より詳しい情報・新しい知見をお知りになりたい場合「石造物を巡る」をご覧ください(2024年2月24日追記)。
徳川家康が幕府を開いた翌年、譜代大名の酒井重忠が川越10000石から33000石で移ってきました。家康から「汝に関東の華をつかわす」と言われたそうです。
※ 徳川四天王の酒井忠次(左衛門尉家)とは別系統の雅樂頭家と言われる家系です。有力な譜代大名で老中や大老を出している家系です。
前橋藩時代、姫路藩に転封後も松平家(雅楽頭酒井家)の墓が海龍院にあります。
3800㎡の広大な敷地にこんな形に配置されています。
高崎藩の井伊直政、館林藩の榊原康政、厩橋藩(後の前橋藩)の酒井重忠と信頼のおける重鎮を配置して関東の守りを図ったのです。
◎初代前橋藩主酒井重忠(1617年69歳)と正室臨川院の墓。
関ヶ原の戦い後、上野厩橋(前橋の旧名)に3万3000石の所領を与えられました。
五輪等や宝篋印塔が一般的な大名墓と思いますが、板碑型です。また夫婦の墓石がほぼ同じ大きさというのが微笑ましい感じがします。
戒名:脩賡院殿傑叟源英大居士
臨川院殿実継良朴大姉
※ 江戸時代前半の徳川・松平・酒井家の戒名を調べてみましたが、特に「源」が入っているものは無かったので、重忠の戒名も源氏を意識したものでは無いのでしょう。
2代前橋藩主酒井忠世(1636年65歳)
忠重の長男(伊勢崎藩32000石)より襲封。加増され125500石。1617年老中、晩年は大老に相当する役職を務めました。
墓石:隆興院殿発向源真大居士 前拾遺。 前拾遺とはどんな意味なのでしょう?
戒名:隆興院殿前発向源真大居士。
3代前橋藩主酒井忠行(1639年38歳)
152500石に加増も、8か月で没しました。
高野山の結城秀康の石廟みたいに、江戸時代初期の大名墓は石廟が流行ったのでしょうか?
忠行の石廟は中が空でした。
戒名:松巌院殿雪窓玖伯居士
◎4代前橋藩主酒井忠清(1681年58歳)
14歳で襲封し10万石に減封され、弟の忠能が伊勢崎藩を分地されました。老中・大老と幕府の要職を占め国元で藩政に携わることはありませんでしたが、絹取引で藩財政を確立しました。
墓標:故従四品羽林源成君之墓
戒名:大昌院殿従四品前羽林次将長得源成大居士
あと2回酒井家墓所の記事が続きますが、五輪塔・宝篋印塔を立てなかったのは何故なのでしょう? 徳川四天王舘林藩主榊原康政の墓は宝篋印塔だったのに。