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ライブハウスの最後尾より

邦楽ロックをライブハウスの最後尾から見つめていきます。個人的な創作物の発表も行っていきます。

どうも( ^_^)/

 

謎々はどうしても長考しがちな者です。

 

パッと考えて閃きが無かったらとっとと次の問題にとりかかるのがコツなんですが。

 

 

 

 

ザ・バットマン

THE BATMAN

 

・あらすじ

 

再開発が進まず犯罪と格差がはびこるゴッサムシティの夜をブルース・ウェインは一人歩く。

空を照らすバットシグナルに大抵の犯罪者たちは怯え去る。

そうではない、恐怖を知らない暴漢たちをバットマンは徹底的な暴力で叩き潰す。

しかし腐敗した街は何も変わらない。

 

ある夜、現市長が自宅で何者かに惨殺される。

ゴードン警部補は事件現場にバットマンを呼んだ。

現場に残された“謎謎”に「バットマンへ」とあったからだった。

謎の犯罪者リドラーは市警本部長、検事を次々と殺害していく。

 

謎とリドラーを追ううちに、バットマンにとって最悪の、そして最後の標的が明らかとなる。

 

 

・青白い顔のブルース フィルムノワール・バットマン

 

アルフレッドの前で初めてバットマンの仮面を脱いだシーン、表情が文字通りブルース(Blues≒哀愁)というかもはやそれこそカート・コバーンなグランジ色をしていることに驚きました。

 

ポスターやタイトルにもなっている極赤と黒の暴力的な彩色と、ロバート・パティンソン演じるブルースの幽鬼のような青白い顔が見事なコントラストを描いています。

 

冒頭の陰鬱でリアリティあるバットマンの“暴行”シーンから、これは正しくフィルムノワールなのだと思いました。

 

『タクシードライバー』『セブン』『ゾディアック』といった犯罪をテーマにした作品や、暗くスタイリッシュでかっこいい探偵モノのイメージを上手くコラージュしながら、しっかり『バットマン』として成立させています。

 

なんとなればどんなに素顔が不健康だろうと、マスクにまったく守られていないワイルドなケツアゴは健在なのですから。

 

どう考えても明らかな弱点なのに、誰もそこを狙わない。このあたり、マット・リーヴス監督はしっかり作法を守っています。

 

『クローバーフィールド』や『猿の惑星』とはまったく違うし、重厚さに脚本が暗くなり過ぎそうなところを、超大作らしい絵作りでエンタメとして魅せます。

 

話がもたれたところで適度に素っ頓狂なニンジャアクションを入れ、よきところでバットモービルをぶっ飛ばし、はたまたコリン・ファレル演じるペンギン(エンドクレジット最大の驚き、まったく誰だか分からなかったです)にヨチヨチ歩きをさせる。やはりヒットメーカーなようです。

 

このギリギリなところでポップさを失わないバランスで、3時間の長尺を観させ切っています。

 

 

・リドラーの希望 バットマンがもたらすもの

 

リドラーはお仕着せの希望にすがって裏切られ、その鬱屈とした生活の中で街の自警団、復讐者として活動するバットマンから彼なりの薫陶を受けます。

 

ブルースがバットマンになってまだ2年程度というところで、その歩みは決して正しいわけではない、両親のいない哀しみと奪われた怒りを糧にするというかむしろ囚われて、自分でもどうしていいのか分からない若者らしい混乱の中にいるように見えます。

 

そんなバットマンが、実はリドラーに暗い希望を与え導いていたというのはなんとも皮肉です。

 

今作のゴッサムシティは今までの実写映画シリーズ以上に最悪の犯罪都市で、その遠因としてブルースの父トーマス・ウェインが志半ばで何者かに殺害され街の再開発事業が滞ってしまったことがあります。

 

退廃の極み、空虚な諦観が、当記事冒頭に張ったニルヴァーナの“Something In The Way”とともに流れています。

 

この“Something In The Way”、曲を聴くと二つのベース音を繰り返しているだけで、コードに常時ずっしりとした緊張感があり、どこにも解決しない。まさに絶望的な繰り返しを続け「なにをやっても無駄なんじゃないか」というゴッサムシティに漂う空気と合致します。

 

 

これは『バットマンビギンズ』とはまた違ったブルース・ウェインの成長譚です。

 

すべてが音楽業界のシステムに吸収され、なりたくもないロックスターになったカート・コバーンは27歳で死にました。

 

同じような、今にも死にそうな顔をしたブルース・ウェインはバットマンになった。

 

さて、どこへ行くのでしょう。

 

 

どうも( ^_^)/

 

左バッターのプッシュバントに魅力を感じてしまう者です。

 

アメリカのリトルリーグで監督をしながら、バントの重要性を知っていた男が衆目の中で逮捕されたところから、この物語は泥のような最悪の状況へ転がり出していきます。

 

アウトサイダー

スティーブン・キング

 

 

 

 

あらすじ

 

オクラホマ州の小さな田舎町フリントシティで、フランク・ピータースン少年が何者かに強姦後殺害される。

 

ラルフ・アンダースン刑事は捜査と市民の聞き取りで、犯人を高校教師テリー・メイトランドと断定し、彼が監督を務める少年野球の試合中に逮捕する。

 

現場に残された指紋やDNAや目撃証言などでテリーの犯行は揺るがないと思われたが、子供たちに慕われ名誉市民でもあったテリーは全面否認、また、犯行時刻に彼が遠い土地へ出張に出ていた事実が映像で残っており、殺人が物理的に不可能であったことが明らかとなる。

 

しかしラルフと、彼を起訴したサミュエル検事はテリー犯行説に固執し、マスメディアも大々的に報道しテリーの家族にも被害が及ぶ。

 

そして裁判所で、決定的な事件が起こり、事態は混迷を極めていく。

 

 

・ミステリーからホラーへの鮮やかな転調

 

キングは20世紀最高の作家のひとりですが、もうすでに21世紀最高の作家にさえなりかけていると感じるほど、読むのが止まらない作品でした。

 

 

上下巻に分かれた邦訳を読んだのですが、この上下の構成も素晴らしかったです。

 

まず、上巻で無実の罪を着せられたテリーが追い詰められていくさまを丹念に描きます。

 

もうこの時点でとてつもなく面白いです。

 

テリーは理知的なタフガイで、不当逮捕にもあわてず騒がず弁護士を呼び、高圧的な取り調べにも毅然とした態度で接する。

 

さらに、裁判所で自分に罵声と唾を吐きかけた男が暴動に巻き込まれたときは真っ先に助け起こしてやります。

 

品行方正で高潔な、なんでこんな善き人間がこんな理不尽な目に遭わねばならないのかと思わせる、見事なキャラクター造形です。

 

じりじりと人間が追い詰められていくミステリーは次第にスリラー色を強め、下巻に行き至ったところでキング作品らしいモダンホラーとして正体を現します。

 

この“転調”は、ややもすると肩透かしをくったように感じられる諸刃の剣でもあったと思います。

 

そこはそれ、御大スティーブン・キングが書くことで「なるほどいつものキングだ」と読者は納得します。違和感をその道50年のキャリアで蹴り飛ばす。それはそれで、やはりちょっとズルいかもしれません。褒め言葉です。

 

 

・それは正義の暴走ではなく

 

テリー・メイトランドとその家族、そしてピータースン家族を襲う悲劇は、ある怪物の底知れぬ悪意が引き起こしたものでした。

 

が、ただの悪意だけでは、“アレ”は起こらなかっただろうと、読み終えた後も思えます。

 

 

何はともあれラルフの勇み足がケチのつけ始めでした。

 

テリーの冤罪を示す違和感は、決定的なアリバイ映像が出る前からいくつもありました。

 

ラルフ始め警察と検察関係者たちはそれらを都合よく、もしくは事実を歪める形で無視し続け、テリー犯行説の“決め打ち”を改めない。

 

挙句の果てに焦らんでもいい功を焦り、テリーを街中の人間が見ている中で逮捕してしまう。

 

あまりに余計な“演出”です。

 

これで何が起きたか。

 

ラルフたちが追い詰められる。

 

今さら「テリーは無実でした」などとは言えなくなる。

 

予断と事実の順序が歪む。

 

殺人犯がテリーである証拠を探すのではなく、テリーが殺人犯である証拠を探すようになる。

 

似ているようで、これは大きく違います。

 

警察・検察にとって、テリーは犯人であらねばならない存在になったわけです。

 

ラルフたちの“正義”が歪んだといえます。

 

その歪みの源泉は、名誉欲でもあるし、出世欲もあったかもしれないし、そういった色気がまったく無いといえば嘘になるでしょう。

 

でもそれ以上に、フランク少年を殺した“悪”への憎しみがラルフたちの目を曇らせた。

 

凄惨な殺人に怒りは湧くでしょうが、それを憎しみに変えてはいけなかった。

 

冷たいことを書けば、被害者は他人です。警察、検察、司法は、犯罪に対して無感情に限りなく近い態度で臨むべきでした。

 

 

無理ですね。

 

 

自分ごと以外はすべて他人事だというなら、犯罪を捜査する必要も、裁判だっていらないかもしれません。

 

それもまたひとつの社会の形として考えられるかもしれませんが、少なくとも21世紀の現代社会は世界的にそういうことにはなっていません。

 

それは我々人間が、他者の痛みを自分ごとのようにとらえる共感力を持っているからでしょう。

 

悪を憎む感受性を持っているからこそ、秩序が維持されている、という側面もあります。

 

そしてそれが、諸刃の剣として間違った相手に牙をむくのです。

 

悪意は、そこを突くのでしょう。

 

今作が、一応の解決を見ながらとても“嫌な”気分を残すのは、人類社会のそうした脆弱性をこれでもかと見せつけられるからかもしれません。

 

 

とはいえ、一気読みしてしまう面白さは絶対的です。

 

ぜひ読んでみてください。

 

 

 

 

どうも( ^_^)/

 

サブスクで90年代の音楽を聴く楽しみができた者です。

 

温故知新というやつです。すでに世紀末も遠い昔となりました。

 

70年代の西部劇などもはや古典でしょうか。

 

 

荒野のストレンジャー

 

 

・あらすじ

 

ラーゴは鉱山採掘のために作られた西部の小さな町だ。

そこに、名もなき凄腕のガンマンが流れてくる。

男は街に来て早々酒場のチンピラ用心棒をあっという間に射殺する。

ついでに因縁をつけてきた女をコマし、馬小屋で犯す。

 

お仕着せの老人保安官はラーゴ採掘会社の町長らと男を新たな用心棒に雇う。

この街は近々出所するゴロツキ三人組の復讐に怯えていたのだ。

男は「この街のものを何でもタダで寄越すこと」を条件に依頼を飲む。

 

男は軟弱な住人たちを鍛えつつ、やりたい放題だ。

 

先住民族たちに毛布を無料でくれてやったり、

酒場で街の連中全員にビールを振る舞ったり、

町長を解任し、小男のモルデカイを新町長に任命したり、

静かに寝たいとホテルから客を退去させたり、

 

しまいには、パーティの準備をさせる。

街中の家を赤いペンキで濡らせる。

そうしてる間にゴロツキ共が来る。

こいつは一体何者なのか。

 

ついでに、この街にも、なにやら秘密があるようだ。

 

 

 

・亡霊か、きまぐれか

 

ならず者の無頼漢がその腕っぷしひとつで荒野の寒村を制圧する冒頭15分は若き監督兼主演イーストウッド(とはいえこの時点で43歳くらい)の存在感が凄まじく、ひたすらカッコいい西部劇が始まるのかと思いました。

 

 

しかし、物語はどうにも曲調に捉えどころがなく不穏なビートを刻み続けます。

 

 

チンピラを床屋で皆殺しにし、ひと暴れした名無しの男が宿屋で悪夢にうなされる。

 

最初は男の過去かと思ったら、違う人間がひたすら鞭で打たれている。

 

「誰か助けてくれ」と言って、しかし住民は誰も助けようとしない。

 

名無しの男は傍観者ですらない様子で、被害者が「お前ら地獄に落ちろ」と恨み言を遺し死んでいくところで目が覚める。

 

 

開拓西部の乾いた空気には似つかわしくない陰湿なリンチです。

 

この「いや~な感じ」のするところは、2000年代のイーストウッド映画に繋がる雰囲気です。

 

たとえば『ミスティック・リバー』とか『ミリオンダラー・ベイビー』とか『チェンジリング』とかです。

 

作品数がめちゃくちゃ多い、そして厳しく観てもその半数が佳作傑作の部類に入る監督の二作目である『荒野のストレンジャー』は、やはり凄味のある作品でした。

 

 

とはいえ、まだまだ薫陶を受けたと思われるセルジオ・レオーネ監督の影響が色濃く残っている感じもします。

 

 

跳ねっ返りのヒステリー女とねんごろになるでもなく、割合良心的な人妻と恋に落ちるわけでもなく、適当に見繕ったとしか思えない新町長の小男モルデカイと一番絆っぽいものを深めているのは、レオーネっぽいヒューマニズムを見出せます。

 

 

自分の罪に背を向けたすべての人間が業を返され痛い目に遭うラストの展開は爽快でもなく、突き放したように演出されています。この無常観はイーストウッドのヒューマニズムでしょうか。

 

 

さっきからヒューマニズムって連発していますが、意味はよく知りません。

 

 

ただ、映画を観ながらふと湧いて出てきたんですよね。

 

 

西部劇には、古い名作にはこうしたヒューマニズムが多く観られます。

 

 

温故知新、いや新しきを知れるかは分かりませんが、面白い視点だとは思います。観てみてください。