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 ここ一時間ほど、かなり何もしていない。

 

 相変わらずよく映画を観ており、今日は真昼間から『羊たちの沈黙』を鑑賞していた。

 

 二度目だ。まだ二度しか観ていないのかと我ながら少し驚いた。大抵の古い名作の場合、TVで一回、レンタルのDVDで二回、そしてサブスクで三回目となることが多い。

 

 昨日の夜に観た『グリーン・マイル』もそういえば二度目だった。いずれも重めな映画だが、軽く観られる。『セブン』や『ブレードランナー』もそうだが、なぜか「観れちゃう」映画というのがある。逆に、内容のわりに、そう何度もは観たいとは思えない映画というのもある。違いは、まだよく分かっていない。自分の懐に“おさまる”感覚とでもいえばよいのか、上記作品には残虐な描写も多いが、鑑賞中の私はある種の「心地よさ」を感じているのである。そういうものがある作品と、ない作品があるのだ。

 

 また、これはお恥ずかしい話になるのだが、小説であれ映画であれ、また漫画でもアニメでもそうだが、私は一回観た・読んだだけでは内容を把握できない。

 

 一回こっきりのそれは、ただ下水管を勢いよく流れていった水がごときで、何が起きたかも、あらすじも判然とせず、どこに溜まることもない。二回目でよくやく「これはこういうことか」と何やら分かったような気になり、三度目でようやく腹に落ちていくといったありさまなのだ。

 

『羊たちの沈黙』に関しても、ラストシーンで脱獄したハンニバル・レクターが、どこぞの外国を歩いていることはかろうじて覚えていたが、それが自分を拘束していた精神病棟の院長を殺害するためだったことや、彼がそもそもどうやって牢屋から逃げおおせたのかといったことについては、なにひとつ覚えられていなかった。

 

 だから私は、世の書評家や映画評論家などといった方たちには最大限の敬意を持っている。あの方々は、たいていの場合、一回勝負で評論せねばならない。何度も同じ作品を鑑賞する時間的な余裕などないだろうし、それでなくとも現代的な“書く仕事”というのはスピード勝負だ。それでいて作品の芯を捉えたコラムに仕上げなければならないのである。

 

 私も、かつては評論のまねごとのごときをブログでやっていたが、もうやるまい。というか、できていないのだから、そもそもやれない。

 

 なぜこんなことをしていたのだろうかといえば、ヒトのまねごとをしていたのである。

 

 レクターの分析によると、バッファロー・ビルは性的倒錯者ではなく、過去に負った心的外傷のトラウマからそういう人間を模倣しているだけなのだという。己を倒錯者であると思い込むことで、ある種の防衛機制を作り上げ、それがゆえに狂ったシリアルキラーにならざるを得なかった。どこまでも模倣犯でしかないが、だからこそ行くところまで行ってしまったという、そこはかとない悲哀を感じさせる。

 

 私は、適応的な人を模倣し続けた。そして最近、それを辞めだしている。この先には、きっと何もないのだろうなと思う。

 

 だからここ一時間、私は、途方に暮れるでもなく、なにもしていないのである。

 アマプラで『マイノリティ・リポート』を観た。

 

 そこにあることを今日まで知らなかった。どうにもネットフリックスと比べて、そういう点での検索能力が低く感じられる。そのサイトだけで完結しないタイプのサブスクなのでしょうがないとは理解しているが。

 

 なにはともあれ、観た。

 

 素晴らしい。

 

 その一言だ。

 

 粗はあるのだろう。私自身、久しぶりに観ると「ちょっとアクションシーンが長いな」と思わないでもないが、そんな些末な部分はどうでもよろしい。

 

 圧倒的な未来世界のイメージと、そこに同居したスラムのすえた匂い、100%予知可能な計画殺人をどう実行したのかというSFミステリの爽快感、どれほど辛く苦しくとも父であり警官であり続けようとする主人公のドラマ、語り出せばきりがない。

 

 これを小学生のときに映画館で観られたということが、広く創作に向き合う上での強烈な原体験となっている。だからこそ、評価もかなり甘くなっているであろうが、誰にでもそういう作品はあるはずだ。

 

 これと『ブレードランナー2049』は何度でも観れてしまう。

 

 小説やアニメ・漫画・ゲームにも、そういう作品がひとつふたつある。なんなら食事のメニューにさえ毎日毎食でも食い続けられるというものがある。

 

 そういうことが苦にならない性格、というのも、もちろんあるのだろうが、なんでもいいというわけでもないので、やはりある種のマッチングというか、相乗効果があるのだと思う。

 

 ただそれだけを摂取し続けられる、三畳一間の座敷牢などがあればと妄想してしまう。

 

 というか、おそらく文明人の行きつく最上の空間がそれなのだろう。

 

 徹底的に孤立しながら、精神的にもっとも満たされた状態。

 

 我々はそういうものを目指すべきなのだろう。

 

 それは、四半世紀前のスピルバーグさえ描けなかった真なるユートピアの姿なのだ。

 

 

 これを読み

 

 

 

 これを思い出した。上手くリンクが貼れていない可能性があるので解説しようかと思ったが、そういうことはもう面倒くさくなってしまったのだった。

 

 どうしてザコに憧れているのか、という点で考えると、件の卒業式はりょうすけ氏の勝ちであろう。

 

 なんとなれば、事情はどうあれ人間同士のケンカは、最終的に“筋取り合戦”に落ち着くからだ。

 

 教師はりょうすけ氏の名を呼ばず、氏は教師のその振る舞いを受け入れた。

 

 筋を通したのはどちらか、考えるまでもない。

 

 逆に、どうして教師氏の方は「わたしはダサい人間です」「わたしは頭のおかしな教師です」と、全校生徒と職員たちへ高らかに宣言するような振る舞いを、せざるを得なかったのだろう。

 

 そこまでのことをしてもやらずにはいられなかったのだろう、と考えるのが普通だろう。実質的にはどうあれ、当該生徒を「いないもの」として扱うことで形式的には勝ちたかったのだ。どうしても。

 

 難儀なことである。

 

 教師氏にとっては、りょうすけ氏の名を呼ぶのは己の信義にもとることだったのだ。自分以外のすべてから否定されても、それによって教師氏の内面は崩壊を免れるのである。

 

 確かに、人間、最終的には、自分の外側がどれほどメチャクチャになろうとも、内側の自尊心さえ保てればいいのかもしれない。それはある種の孤高なのであり、ひとつのライフスタイルではある。

 

 自己を保つために、他者を損なう。無論これは社会適応的には悪と呼ばれるもののする行為であるが、生物として動物として人間として「生き残る」方を選ぶことを、そう簡単に断じてしまうのは躊躇を覚える。

 

 メンツが潰れたら死んでしまうというなら「まぁ、しょうがなかろう」と言うしかないという面も、確かにある。たとえ、客観的にはそのどう考えてもどうでもいいプライド以外のすべてが潰れているとしても、だ。

 

 私がりょうすけ氏の同級生で、その式典の場面に出くわしたら、笑い過ぎて椅子から転げ落ちてしまうかもしれない。

 

 私も、己の内側にこもるタイプではあるが、特に守りたいものはないのだな。

 

 壁は作れど、空っぽ。

 

 私も、多少は難儀な類なのかもしれない。