運転中のむやみなクラクションを控えようと思えるような経験をしてもらおうか、と。

 

 文字通り、殺人的な暴力衝動が全身を血流として巡っていくような、そういう、状況に比すれば明らかに過剰な怒りが沸いてきてしまった。

 

 いわばこの文章は、それをお焚き上げするというのか、消化するためのものである。

 

 こういう傾向というか性向というか、そういったものは、ずっと以前からあって、今にいたる。

 

 実際にそういった行為に及んだことはない。あれば、こうして正常な社会人づらをしてのほほんとブログなど書いてはいられていない。

 

 理不尽だったり、不当と思える他者からの侵襲。たいていのことは、なんとも思わずやり過ごせる。だが、そのうちの数回に一回が、破局的な怒りを呼ぶ。

 

 私の世間との付き合い方は常に「放っておいてくれ」が基本である。

 

 私だって他者に興味などない。人間が作ったものや為したことにはあるが、人間そのもの自体への興味はほとんどない。「私は誰のことにも興味を持っていないから、誰も私に興味を持つな」と、そういう無茶な願いを、根底には持っている。

 

 長閑(のどか)な独房、そんなものがこの世にあったらば、誰を差し置いても私を容れるべきだと思う。

 

 だから、私にとって他者からのコミュニケーションはすべてが暴力的な侵襲なのであって、それがまさしく暴力であるなら、私は正しく逆上するのである。たとえば、背後でけたたましいクラクションを突然鳴らされるような。

 

 こういう私の性向をもって、それをスキゾイドやシゾイドなどとも言ったりするが、こちらから見れば「どうしてそんなに人と安易にコミュニケーションがとれるのか。とろうと思うのか」ということなのだ。

 

 まさに私が完全なる“キレた”人間であったら、たった一度のクラクションが、文字通り命取りになる。そういう場合というのを、なぜ想定しないのか。

 

 私はそうするし、そんな風に人はコミュニケーションに正しく怯えるべきだと思うのだが、世にはあまりに安易なそれがまかり通ってはいまいか。

 

 どういう形であれ、他者と関係することへの怯えが無さ過ぎる。

 

 手痛い目に遭うのはあなたなのだぞ? と忠告したいが、それ自体が安易なコミュニケーションなので、私はただ見ていることしかできない。

 

 そうして人は「なぜ?」という顔をして被害に遭い、時に死んでしまう。

 

 私はそれを「当然だ」と思うのであるが。

 

 やはり書き味が『親愛なる自殺志願者へ』的になってしまったな。

 

 むしゃくしゃとした気持ちが完全に消えたわけではないが、ここいらでよしとしておこう。

 

 11日にブログを書く頻度が高すぎる。

 

 なんとなくそういうバイオリズムがあるのだろうな。

 

 完全に、誰に読ませるつもりもない形に落ち着いた今だからこそ出てきたデータという気もする。

 

 しかし私自身としては、こういうブログを読むのが好きだった。

 

 大抵はひきこもりで、無職で、死ぬついでにたまたま生きているといった様子のブログ主たちだった。

 

 今でもいくつかブックマークしているが、ひとつして更新されていない。はっきり「自殺します」と書いてぷっつり途切れた人もいる。

 

 まぁ、長続きする書き方ではないのだろう。

 

 カクヨムで、もう何のことやらよく分からん状態になっている『親愛なる自殺志願者たちへ』は、その手の散漫で自閉的な書き方ながら、もう六年以上続いている。ゴミのような情報でサーバーを圧迫するんじゃないと言われそうだが、テキストなど大した情報量ではなかろうよ。

 

 『カフカの生涯』というフランツ・カフカの評伝を読んだ。カフカも宮沢賢治も、生前にほとんど評価されなかった作家は、どうにもそのキャラクターが先行して消費されてしまうきらいがある。とはいえ面白いのだから仕方ない。

 

 カフカはそのほとんどが未完と断片に終わった小説と同等に、膨大な手紙が読者に親しまれている。親しまれてしまっている。手紙とは私信である。現代でいえば死後にLINEのやり取りを割られるようなものである。上品なことではない。しかし面白いのだな、困ったことに。

 

 その点でいうと『親愛なる自殺志願者へ』は現時点で40万字以上あるらしい。誰が読むのだ。しかし解析によると、誰かが読んでいるらしい。私の死後、カフカにとってのマックス・ブロートのような人物が祖父江直人を“発掘”するという未来があったしたら、研究者はこのやたらめったら長いだけの“手紙”を読まなければいけないのだ。今から少しずつでも推敲をしておくべきだろうか。

 

 今はもう、検索しても2020年以前の情報が出てこない。それ以外の方法で探せば出てくる。テキストは生きていても、検索は死んでいる。Webサイトも、いつまで持つか分かったものではない。

 

 やはり紙しかないか。

 

 50万弱の文章を吐き出すのに、コピー用紙はいくらいるだろうか。