どうも( ^_^)/
盆暮れはおはぎな者です。
祖父江家というやつは甘い物を食えるのが俺しかいないにも関わらずなんだか甘味を多く買ってくるので、夏ほど太ります。
今年は「カロリーを二日分で考える」という食事法を試して、善戦しています。
どういうことかというと、単純に「今日は3000カロリーも食い過ぎたから明日は1000くらいにしておこう。二日併せて4000なら適性」という風に考えるのです。
そんな細かく計算したり、アプリを導入したりはしませんが。
だいたいですよ。だいたい。
それで62~63㎏くらいの体重で安定しているので、まぁ「ようやっとる」方です。
今日書きたいのは、この考え方の話です。
俺は人生に大それた目標も目的もありません。
そして、いろいろありましたがなんだかんだこの人生で十分だとも思っています。
知足安分(ちそくあんぶん)などと意識高いことをいうつもりもなく、自分の人生からできる限り苦しみと痛みがなければそれでいい、と、欲といえばただそれだけなものです。
この「だいたい良き方にようやっとる」という考え方、人によっては難しいのかもしれません。
たとえば、大きな話として“人権”を考えてみます。
人権は、この社会に生きるすべての人間に平等に与えられた権利です。
何人たりとも人として生を受けたその瞬間から、生存の権利が保証されると、それは誰かからもたらされたのではないと、天賦人権というやつだと教わります。
これはつまり建前というやつで、人間社会が血みどろの戦争・紛争・虐殺・差別・迫害・魔女裁判などなどの殺し合いをぐちゃぐちゃに繰り返して、みんながみんなげんなりした顔で「これもうやめようや」と思ったときに考え出された概念なのだろうなと個人的には思っています。
概念ということは実体がないわけです。ありていにいえば幻想です。社会というゲームを平和裏に薦めるためのルール。「そういうことにしときましょうね」と結んだ紳士協定。
だから、どうしても資本主義的というか物質主義的な考え方をしてしまうと「わたしにはそんなものなかった! 人権なんてハリボテだ!」と怒る人も出てきます。
たしかにハリボテではあるんですが、ハリボテであったとしても「これは実際にあるんだ。そしてすばらしいものなんだ」という“ことにしておく”のが大事という話をしています。
こういう抽象的な話が、「だいたいようやっとる」という考え方をすると簡単に了解できるのです。
なんだかんださまざまな問題を抱えつつも、70年以上もの間、第三次大戦も街への核投下も起こらなかった。致死性のウイルステロで人類滅亡なんてことにもなってないわけです。
人の苦しみや痛みは、確実に減っていると考えていいでしょう。
我々は、「だいたいようやっとる」わけです。
それでよし、ということに今はしときませんか。と、最近のいろいろなニュースを観て思いました。
二日でだいたい4000キロカロリー生活を始めてから、満腹はよくないなと思い始めました。
人間、30歳も超えてきたら、もうそんなに食べなくてもいい。
ただ、一度満腹になってしまうと、次も満腹になるまで食べないと、満足できない身体になってしまっている。また、空腹にすごく不安を感じるようになってしまう。腹八分目で満足が得られないから、つい毎日食べ過ぎて太ってしまっていたようです。
我々はつい満たされることを望んでしまいますが、同時に満たされないことが不安を呼び、またそれが不満になり、結果として新たな苦しみを背負い込むことになるのかもしれません。欲に支配されているともいえる。
満たされずとも足りている。
そんな状態を目指したいものです。
何が言いたいかというとですね。
こんな満たされた食事は、二週間に一回くらいで十分です。
そういうことです。