琵琶湖疏水 殺人事件!? | レールは、こころをつなぐ道。

平安京以来、千年以上にわたって日本の都であった京都は、明治維新における事実上の東京遷都によって人口の約3分の1が減少し、「いずれ狐や狸の棲家になる」といわれました。しかし、人々はただ嘆いたのではなく、京都と大津を結ぶ「希望の水路」琵琶湖疏水の建設に、都市再生の望みを託したのです。
明治14(1881)年、第3代京都府知事に就任した北垣国道は、琵琶湖から引いた疏水の水力で新しい工場を興し、舟で物資の行き来を盛んにしようと計画しました。
当時の京都府の年間予算の2倍という、莫大な工事費を要する前代未聞の大事業には、当時最新の技術や知識を学んでいた若い才能が抜擢されました。工部大学校(現在の東京大学工学部の前身の一つ)を卒業したばかりの田邉朔郎(当時21歳)を工事の担当者として迎え、欧米の測量術を学んで実績を積んでいた島田道生(当時33歳)が精密な測量図を作成し、明治18(1885)年に工事が開始されました。

※日本遺産 琵琶湖疏水HPより

 

琵琶湖疏水記念館
 
「紙兎ロペ」コラボ動画

 

俳優 船越英一郎さんと梅林秀行さん リビング京都対談記事↓