マイノリティ・リポート -25ページ目

日本の終わり

文化の底の浅さが気掛かりなのである。

日本の批評は、誰でもない人間が作ったものに対しては重箱の隅を突くように評価が辛い。
しかし、これが職業作家相手では盗作にすら寛容になるようだ。
一億総2ちゃんねる化と言った方が分かりやすいかもしれない。

長いものに巻かれていては己が悪意にも気づくまい。
「源氏物語」の文を交わす場面をEメールに置き換えるような「あんみつ姫」程度の翻案を
新聞の文芸評は「極端」と書く。
評者がうぶなのか、ただ単に日常を含めて小説以外の事が眼に入らないような生活をしているのかは僕には知る由もない。

遠くない未来、僕は日本を離れるだろう。
そして、日本に終わりが来る。
僕が居なくなるからではなく、ボイコットが起こって手を汚すものが居なくなるからだ。
人々は深く悔いるが既に遅く、その頃には僕が何を書いたかなど忘れてしまっているだろう。
彼らがいま、誰から何を盗んだかを忘れたがっているように。

現代ニッポンのナチズム

いまアメリカで、公開されているベン・スティラーの映画が物議を醸しているそうだ。問題になっているのは、知的障害者をモデルにした映画について、登場人物が言うセリフである。

「『レインマン』は記憶力がズバ抜けているし、『フォレスト・ガンプ』は卓球でトップになった。
でも、ただのアホな主人公の映画なんて誰が見るんだ?」

スティラーにしては辛口(で真面目)なジョークであるが、
たぶん彼が問題にしているのは、いわゆるハリウッド的な”難病モノ”映画ではなく、それを見る観客の方だろう。

先の2作の映画は僕個人も好きなのだけれど、障がいのあるなしに関わらず、目前で嘲笑にさらされている者には無関心で、時にはバカにさえするような人間たちが、難病を扱った映画に涙を流す姿には日頃から疑問を感じていた。

その涙は、なぜ流れているのか?と。

ベンの肝心の映画については、見ていないのでなんとも言えないが、その点では、長年の僕の疑問を言葉にしてくれた彼に賛成する。

ついでに、そのセリフを聞かせてあげたい人が日本にいると言っておこう。

日本最高ともいわれる大学は輩出されるバカも相当であるらしく、その有名な脳科学者は、現在テレビで流れているスポットで「世界の中でとっておきのサヴァン!」と興奮するような声で言っていた。
サヴァンとは『レインマン』でダスティン・ホフマンが演じていた男の症例である。
言うまでもない事だが、それはモノではなく、獣でもなく、私とあなた程の人間の違いにある、わずかな差異につけられた名前である。

記憶力に優れたサヴァンはいるだろうが、ひとりの人間の個性としてあると考えるべきである。
「とっておきの日本人」「とっておきの視覚障害者」などという言葉が成立しないように、「とっておきのサヴァン」という言葉もまた成立しない。

かの脳科学者の、高揚する声の裏には、特技がないサヴァン、ダウン症や脳性麻痺の人間は「ただのアホ」でしかないという、彼の官僚的思考の貧しさがある。

このような発言を電波に載せる側もどうかと思う。

こういう奴らを信用してはいけない。

背中を別の言葉で言ってみろ

「まあ」、「陳腐」「など」と「いう」「言葉」の「陳腐」さにも「気づけ」「ない」「鈍感」な「人間」「ほど」「凡庸」を「嫌う」の「だろう」。
「新聞」「記者」「など」は、「昔」は「衝撃」が「走った」、と「記事」に「書け」ば「衝撃」と「書かれた」「紙」を「背中」に「張られ」て「走らされた」「もの」だ、と「いう」。
「バカ」な「上司」の「下」に「ついて」しまった「不幸」に「同情」は「する」が、「だから」と「いって」「慣用句」を「使う」のは「素人」なのだと「結論」「付ける」のは「あまりにも」「安直」だ。
「これ」に「賛成」「出来ない」なら、「先」の「笑い」「話」を「背中」「など」と「いう」「ありふれた」「言葉」を「使わず」に、「新しく」て「珍奇」な「言葉」を「作って」「書き」「直して」みれば「いい」。
「無論」、「陳腐」「鈍感」「凡庸」なども「同様」で「ある」。
「ついで」に、「いっそ」「新聞」も「新しく」て「聞いた」「事」が「ない」「ような」「表現」で「書き」「表して」は「どうか」と「思う」。

「常套句」、「決まり文句」、「ありふれている」、「など」と「否定」した「ところ」で、「その」「存在」を「無」にする「事」は「出来」ない。
「何故」なら、「慣用句」は「長い」「年月」の「流れ」の「中」で「精錬」されて「きた」「言葉」「だから」である。
『自分の中の楽器を鳴らす』などと「”アレンジ”」「した」「小手先」の、「寸足らず」な「言葉」を「使う」「より」も、
「素直」に『琴線に触れる』と「言え」ば「いい」。

僕はそう思う。

【題名は、「言葉以外の言語」で背中を表せという意図ですね。なぜ「背中」だったかというと自分では見られないものの比喩として書いた気がします 20110611 追記】

追伸:走馬灯のように、などはさすがに死語だと思うけど。