箕輪城の井伊直正 | のめしこき日記

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 骨折中歴史ものの本を読んでいたら思い出したので、武田信玄から関ケ原の戦いを経て徳川家康の時代になる(途中変なのも混じりますが)までの愚考を再掲します。

 本日は箕輪城と井伊直政です。

 

 箕輪城は猛将長野業正の子どもの代に落城し、武田信玄の支配(真田幸隆らが城代)となります。武田氏滅亡後、織田四天王の滝川一益へ城主は移り変わりますが、本能寺の変に乗じて滝川を追い出した小田原北条氏の支配へと移ります。



 これを上ると本丸です。

 

 


 広大な本丸跡です。

 その北条氏邦の箕輪城は豊臣秀吉の小田原攻めの時に開城しました。
 1590年徳川家康が江戸に移封されると、徳川四天王の井伊直政は箕輪城に配置されました。豊臣秀吉の命令であったそうです。知略と武略に秀でた英傑ですから、家康にとって結果的に越後の上杉景勝や中仙道の押さえとしての役に立ったと言えるのではないかと思います。

 本丸から箕輪地区を望みます。8年間でしたが、直政はこの景色を眺めたのでしょう。
 1598年直政はより交通・経済の要衝の高崎に城を築いて移動し、箕輪城は廃城となりました。

 当時は高崎の地は和田と呼ばれていました。地名変更を考えた直政が信頼を寄せる僧の助言を受けて、「成功高大」の意味を持つ高崎と名づけました。
 箕輪城の隣のみさと梅林から高崎市を望んだ写真ですが、以後現在では県内最大の都市に発展しています。
 しかし、群馬県民・高崎市民の間では井伊直政の知名度はそれほど高くありません。箕輪城の城主はだれ? 高崎城の城主はだれ? と聞いても、歴史に興味ある人を除けば知らない人が多いと思います。


 関ヶ原の戦い(1600年)では先鋒を任された福島正則を出し抜いて、石田三成陣に突進する猛将で井伊の赤備えとして名を馳せました。西軍の島津隊の東軍突破の退却では島津隊を猛追し、島津義弘の甥の豊久を打ち取っています。その時銃撃を受け大けがを負っています。
 関ヶ原後は石田三成の居城だった佐和山城に移り、佐和山藩18万石の経営と、西軍諸将の監視、戦後処理に忙殺されます。しかし鉄砲傷が癒えず、1602年に亡くなります。領地には名君石田三成を慕う領民も多く治めるのに気苦労も多かったことでしょう。


 国宝彦根城の建設開始が1603年ですから、直政は彦根城を見ることなくこの世を去りました。しかし高崎藩12万石に加え彦根藩35万石(佐和山藩を発展吸収)の礎を築いた人物であることは間違いありません。