羽柴五郎佐エ門長重(丹羽長重)は関ヶ原の戦いの後、棚倉5万石として移封れさ、まず赤舘城を拠点にしました。
実はこの城の存在は全く知らず、ドライブ中たまたま宇賀神社という神社を見つけ、ちょっと寄ってみたのです。結構長い階段を汗まみれで上り、着いたところにたまたま宮司さんがおり、隣に城跡があると話を伺って寄ってみたのです。なお、宮司さんは本殿まで車でいらしていましたので、車道もあるようです。
赤舘城址から眺める棚倉町です。標高345mの赤舘山頂にあり、現在は公園緑地として整備されて、車で行くことができます。
関ヶ原の戦い後の1609年立花宗茂が1万石で城主になっていたところに、1622年に丹羽長重が5万石で移封されてきました。
この盛り土のところに館があったようです。
この広場は何があったのでしょうか。
5万石の領主の城としては狭かったようで、長重は2年後の1624年に棚倉城を築城を始め、移っていきました。それとともに赤舘城は廃城となりました。
説明板には「赤舘は戦国の城郭に過ぎないので、5万石の家臣団を擁する城郭でなかった」とあります。
長重が移封されたのは大阪の陣が終わって7年後ですから、徳川の治政が安定し、山城の必要性が薄れたことも影響しているのではないでしょうか。
戦が無さそうなら、平地にあった方が都合がよい、とオヤジは自分の腹を眺めながら思います。
それはさておき、経済活動の効率を考えたのも一因ではないでしょうか。それに領民の暮らしもよく分かるし、領主様・家臣団の生活も平地の方がしやすいし。
ところが、この長重は棚倉城が完成する前の1627年白河藩10万石にまた移封され、小峰城(白河城)を築城しました。栄転だとはいえ、藩財政は火の車だったのではないでしょうか。何しろ越前・若狭・加賀2郡123万石→若狭15万石→若狭松任4万石→加賀小松12万石→改易(関ヶ原で西軍だったため)→常陸古渡1万石→常陸江戸崎2万石→棚倉5万石→白河小峰城と猫の目のように異動を繰り返し、少なくとも棚倉城と小峰城を作ったわけですから。
現代なら出世はよいから落ち着いて暮らしたいと思う人も多いのではないでしょうか。長重はどんな気持ちだったのでしょう?