さすがは上杉謙信公、そこかしこに馬防柵。
・・・そんな妄想に駆られながら春日山城へ向かいます。
細い道をのぼります。謙信もこの道をのぼったかと思うと、感慨深いものがあります。
ただ、ほぼ同時代に生きた織田信長の安土城はのぼり始めのところから6~7mの道幅で、180mの直線の石段です。安土城は防御というよりは威容を見せることに、春日山城は防御に重点を置いているようにのめしこきは思いました。
7月の大雨で二の丸付近が崩落しているのは残念ですが、主要な所へは行けます。
「真田丸」では景勝を補佐して活躍中の直江兼続の館。
毘沙門堂。悪魔を倒す毘沙門天を信仰し、軍旗に「毘」の文字を使いました。
謙信は出陣するにあたり、護摩堂に籠り戦勝祈願したそうです。
(林泉寺山門)
7歳で城下の林泉寺にあずけられましたが、そんな影響で場内に宗教施設がいくつもあるのでしょうか。
関東管領上杉憲正を助けて上杉の家督を譲られた謙信(したがって、長尾から改姓)は、以後関東管領(鎌倉公方を補佐する関東地方のNo.2でしたが、公方とも争っていました)として他国から救援を要請されると秩序回復のために幾度となく出兵しました。
信濃で武田信玄と戦い、関東で北条氏康と戦い、足利将軍家から要請され上洛途中で48年の生涯を閉じました。
この平野を見て、謙信は何を思ったか。降雪地帯の山城。平時は城に住まなかったかも知れませんが、それにしても除雪をしておかない訳にはいかないでしょう。
雪に閉ざされさえしなければ関東管領の仕事ができる・・・農閑期で雪に閉ざされない期間しか戦えない謙信はそう思ったかも知れません。
第一義・・・万物の真理。謙信は領土的野心より大義名分のある戦いをしました。関東管領として、或いは信玄に脅かされた北信濃の国衆救済のため。織物(越後縮)の収入が結構あったようですが、領地拡張=経済力の拡大を目指し戦う大名の中で大義名分を貫くのは、変わり者と言っても良いと思います。
しかし、兵も価値観を共有していたのでしょうか? のめしこきの感覚からすると、そう多くの兵が義を第一に戦ったわけではないと思います。利を第一と考える兵も多かったのではないか。
謙信の兵の9割は農民兵で、領主に人質を取られているようなものですから敵前逃亡は無かったでしょうが、自身の価値観と乖離しないように兵のモチベーションを高めることに謙信(或いは家老たち)は腐心しただろうなぁ、と思いました。
信長の兵は傭兵ですから、第一利の軍団です。分かり易いモチベーションです。
第一義・・・「敵に塩をおくる」。変わり者の上杉謙信は、のめしこきの好きな戦国大名です。