皆川城~山城の形がよくわかる~ | のめしこき日記

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 出張が終わって栃木市皆川城内町をドライブしていると、

 のめしこきの触覚を刺激する景色がありました。
 山が頂上付近まで人工的に削られています。
 となると、ハンドルは勝手に引き寄せられていきます。
 立派な山城に見えます。
 皆川公民館の無人ポストに入っていたパンフレットをいただいて、読んでみると、やはり皆川城という山城です。そういえば、出張先の所在地が、皆川城内町でした。
 運動する服装ではなかったし、そこまで時間もなかったので、登城することはできませんでしたが、いつか登城してみたいものです。頂上からはどんな景色が見えるのでしょう。
余呉くんのHPよりお借りしました)
 
 皆川城はこんな感じだったのでしょう。ほら貝のような形状なので法螺貝城とも呼ばれていたそうです。
 
 山城は、林に囲まれているところが多く
(上杉謙信・景勝の春日山城
(長野業正・井伊直政の箕輪城
(立花宗重・丹羽長秀の赤館城
(村上義清・真田昌幸の砥石城)
(武田勝頼を迎えるはずだった真田昌幸の潜龍院
 など、写真はありませんが岩櫃城も含めて、木が生い茂り、往時の姿とは違います。木があれば見晴らしが悪いし、籠城したとき火を放たれれば戦わずして落城してしまいます。
 ですから、この皆川城を偶然見つけたときは、ちょっと気持ちが高揚しました。
 
 皆川城は室町時代中期の1429年に皆川秀宗(長沼より改姓)によって築城され、以後現在まで19代続いているそうです。
 途中豊臣秀吉の小田原攻めでは、皆川広照は北条氏に加勢し、小田原城に籠りましたが、徳川家康の勧めにより寝返り(パンフレットには「寝返り」とは書いてありませんでした)、城を抜け出して許しを請い、所領を安堵され、旗本として生き残りました。
 金剛寺には現在までの皆川氏の墓があるそうですので、いつか登城と墓参りをしてみたいと思います。