答えはそこにあるが、敢えて示さない本~小坂井敏晶/格差という虚構 | ライブハウスの最後尾より

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邦楽ロックをライブハウスの最後尾から見つめていきます。個人的な創作物の発表も行っていきます。

 

 

どうも( ^_^)/

 

たまに指が五本じゃ足りないと思う者です。

 

いやいや、外因の沈殿物たる我々は生まれ与えられた手札で生きるしかないわけですが。

 

 

平等の問いには解が存在しない。四辺を持つ三角形を描こうと頭を悩ますように、平等は論理的な袋小路だ。それなのになぜいつまでも論争が続くのか。平等という地平線はなぜ消えないのか。格差を理解するためには近代の本質に切り込まねばならない。自由と平等は近代の宗教である。その化けの皮を剥ぐのが本書の目的の一つだ。

 

 

まさか二連続で同じ作者の同じようなタイトルの本を紹介するとは思いませんでした。

 

本書も“前作”と同じく神という幻想を殺したが秩序のため新たな幻想を生み出さざるを得なかった“近代”への激烈なラブレターです。

 

格差は無くならない。程度問題でもない。そもそも問題として設定したことが近代的思考がもたらす虚構であると、徹底的に喝破していきます。

 

が、読んでいる間はそんな印象がありません。

 

むしろ、「これ格差と関係あるのか」と思う話が続きます。

 

著者曰く「長い補助線」が引かれ続けます。

 

日本とフランスの学校制度の違い、それぞれの問題点。

 

一卵性と二卵性の双子を比較した研究に基づく遺伝率への批判。

 

数年前に大規模なデモが起きたフランスのイエローベスト運動の解説。

 

近代思想が行った主権の外部化についてルソー・ホッブスなどを引いて説明。

 

ユダヤ人についてや、主体の虚構性などは『責任という虚構』の繰り返しです。

 

 

本題の輪郭のさらに外縁を撫でるような話が延々と続いて最終的に「私は偶然に希望を見出す」などと言って本が終わっていく。

 

補助線だけ引いて本題に戻っていないのではと、「格差は近代が近代的思想で続く限りなくなりはしない」などとあまりに救いのない話だから最後に希望のあるっぽいことを書いて本を締めようとしているのではないかと、思ってのは一瞬でした。

 

 

本をすべて読み終えると、なにかとても自分の中で格差をどう捉えるのかとか、どう考えていくのかとかが、スッと腹落ちしていました。

 

本の最終盤に、幼い子供を亡くした母親に釈迦が「今まで一度も死人を出さなかった家に芥子(ケシ)の種を2,3粒貰ってくれば生き返らせてあげよう」と言った話が出てきます。

 

一心不乱に「人が死なない家から芥子の種を貰おうとする」母親は、自分の身体感覚と体験で「死なない人間などいない」と悟ることができたという話です。

 

 

自分で考えさせないと、本当には納得できない。「格差など無い」となかなか飲み下しにくい結論を“導かせる”ために長い迂回路を通ったのではないかと、そんな風に思いました。

 

 

既存の思考枠が、ここでは「問題は解決されねばならない」というような『べき論』から抜け出すことを邪魔する。

 

「解決しようとしている限り決して解決しない」これは近代といわずそれなりに長い一万年くらいの文明社会全般にいえそうです。

 

人類は飢えをしのぐため食糧を増やしたら人口増加が問題になり、生活を便利にさせようと産業革命で公害を出し、車を作って交通事故を増やし、法を作って冤罪を出し、自由闊達な言論ができるSNSで病んでいる。

 

目の前の不安に対処するばかりで、根源的な部分の問いがおろそかになっているのではないかと思います。

 

当たり前のように続いていることにこそ疑問と問題意識を持つべきなのではないか。なんで人間は生まれてきているのだろう。いや「生まれちゃったから」以上の意味なんてないんですが、そこをしっかり見つめられている人が何人いるのか。誰もがお仕着せの疑わしい価値観で自身を納得させている振りをしているばかりではないのか。

 

そもそも「問題を解決している」仕草こそが根源的な問題の外側の空白を撫でるような行為であって、人間が本来は無意味で無価値な存在だという“答え”に触れないようにしているだけではないのか。

 

人類総出で欺瞞とごまかしのナァナァ祭りを演じている、そう思えてならなくなりました。

 

そこまで考えたところで、この本の「偶然のよる希望」が真に迫ってきます。

 

格差、不平等、能力主義、なんと呼んでもいいですが、それらの外側、今の我々には予想だにしていない角度から思わぬ福音が舞い込むかもしれない。

 

とにかくはまずもって『べき論』から離れる。問題から離れる。遠くに離れて、問題自体の存在を忘れたとき、天啓としか思えないひらめきが降ってくる、かもしれません。ないかもしれない。でも「解決しよう」と思っている限り、そのわずかな可能性すらないのです。

 

これはある種、禅の心ですね。

 

求めているうちは絶対に手に入らない。

 

ここまで書いた自分の“気付き”はぜんぶ勘違いかもしれません。

 

まったく見当はずれのことを書いているとしたら、それが多分きっと大きな希望です。

 

俺の阿呆な駄文は、駄文であるからこそ思わぬ偶然を呼び込む、かもしれません。

 

 

こうしてブログを書いていることにも何か新しい楽しみを見出せました。

 

偶然を楽しみにしています。