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ライブハウスの最後尾より

邦楽ロックをライブハウスの最後尾から見つめていきます。個人的な創作物の発表も行っていきます。

 

どうも( ^_^)/

 

自分のライブよりもオリンピック野球金メダルについて書く方が早かった者です。

 

ところで、『SonnyBoy』というアニメが面白いです。

 

その4話で、モンキーベースボールという、猿が野球をする話が出てきます。

 

消化試合で、あと1球で完全試合という試合。

 

ピッチャー猿が投げた球は、僅かに外れてボール。

 

「いや、そこはストライクしたれよ」というエース猿と観客猿。

 

しかし、球審猿は譲らず、続けてきわどいところをボールと宣告。

 

フォアボール。完全試合の夢を断たれた観客は暴徒と化し、球審をリンチに処す。

 

審判のいなくなったモンキーベースボールからは秩序が消え、“野球”そのものが死んでしまう。

 

 

野球とサッカーは、誤審に荒れやすい二大スポーツです。

 

 

サッカーは世界最高のW杯という舞台があるゆえ、熱くなりやすいからだと思われますが、野球に関しては、そもそもいろいろと曖昧に誤魔化してるところが多い。

 

先ほどのアニメのエピソードでもあったように、ストライクゾーンというのは確かにルールブックに明確に記されてはいます。

 

が、ときに160㎞/hで、しかも変化する(ストレートと言えども“真っ直ぐ”飛んでくることはない)ボールです。

 

バッターの前のどこを通過したかを一瞬で判断し、ストライク(打つべき球)とするか、ボール(アンフェアボール打つことができない球)とするか。人間の目ですべて正確に行うのは不可能です。

 

また、ボテボテのショートゴロをさばき、その送球が一塁手のグラブに収まるのと、バッターランナーがファーストキャンバスを駆け抜けるのをほぼ同時に見ることは、たぶんできていません。

 

最近はビデオ判定もありますし、テレビ画面でストライクゾーンを表示する放送もありますが、だからといって審判にそれが見えるわけでもない。

 

見えていないんだけど、そこは見えていることにしておかないと、ベースボールというゲームが成り立たない。

 

そういった部分で、野球は非常に渡世の仁義を重んじるスポーツといえるでしょう。

 

 

それはそれとして、間違えられた選手はえらいことです。

 

プロの世界なら、たった一本のヒットや三振やフォアボールが勝ち負けはおろか、その年の年俸どころか引退にまで直結することがある。

 

完全試合なんて達成すれば引退後も長く語り継がれる伝説になります。

 

だからって誤審だと思ったからって審判を殺すのはいけないよね、なんて正論をこきたいわけではないです。

 

 

俺たちは人生でそういう“誤審”に何度も出会って、そのつど受け止めていかにゃならんということにフォーカスしたい。

 

これはどう考えても間違いだ、不当だ、不公正だ、不条理だ、憎い許せない殺してやると思ったときに、どうグッとこらえて“次”にいけるか。

 

書きながら答えに辿り着くというのは、書くことの効用の一つです。

 

いみじくもはからずも手前味噌ながらにも俺が俺の手によって“次”と書いたそれが答えではないかと思います。

 

次に続く人生があることが、受け入れられるただひとつの理由です。

 

野球に負けたからって命を取られるわけじゃない。

 

「誰も死んでいない、殺し合いも起きていない」ならそれでヨシ! とすることが、“誤審”のある世界で生き抜くコツなのかもしれません。

 

それはつまり、戦争が起こったらその時点でおしまいということです。

 

殺し合わずにやっていきましょう。

 

 

誤審で画像検索して適当に貼り付けようと思ったらロクでもない絵ばかり出てきたので俺が好きなテングザルの写真を貼っておきます(なんで)。

 

 

 

どうも( ^_^)/

 

盆暮れはおはぎな者です。

 

祖父江家というやつは甘い物を食えるのが俺しかいないにも関わらずなんだか甘味を多く買ってくるので、夏ほど太ります。

 

今年は「カロリーを二日分で考える」という食事法を試して、善戦しています。

 

どういうことかというと、単純に「今日は3000カロリーも食い過ぎたから明日は1000くらいにしておこう。二日併せて4000なら適性」という風に考えるのです。

 

そんな細かく計算したり、アプリを導入したりはしませんが。

 

だいたいですよ。だいたい。

 

それで62~63㎏くらいの体重で安定しているので、まぁ「ようやっとる」方です。

 

 

今日書きたいのは、この考え方の話です。

 

 

俺は人生に大それた目標も目的もありません。

 

そして、いろいろありましたがなんだかんだこの人生で十分だとも思っています。

 

知足安分(ちそくあんぶん)などと意識高いことをいうつもりもなく、自分の人生からできる限り苦しみと痛みがなければそれでいい、と、欲といえばただそれだけなものです。

 

 

この「だいたい良き方にようやっとる」という考え方、人によっては難しいのかもしれません。

 

たとえば、大きな話として“人権”を考えてみます。

 

人権は、この社会に生きるすべての人間に平等に与えられた権利です。

 

何人たりとも人として生を受けたその瞬間から、生存の権利が保証されると、それは誰かからもたらされたのではないと、天賦人権というやつだと教わります。

 

これはつまり建前というやつで、人間社会が血みどろの戦争・紛争・虐殺・差別・迫害・魔女裁判などなどの殺し合いをぐちゃぐちゃに繰り返して、みんながみんなげんなりした顔で「これもうやめようや」と思ったときに考え出された概念なのだろうなと個人的には思っています。

 

 

概念ということは実体がないわけです。ありていにいえば幻想です。社会というゲームを平和裏に薦めるためのルール。「そういうことにしときましょうね」と結んだ紳士協定。

 

だから、どうしても資本主義的というか物質主義的な考え方をしてしまうと「わたしにはそんなものなかった! 人権なんてハリボテだ!」と怒る人も出てきます。

 

たしかにハリボテではあるんですが、ハリボテであったとしても「これは実際にあるんだ。そしてすばらしいものなんだ」という“ことにしておく”のが大事という話をしています。

 

 

こういう抽象的な話が、「だいたいようやっとる」という考え方をすると簡単に了解できるのです。

 

 

なんだかんださまざまな問題を抱えつつも、70年以上もの間、第三次大戦も街への核投下も起こらなかった。致死性のウイルステロで人類滅亡なんてことにもなってないわけです。

 

 

人の苦しみや痛みは、確実に減っていると考えていいでしょう。

 

我々は、「だいたいようやっとる」わけです。

 

それでよし、ということに今はしときませんか。と、最近のいろいろなニュースを観て思いました。

 

 

二日でだいたい4000キロカロリー生活を始めてから、満腹はよくないなと思い始めました。

 

人間、30歳も超えてきたら、もうそんなに食べなくてもいい。

 

ただ、一度満腹になってしまうと、次も満腹になるまで食べないと、満足できない身体になってしまっている。また、空腹にすごく不安を感じるようになってしまう。腹八分目で満足が得られないから、つい毎日食べ過ぎて太ってしまっていたようです。

 

我々はつい満たされることを望んでしまいますが、同時に満たされないことが不安を呼び、またそれが不満になり、結果として新たな苦しみを背負い込むことになるのかもしれません。欲に支配されているともいえる。

 

 

満たされずとも足りている。

 

 

そんな状態を目指したいものです。

 

 

何が言いたいかというとですね。

 

 

 

 

こんな満たされた食事は、二週間に一回くらいで十分です。

 

 

そういうことです。

 

 

 

 

どうも( ^_^)/

 

オリンピックで伊豆のマウンテンバイクコースに驚愕した者です。

 

人間の限界を見たところで、人間の有り様も見てみます。


伊豆の踊子・禽獣





・伊豆の踊子

読むのは二度目でした。

二十歳の東大生と、十四歳の旅芸人の末娘の交流を軸に据えつつ、階級の上下、格差社会の闇をほんのりと描き出す短編です。

 

二十歳の私は自分の性質が孤児根性で歪んでいると厳しい反省を重ね、その息苦しい憂鬱に堪え切れないで伊豆の旅に出てきているのだった。(P.46)

 

孤児で、東大生のエリートといったところは作者そのままで、どうやら実際に伊豆を旅行した経験がもとになっているようでもあり、純文学でありつつエッセイのようにも読める作品です。

 

道中、≪物乞い旅芸人村に入るべからず≫とあるように、旅芸人は差別的な扱いを受けることもあり、また冒頭でも主人公にはやたらへりくだる人間が、踊子たち芸人一家には冷淡な態度をとったりします。

 

しかし、そうしたいわゆる一つの下流階級の人間たちと触れ合うことで、主人公は「いい人」の評を頂戴することになり、こう思います。

 

「ほんとにいい人ね。いい人はいいね。」

 この物言いは単純で開けっ放しな響きを持っていた。感情の傾きをぽいと幼く投げ出して見せた声だった。私自身にも自分をいい人だと素直に感じることができた。(同)

 

虐げられる人々に認められる。

 

やや意地悪な書き方をすれば、優越感にも近いかもしれません。

 

とはいえ間違いなく、純なる交流というものを通して救われた人々を描き出した優しき傑作だといえます。

 

最後に一つ、ちょっと謎めいた文章があったので引用します。主人公と踊子の別れ間際のシーンです。

 

はしけはひどく揺れた。踊子はやはり唇をきっと閉じたまま一方を見つめていた。私が縄梯子(なわばしご)につかまろうとして振り返った時、さよならを言おうとしたが、それも止(よ)して、もう一ぺんただうなづいてみせた。(P.54 強調は引用者)

 

「さよなら言おうとした」のは誰でしょう。

 

国語の問題ですね。

 

さらりと読み下してしまうと、これは間違いなく「踊子」だと思われますし、川端本人もそう言っています。

 

それで答えじゃないかとは思うんですがしかし、この短編の構成として、全編が主人公の主観をもって語られているのです。

 

とすると、文章の作法として、ここで急に踊子の心情を語るのはやや不親切といえます。

 

『孤児根性』でジメジメ湿った水タイプな主人公が、急に読心術使いのエスパータイプになるのはいかがなものか、と思ったら、実際にかなり議論が交わされていたようです(ウィキペディア参照)。

 

きっと、主人公と踊子はこの瞬間に、とても心が通じ合っていたということなのでしょうね。

 

静かで朴訥とした雰囲気を感じる短編ですが、なかなかロマンチックな物語でもあったわけです。

 

 

禽獣(きんじゅう)

 

愛玩動物を飼育することの業を描いたような作品、動物が好きと言いつつ、自分の思ったように飼えないとすぐに捨てたり殺したりしてしまう尋常な薄情さのようなものを感じました。

 

この何となく嫌な雰囲気を感じる文章というのがさすがノーベル賞だなと思うところでもあり「川端はつまらん」と言われてしまうところなのだと思います。

 

読み手の感じ方に委ねるような書き方は、現代のポップな文章に触れている身からすると、たしかに分かりづらくはあるんですが、ある種の潔さを感じます。

 

「俺の文章だぞ。微に入り細を穿ち行間の間にまで目を凝らして読め」

 

というアンチポップなストロングスタイルです。

 

 

この短編集の最後に乗っている三島由紀夫の評論から、川端の文章について引用します。

 

 ところで、川端さんの傑作のように、完璧であって、しかも世界解釈の意思を完全に放棄した芸術作品とは、どういうものなのであるか? それは実に混沌をおそれない。不安を恐れない。しかしそのおそれげのなさは、虚無の前に貼られた一条の絹糸のおそれげのなさなのである。(中略)

 川端さんのこういうおそれげのなさ、自分を無力にすることによって恐怖と不安を排除するという無手勝流の生き方は、いつ始まったのか?

 思うに、これはおそらく、孤児にひとしい生い立ちと、孤独な少年期と青年期の培った者であろう。死のように極端に鋭敏な感受性を持った少年が、その感受性のためにつまづかず傷つかずに成長するとは、ほとんど信じられない奇跡である。

 

川端の文章からは、常になにかを諦めたような虚無が覗きます。

 

虚無を吐き出し書き連ねることこそ、川端にとって自分を救う行為だったのかもしれません。